室町時代の画僧・雪舟等楊生誕の地とされる総社市赤浜に、その功績を後世に伝えると共に、多くの人々が集い、交流する公園として雪舟生誕600年の年である令和2年に開園しました。園内には広場のほか、展示・交流施設や室町時代を感じられる家屋もあり郷土の誇りである雪舟に親しむことができます。
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電話番号 | 0866-90-2025 |
料金 | 無料 |
所在地 | 総社市赤浜2025 |
休館日 | 年末年始 |
建物は大正4年に倉敷幼稚園の園舎として建てられました。当時としては、珍しい八角形の遊戯室のある建物を残すため、この地に移され、資料館として生まれかわりました。幕末から現代までの教科書や、学校で昔使われた文房具などを展示しています。
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電話番号 | 086-422-7239 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市西中新田669 |
休館日 | 月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)12月28日~1月4日、その他 |
ベンガラ窯元片山家の分家で、明治12年に建築された建物が当時のまま保存されています。
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電話番号 | 0866-29-2205 |
料金 | 大人500円・小中学生250円(旧片山家住宅と共通) |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋699 |
休館日 | 12~3月の火・水・木・金(祝日は開館)、12月29日~1月3日 |
地球温暖化、大気や川や海の汚染などの環境問題、自然環境について、環境学習の拠点として、施設見学や講座を行っています。施設には、エコライブラリーやエコギャラリーがあります。エコチャレンジ大作戦など楽しく学ぶことができます。
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電話番号 | 086-440-5607 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市水島東千鳥町1番50号 |
休館日 | 土・日曜日、祝日、12月29日~1月3日 |
平成24年3月まで現役の木造校舎として国内最古とされていた小学校です。約7年間の保存修理工事を終え、令和4年4月に「学び」と「遊び」をコンセプトとした新たな施設として生まれ変わりました。※令和4年4月21日オープン予定
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電話番号 | 0866-29-2811 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 大人500円・小中学生250円 |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋1290番地1 |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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カラフルな照明で見たことのない世界が体験できる鍾乳洞です。鍾乳洞は、石灰岩が雨水などに溶けてできたもので、鍾乳石は1cm伸びるのに100年ぐらいかかると言われています。洞内はいつも15℃ぐらいで、夏は涼しく、冬は暖かいです。周辺には、自然豊かな遊歩道もあります。
※満奇洞をリアルに体験できるバーチャルサイト公開中
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電話番号 | 0867-74-3100 |
開館時間 | 8:30~17:00(入洞受付は16:30まで) |
料金 | 大人1,000円・高校生1,000円・中学生800円・小学生500円 |
所在地 | 新見市豊永赤馬2276-2 |
休館日 | なし |
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幕末の備中松山藩において藩政改革を成し遂げた郷土の偉人、山田方谷を顕彰する記念館です。山田方谷の生涯について、歴史資料や解説パネルでわかりやすく展示・紹介しています。
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電話番号 | 0866-22-1479 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 大人500円・小中学生250円 |
所在地 | 高梁市向町21 |
参考文献 | 流域パスポート |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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里庄町出身の博物学者。化石・岩石・鉱物・昆虫・動物などの標本と文献の収集及び調査研究を生涯にわたって続けた。また、民俗学にも興味を持ち、日本で初めての妖怪事典『現行全国妖怪辞典』を著した。
子どもが大好きな遊具を設置した「子ども広場」や健康づくりに最適な「ウォーキングコース」が整備された運動公園。ウォーキングコースの途中には展望デッキもあり、晴れた日には瀬戸内海を望むことができる。
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碁盤の目のような表面の割れ目を持つ形状が大男が着る鎧のように見えることから「鎧岩」と呼ばれています。
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笠岡市立カブトガニ博物館では、「カブトガニ繁殖地」の保護活動や研究に取り組んでいます。
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恐れ入ります。該当する情報がありません。
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遙照山南麓の金光町上竹地区を流れる竹川の上流では、5月下旬から6月上旬にかけてゲンジボタルの幻想的な光景に出会える。
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目通り周囲4.35m。根周り5.21m。高さ27.0m。推定樹齢300年。
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長い年月の間に地下水で溶かされた跡が波に洗われた跡のように見えるところから波形岩の名称がつけられた。
専教寺の境内にある樹齢推定300年のクロマツ。特に北に伸びている枝は非常に優雅で、龍が眠っている姿を思わせる。
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樹齢推定300年をほこるツバキ。
4月上旬から中旬にかけて、八重で美しい鮮紅色の花が咲く。
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戦国時代末期に早島の城山に砦を構えていたとされる毛利方の武将。
冠山城で秀吉軍の加藤清正と戦った。
角力取山古墳の上にそびえる、樹齢約450年のクロマツの巨木。昭和47年岡山県指定天然記念物指定。
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高梁川支流槇谷川の上流にある渓谷。花崗岩特有の摂理による奇岩石柱が連なり,新緑や紅葉の美しい景勝地。
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全国的にも珍しい伏流水が水源の滝。石灰岩のカルスト台地に降った雨が浸透し、台地下の川へ流れ出て、滝となっている。
平面に発達した閉塞・断層裂か型の吐出穴で、鍾乳管や石筍が発達し、曲石も存在するなど、「鍾乳石の宝庫」とも呼ばれる。
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オグラセンノウ、ビッチュウフウロ、リュウキンカ、アギスミレなどが分布する植物群落の宝庫とされ、「西の尾瀬」ともいわれる。
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このイチョウは、目通り周囲約6.9m、根元周囲約7mの主樹を中心に、6本のわき芽があります。わき芽は、それぞれ根元周囲1~1.2m、目通り周囲1~1.95mで、樹齢500~600年と推定されています。
時代 | 樹齢500~600年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 植物 |
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このカヤは、
時代 | 樹齢約530年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町本郷 |
分類 | 植物 |
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モリアオガエルは、両生類アオガエル科で、日本だけに生息しています。体長は、雄は7.5cm程ですが、雌は大きく9.5cm程になります。体色は緑色の地に褐色の斑紋があり、腹面は白色です。夜行性で、吸盤が発達し主に樹上生活しています。
5~6月ごろの梅雨期になると、夜間、雌雄は池や沼の岸に集まり、雌がまず樹木に登り水面上に張り出した木枝に行き、雄がそれに続いて集まり産卵を開始します。雌は、直径15cm前後の泡状の塊の中に200~300個の卵を産みます。2週間ほどでふ化したオタマジャクシは、自ら出す酵素で泡塊を溶かし、底が破れると下の池に落ち、2ヶ月程で蛙に変態します。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和60年8月5日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
見学に適した時期 | 5~6月頃に産卵する |
分類 | 動物 |
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モリアオガエルは、両生類アオガエル科で、日本だけに生息しています。体長は、雄は7.5cm程であるが、雌は大きく9.5cm程になります。体色は緑色の地に褐色の斑紋があり、腹面は白色です。夜行性で、吸盤が発達し主に樹上生活しています。
5~6月ごろの梅雨期になると、夜間、雌雄は池や沼の岸に集まり、雌がまず樹木に登り水面上に張り出した木枝に行き、雄がそれに続いて集まり産卵を開始します。雌は、直径15cm前後の泡状の塊の中に200~300個の卵を産みます。2週間ほどでふ化したオタマジャクシは、自ら出す酵素で泡塊を溶かし、底が破れると下の池に落ち、2ヶ月程で蛙に変態します。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和52年10月15日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市大佐小阪部 |
見学に適した時期 | 5~6月頃に産卵する |
分類 | 動物 |
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この水藻は、
この水藻については、『
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和41年6月1日 |
所在地 | 新見市哲多町花木 |
見学に適した時期 | 1~4月上旬に見ることができる |
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時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和54年5月16日 |
所有者・管理者 | 岡山県 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 地質鉱物 |
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荒戸山は、哲多町田淵の西方約1kmにあり、鍋を伏せたような形をしていることから昔から「鍋山」として親しまれています。
新世代新第3紀鮮新世の終わりごろ、新見市西部から広島県東部にかけて火山活動が始まりました。この火山活動は陸上の火山活動であり、中新世備北層群を貫いて火口から熔岩が流出し、玄武岩の熔岩台地が形成されました。その後の浸食により玄武岩台地は削られ、かつてのマグマの通路であった火道の部分が浸食されずに釣鐘状の小高い残丘(標高761.9m)として残されたものが荒戸山となっています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和41年6月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町田淵 |
分類 | 地質鉱物 |
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本湿原は、面積が2.0haあり、湿原内には湿生植物が広く自生しています。海抜550mに位置し、旧
湿生植物は、上流側において良く発達し、下流側に至るにつれて沼沢性が強くなっており、全体としては変化に富んだ植生をしています。調査の結果、107種が確認されています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成2年9月1日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市哲多町田淵 |
見学に適した時期 | 4月後半~11月 |
分類 | 植物 |
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鯉ヶ窪湿生植物群落 |
本洞は、びょうぶ嶽の石灰岩の絶壁に開口する全長1.2kmの鍾乳洞で、洞口は小さく高さ2m・幅2mとなっています。井倉上の穴から吸い込まれた水の吐出穴があります。洞内は石灰岩の節理に沿う溶食作用の結果できた割れ目が発達したもので、洞穴(天然の石灰洞)は、前半部は南北方向に、後半部は北北東方向に延びています。
また、洞内には、地軸の滝・音の滝など落差50mにも達する観光洞としては珍しい滝があります。顕著な二次生成物には、つらら石・流れ石・カーテン・石筍・石柱などがあります。観光客の便のため、回遊式の人口洞が獅子穴まで通じています。
県下の観光洞の中でも最も交通の便がよく、満奇洞・羅生門とともに新見市観光のシンボルとなっています。
時代 | 不明 |
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料金 | 【入洞料】高校生以上1,000円・中学生800円・小学生500円・小学生未満無料(団体割引、障害者料金あり) |
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年11月5日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市井倉 |
定休日 | なし |
分類 | 地質鉱物 |
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井倉洞 | |
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阿哲台(縞嶽) |
金谷から哲多町花木にかけての一帯(河本ダム周辺)には石灰岩と花崗岩との接触部があり、スカルン帯を形成しています。これらの堆積岩が、中生代の火成活動によって噴出した花崗岩の熱の影響を受けて、石灰岩は大理石に、チャートや泥質岩は珪灰石・ベスブ石・ざくろ石などを含むスカルンに変化しました。石灰岩は風化浸食に弱いため窪み、スカルンは石英を主体とし硬く浸食に強いため、全体として凹凸のある縞状の岩体となり、崖をつくっています。この縞模様から「縞嶽」と名づけられたものであり、阿哲台の地史を知る上でも貴重な場所となっています。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年11月5日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市金谷 |
分類 | 地質鉱物 |
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本洞は、岡山県内有数の規模の
昭和42(1967)年には、洞内からナウマン象の歯が発見されています。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年11月5日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市豊永宇山 |
分類 | 地質鉱物 |
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阿哲台(縞嶽) | |
阿哲台(井倉洞) | |
注意点 | 入洞届の提出が必要 |
本洞は、阿哲台では最も早く開発された鍾乳洞で、昭和時代初期にはすでに他県にまで知られていました。
洞穴は平面に発達した迷路に富む閉塞・断層裂か型の吐出穴であり、総延長450m・最大幅25mとなっています。最大のプールは夢の宮殿・竜宮と呼ばれ、無数のつらら石・カーテン・洞穴さんごが発達しています。プールの最大水深は約1mで、この水は洞内の炭釜・千枚田付近で地下に吸い込まれ、そのため洞口付近は流水がなく鍾乳石は乾燥し風化しつつあります。鍾乳管・つらら石・畦石・カーテン・石筍・石柱が発達し、また小さな洞穴さんご・曲石なども無数に存在しており、鍾乳石の宝庫とも呼ばれています。
「満奇洞」の名称は地名の「槇」にちなんで、歌人の与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻が命名したものです。
「まきの洞 夢にわが見る 世の如く 玉より成れる 殿づくりかな」鉄幹
「満奇の洞 千畳敷の 蝋の火の あかりに見たる 顔を忘れじ」晶子
時代 | 不明 |
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料金 | 【入洞料】高校生以上1,000円・中学生800円・小学生500円・小学生未満無料(団体割引、障害者料金あり) |
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年11月5日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市豊永赤馬 |
定休日 | なし |
分類 | 地質鉱物 |
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体長は5~7mm、ゲンジボタルやヘイケボタルと比べて小さいという特徴があります。雄は体が長く、羽が良く発達し飛ぶことができますが、雌は体が短く羽が退化して飛べないため、地表や笹の茎にとまるほか、雄に比べて弱い光を発します。
ゲンジボタルやヘイケボタルなど他のホタルの幼虫は、水生でカワニナや淡水のマキ貝などを餌にしますが、金蛍は陸生で陸生のキセル貝等を餌として成長します。生息地域は山岳地帯の限られた場所のみです。
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和34年3月27日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町蚊家 |
見学に適した時期 | 7月10日頃が最盛期 |
分類 | 動物 |
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注意点 | ホタルを触ったり捕まえたりしないこと。光を発しないこと。蚊取り線香や虫除けスプレーを使わないこと。大声で話さないこと。 |
この御衣黄は、樹高約7m、目通り周囲約1.7mです。オオシマザクラ系サトザクラが変異した「御衣黄」という珍種で、県内でも数カ所にしかないといわれています。花弁は、葉よりもわずかに淡い緑色で薄黄緑色の筋があり、満開になるにしたがって紅色の線が現れますが、全体的に緑色をしているため遠くから見ると葉桜と見間違われます。昭和40~45(1965~1970)年頃にかけて各駅にサクラの苗木が配られ、植栽されたうちの1本です。
時代 | 樹齢約50年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成5年3月30日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田(矢神駅構内) |
見学に適した時期 | 4月末~5月初め |
分類 | 植物 |
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このケヤキは、樹高約13m、目通り周囲6.9mあり、推定樹齢は700年の巨木で、樹勢は現在も旺盛です。根元から約3mのところで大きな枝が2本を分岐し、さらにその上方では四方に枝張りを広げ、東西南北にそれぞれ約30mの延びを見せています。根元には荒神様の小祠を祀っています。
時代 | 樹齢約700年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成11年4月13日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市足見 |
分類 | 植物 |
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このツバキは、樹高約7.5m、目通り周囲約1.6m、高さ約1.6mのところで3本に枝分かれしており、樹齢250年と推定されています。
時代 | 樹齢約250年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成5年3月30日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
見学に適した時期 | 10~4月 |
分類 | 植物 |
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このツバキは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
見学に適した時期 | 10~4月 |
分類 | 植物 |
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日尾山八幡神社のサカキ |
これは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
見学に適した時期 | 10~4月 |
分類 | 植物 |
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このツバキは、樹高約7m、目通り周囲約2m、東西南北に約15m広がっています。20m離れた所に同程度のヤブツバキがあることから「
時代 | 樹齢数百年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和58年9月8日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市神郷下神代 |
見学に適した時期 | 10~4月 |
分類 | 植物 |
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このサカキは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和54年5月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
分類 | 植物 |
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時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年6月19日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市神郷油野 |
見学に適した時期 | 5月上旬開花 |
分類 | 植物 |
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これは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和39年3月29日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市大佐上刑部 |
見学に適した時期 | 5月上旬開花 |
分類 | 植物 |
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これは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和39年3月29日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市大佐大井野 |
見学に適した時期 | 5月上旬開花 |
分類 | 植物 |
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このボダイジュは、樹高約17.3m、目通り周囲0.6~0.8mで、7本に株立っています。環境省のレッドデータブック(平成12年7月刊)で、絶滅危惧IA類(CR〔ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種〕)に指定されています。
マンシュウボダイジュは落葉高木で、果実は球形で短い星状毛が密生しています。分布は中国東北部・ロシア(ウスリー島)・朝鮮半島にあり、日本では山口県・広島県、そして新見市
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年6月20日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
分類 | 植物 |
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このクワは、樹高約22m、目通り周囲約4.5m、東西南北に約17m広がっている大木で、推定樹齢は400年といわれています。
時代 | 樹齢約400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和58年9月8日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市神郷油野 |
分類 | 植物 |
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この植物は、タンポポの一種で葉は
昭和7(1932)年4月、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和54年5月16日 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 植物 |
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このカキノキは、樹高約20m、根元周囲約2.5mの古木です。いつのことかはっきりしませんが、その昔、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成5年3月30日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 植物 |
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このイチョウは、樹齢約200年といわれている大木(雌)で、獅子山八幡宮のイチョウと夫婦だと古くから言い伝えられています。樹高約25m、目通り周囲約3.9m、根元周囲約4.9mとなっています。
時代 | 樹齢約200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
分類 | 植物 |
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このイチョウは、市道(旧国道)沿いにある大木(雄)で、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
分類 | 植物 |
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善江院のイチョウ | |
善江院のイチョウ |
本群落は、新見市の西部、広島県との県境付近にある標高約550mの鯉ヶ窪池の周辺に広がる湿原内にあります。この湿原の平面は鯉の形をしており、常に水湿を保ち、土地の人々が「沢っ田」と呼ぶ泥沼地です。この湿原には、オグラセンノウ・ビッチュウフウロなど隔離分布を示す希少植物や、寒地性植物のリュウキンカ・エゾシロネなどのほか、わが国固有の植物アギスミレ・サワオグルマ・サギソウ・スイランなどが分布しており、植物群落の宝庫です。季節によりそれぞれの植物が美しい花を競い合い「西の尾瀬」ともいわれます。西日本の代表的な湿生植物群落として、学術上高い価値があります。
時代 | 不明 |
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料金 | 入場協力金200円 |
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和55年3月6日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
定休日 | 11月~4月21日まで |
見学に適した時期 | 定休日 11月~4月21日まで |
分類 | 植物 |
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古くから地元では潮の満ち干と関連があるとし、「
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和5年8月25日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市草間 |
分類 | 地質鉱物 |
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注意点 | 小川を渡る必要があるため,長靴の着用が望まれる |
羅生門は、標高400m前後の草間台のドリーネにできた石灰岩の巨大なアーチです。第1門から第4門までアーチがつながり、末端は羅生門第1洞と呼ばれる吸い込み穴となります。古い鍾乳洞が崩落し、一部分が残存してアーチとなった鍾乳洞の最後の姿です。
チョウジガマズミ・ヤマトレンギョウなどの石灰岩植物だけでなく、洞口から吹き出す低温多湿な自然状態から、高山性や北方系の貴重な蘇苔類や地衣類が隔離分布しています。蘚苔類では、サガリヒツジゴケ・イギイチョウゴケ・セイナンヒラゴケ、昆虫ではガロアムシなどの洞穴昆虫が生息しており、7月初めになるとドリーネ内外で黄金色の光を点滅させるヒメボタルが見られます。
また、夏期はモヤや冷気を感じることができ、まさに「羅生門」の名にふさわしい光景を見ることができます。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和5年8月25日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市草間 |
分類 | 地質鉱物 |
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注意点 | 第1展望台より先は進入禁止 |
オオサンショウウオは、両生類、有尾目、オオサンショウウオ科に属し別名「ハンザキ」ともいわれています。ヨーロッパ大陸でも50万年前まで生息していましたが、現在は絶滅し、わずかに東アジアの一角、日本、中国のみに生息しています。このようなことから「生きている化石」ともいわれる貴重種で、学術上重要な動物です。
岡山・大分・岐阜・鳥取諸県の主要な生息地を指定し保護されてきましたが次第に減少しました。また、他にも多くの生息地があり、これらを保護するためにオオサンショウウオを特別天然記念物に指定し捕獲を禁止しました。オオサンショウウオは、両生類中最大で、160cmに達するものもありますが、一般には40~120cmくらいになります。
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和27年3月29日 |
分類 | 動物 |
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注意点 | 触ったり捕まえたりしないこと |
このムクノキの巨樹は、目通り周囲約7m、根元周囲約6.5m、樹高約15mで、樹齢は約500年と推定されます。
昭和31(1956)年の台風により一部欠損したとのことです。昔は松山往来がここを通っており、行き交う人々の憩いの場所でもありました。
時代 | 樹齢約500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和41年4月14日 |
所有者・管理者 | 総社市 |
所在地 | 総社市日羽 |
見学に適した時期 | 一般的な花期は4月~5月 新緑5月~6月 紅葉11月 (※その年の気候や個体による差あり) |
分類 | 植物 |
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このシダレザクラは、高梁市有漢町鈴尾中央部の道路上の傾斜地にあり、道路の上に枝を広げており満開の頃は美しい姿を見せます。高さ約10m、幹の目通り周囲1.6mで、樹齢は約100年と言われています。
時代 | 樹齢100年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和56年12月7日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市有漢町有漢 |
見学に適した時期 | 4月中旬~下旬 |
分類 | 植物 |
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この杉並木は、6,805㎡の広大な社叢で岡山県下でも屈指の林相です。その参道200mには巨大なスギの並木があり、江戸時代末期に再建された本殿と年数が同じと思われる巨木が数十本あります。
一番の巨木は、参道右側にあり、御神木として根元を竹の柵で囲んでいます。根元周囲は約9mあり、樹齢は約800年と推定されます。昼なお暗い樹林は、静寂かつ荘厳さに満ちています。
時代 | 樹齢約800年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和39年8月30日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市大佐小阪部 |
分類 | 植物 |
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大佐神社本殿 | |
明石神社社叢のうち御神木と杉並木12本 | |
明石神社社叢のうち御神木と杉並木12本 | |
大佐神社本殿 |
御神木は、明石神社本殿の裏山にあり、樹高約46mで目通り周囲7m、樹齢約700年のスギの巨木です。新見市では、大佐の大佐神社及び大井野八幡神社の神木に次ぐ大きさです。
また、鳥居から本殿にいたる急勾配の参道両脇には、スギの大木12本が並んでいます。これらは、樹高約38m、目通り周囲4.2m、樹齢350年のものを筆頭に、樹高32m、目通り周囲3.7m、推定樹齢300年のものなどとともに見事な杉並木を形成しています。
時代 | 御神木樹齢約700年 杉並木樹齢300~350年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年3月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市千屋 |
分類 | 植物 |
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大佐神社本殿 | |
大佐神社の杉並木 | |
大佐神社の杉並木 | |
大佐神社本殿 |
このウメは、昭和7(1932)年、草間青年団によって移植されたウメです。旧草間村大庄屋の庭園にあったものを草間中学校(現草間公民館)に移植しました。樹高は3.7m、樹齢は約200年です。
時代 | 樹齢約200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成20年12月3日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市草間(草間公民館内) |
見学に適した時期 | 3月上旬~中旬開花 |
分類 | 植物 |
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このホオノキは、樹高約20mで、根元から7本の枝を分岐して、東西南北にそれぞれ約30mの延びをみせています。根元周囲は約11m、最も大きい分枝は周囲約2mあり、樹齢は約700年と推定されます。
また、根元には
時代 | 樹齢約700年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年9月25日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市千屋花見 |
分類 | 植物 |
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このヤマボウシは、休石の周りに生える境界木で、樹高約5m、目通り周囲1.74mあり、枝張りは約5mの広がりをみせています。ヤマボウシとしては県下最大の巨木で、推定樹齢は400年とされます。ヤマボウシは別名「イツキ」「ヤマグワ」ともいい、新見市周辺では「ウツキ」と呼ばれており、6~7月に球状の頭状花序をつけます。花弁状をした4弁の白色の総苞をもち、開花のときには木全体が白く覆われたようになり、10月頃には実が紅熟し食用されます。
時代 | 樹齢約400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年3月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市千屋花見 |
分類 | 植物 |
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このアテツマンサクは、樹高約7m、目通り周囲0.56m、根元から11本の枝が分岐して、根元周囲は約2.5mに及びます。花は3月上旬に咲き、約10日間見ることができます。日本では中国・近畿地方西部の山地に自生しています。花のがく・花弁は4個で、花弁は黄色で細長く、葉は有柄・ひし状円形または倒卵形をしています。アテツマンサクは、大正3(1914)年に牧野富太郎博士が黒髪山で発見・命名されたもので、葉裏に白毛を重生する高木であることから新種と決定されました。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年9月25日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市新見 |
見学に適した時期 | 3月上旬開花 |
分類 | 植物 |
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このモミは、樹高約30m、目通り周囲約5.4m、樹齢300年と推定されています。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成11年9月29日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市神郷高瀬 |
分類 | 植物 |
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このモミは、参道の鳥居の裏側で、左右そろって成長した巨木です。モミvの巨木は新見市でも珍しく、市内でも1、2を争うものであり、ことに2本がいずれも劣らず成長している様子はあたかも「夫婦」を思わせるものがあります。本殿に向かって右側は樹高約44m、目通り周囲約4.2mで、左側は樹高約40m、目通り周囲約4.7mで、樹齢はいずれも約300年と推定されます。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年3月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市千屋花見 |
分類 | 植物 |
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この多行松は、赤松の変種で根元より多数の幹が枝分かれし、全く主幹を欠き、樹形は傘状になっているのが特徴です。樹高約11m、根元周囲約1.8mで、根元より枝が5本に分かれ、地上1.2mで10枝、同2mで30枝、同3mで50枝に分かれています。推定樹齢は150~200年です。現在のところ、山中において多行松の自生種は、この松以外に確認されていないので、この松がこの地域にあり、また巨木と成育していることは非常に貴重であります。
時代 | 樹齢150~200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和41年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町蚊家 |
分類 | 植物 |
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このアベマキは、大野部川南のさいの神にある巨大な神木で、樹高約30m、目通り周囲約4.94m、根元周囲約5.15m、地表から約2mのところから3本に枝分かれしています。また樹齢は350~400年と推定されています。
時代 | 樹齢350~400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 植物 |
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このアベマキは、樹高約27m、目通り周囲約4.3m、根元周囲約6.1m、枝張りは四方約18mで、推定樹齢は300年です。アベマキの根元には祠があり、地元の人々から私祭神の御神木として祀られています。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町大野 |
分類 | 植物 |
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このアラカシは、樹高約26m、目通り周囲約5.2m、推定樹齢500~530年であり、幹は、地上約5mのところから十数本に枝分かれしています。アラカシとしては、県下第一の大きさを誇っています。
時代 | 樹齢500~530年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町宮河内 |
分類 | 植物 |
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このアカガシは、草間馬繋地内にある
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成19年8月21日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市草間(輝雲寺) |
分類 | 植物 |
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このミズナラは、樹高約19.8mで、目通り周囲約3.76mです。根元には、弘法大師が祀られており、地区の人々による参詣や盆踊りが行われるなど「大槇」と呼んで親しまれていました。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年6月20日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
分類 | 植物 |
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このクヌギは、樹高約30m、根元周囲3.47m、目通り周囲3.08m、推定樹齢200~250年とされます。
時代 | 樹齢200~250年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
分類 | 植物 |
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このツクバネは、大椿寺にあり、形が珍しいので多くの人が持ち帰り移植するが、半寄生植物のため活着しづらいようです。また城谷奥仙石山付近、蚊家天王山、舟原の鳥居付近にも自生しています。ツクバネは、山地に生じる半寄生植物の灌木で、樹高2~3m、葉は長楕円形で先端尖鋭で対生します。雌雄異株で6月頃枝梢に雌花を単生し、雄花は数個叢生し開花後結実します。苞4個は果実と共に残り、形が羽子板の羽根に似ているところからその名が付けられました。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和61年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町花木 |
見学に適した時期 | 8~10月頃 |
分類 | 植物 |
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このスギは、
時代 | 樹齢約350年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成11年9月29日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市神郷下神代 |
分類 | 植物 |
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このカリンは、中国原産の落葉高木で、幹囲は根元周囲2m、目通り周囲2.1m、樹高約13m、高さ1.7mのところで枝が分かれ、枝数は13本もあります。また長さ10cm内外の楕円形の実がなります。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町畑木 |
分類 | 植物 |
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このムクの木は、根回り5.7m、目通り5.8m、樹高15mのニレ科の木です。
県下でも有数の巨樹で、老齢樹木に登録されています。幹内は直径60cm、高さ3mに及ぶ空洞となっています。
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和56年3月24日 |
所有者・管理者 | 矢掛町 |
所在地 | 矢掛町里山田 |
分類 | 植物 |
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このカゴの木は、根回り4.5m、目通り2.3m、樹高約12mで、クスノキ科の常緑高木です。
樹皮が脱落すると、その痕がまだらになり、鹿の子模様にみえるところからついた名前で、暖温帯に分布し、矢掛町内では
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和48年4月11日 |
所有者・管理者 | 柏木町内会 |
所在地 | 矢掛町横谷 |
分類 | 植物 |
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このチシャの木は、根回り4.8m、目通り3.3m、樹高12mの大木です。
ムラサキ科の落葉高木で、主として九州・沖縄・台湾などに分布する暖帯林の植物であり、矢掛町では珍しいものです。
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和48年4月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 矢掛町浅海 |
分類 | 植物 |
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クスドイゲは、イイギリ科の常緑小高木で、日本国内では主に近畿以西の本州・四国・九州・沖縄の海岸近くの林内に生育しています。幹や若木の葉腋(葉の付け根)にトゲがあり、9月に花を咲かせます。
樹齢約200年と推定されるこのクスドイゲは、高さ11.5m、枝張りが東西6.9m、南北6.8mで、地上1.3m部分の直径は51.3cmあります。
祝神社の祠の背後にあり、岡山県下のクスドイゲとしては、笠岡市神島外浦の
時代 | 樹齢約200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年7月28日 |
所有者・管理者 | 祝神社 |
所在地 | 倉敷市船穂町船穂 |
分類 | 植物 |
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この松は、
この松は、宝永3(1706)年に寺が再建されて間のないころ植えられたといわれ、その樹形が鳥が翼を広げたように見えることから、法厳寺第16世聖演法印により「鳳凰の松」と名付けられたと伝えられています。
また、同寺の霊木として、地域の人々の間で親しまれています。
時代 | 樹齢約200年~250年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年4月15日 |
所有者・管理者 | 法厳寺 |
所在地 | 倉敷市片島町 |
分類 | 植物 |
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この松は、玉島黒崎の沙美海岸近く、
安永年間(18世紀)本性院の第14世真寛上人が付近の山から移植したと伝えられ、第17世実亮上人のとき、先端を止めて笠の形に整え、それ以来中央が盛り上がり円くなったとされます。
「雨笠の松」という名は、嘉永元年(1848) にこの地を訪れた備前の儒学者雲岳が命名したといわれており、興譲館の
その他にも、
時代 | 樹齢約200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年4月16日 |
所有者・管理者 | 本性院 |
所在地 | 倉敷市玉島黒崎 |
分類 | 植物 |
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三島中州 | |
興譲館 | |
興譲館(動画) |
この場所は、由加山参道に接しており江戸時代由加往来の盛んだったころには田の口港に発着する船の目標になったといいます。田の口荒神は田の口地区の氏神として約1000年前から祀られていたと伝えられ、これを裏書きするように境内をめぐって数基の古墳(6~7世紀の後期古墳)が環状に配列しています。
時代 | 樹齢約700年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年4月16日 |
所有者・管理者 | 荒神社 |
所在地 | 倉敷市児島田の口 |
分類 | 植物 |
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この松は、
時代 | 約200年前移植 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和40年3月25日 |
所有者・管理者 | 不洗観音寺 |
所在地 | 倉敷市中帯江 |
分類 | 植物 |
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阿知の藤は、美観地区の北、鶴形山の山頂近くにある藤の名木で、阿智神社本殿の裏手に自生しており、推定年齢は300年とも500年ともいわれています。
幹廻り約1.5m、根元周囲約2.2mで、同種の藤としては日本一の巨樹といわれています。
アケボノフジと呼ばれる藤の一品種で、毎年5月上旬になると淡紅色の花を咲かせ、藤棚全面に花房をつけます。
先年老衰のためか,樹勢の衰えが目立つようになり、花の着生も少なくなりはじめたため、活性剤の注入や各種の有機肥料を与えるなどさまざまな処置が施されました。こうした活性化・延命策により樹勢は回復しつつあります。
さらに、つぎ木・取木などによる二世育成にも力が注がれています。
時代 | 樹齢300~500年 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年4月1日 |
所有者・管理者 | 阿智神社 |
所在地 | 倉敷市本町 |
見学に適した時期 | 5月上旬 |
分類 | 植物 |
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時代 | 樹齢約280年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成20年6月23日 |
所有者・管理者 | 美袋八幡神社 |
所在地 | 総社市美袋 |
見学に適した時期 | 一般的な花期は5月(※その年の気候や個体による差あり) |
分類 | 植物 |
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このなぎは、八柱神社社殿の西側にあります。目通り周囲約1.06m、樹高約11mです。清音地区でもっとも大きい「なぎ」です。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年12月13日 |
所有者・管理者 | 八柱神社 |
所在地 | 総社市清音柿木 |
分類 | 植物 |
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このむくろじは、軽部神社社殿の西に2本あります。目通り約1.4m(東)、約1.46m(西)、樹高約15m(東)、約15m(西)あり、樹齢は約300年で神社造営当時の植栽と考えられます。むくろじの実はシャボンと呼ばれてせっけん代わりにされ、種子は羽根突きのおもりや数珠などに使われるなど、昔から人々に親しまれていました。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年12月13日 |
所有者・管理者 | 軽部神社 |
所在地 | 総社市清音軽部 |
見学に適した時期 | 一般的な花期は6月 一般的な紅葉期11月~12月 (※その年の気候や個体による差あり) |
分類 | 植物 |
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このいぶきは、八幡神社境内の東北隅にあり、直幹は北に約20度傾いています。根元は石垣補修時に埋められています。清音地区有数の巨木で、目通り周囲約2.9m、樹高約15mです。八幡神社建立当時の植栽(樹齢約300年)と推定されます。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年12月13日 |
所有者・管理者 | 八幡神社 |
所在地 | 総社市清音軽部 |
分類 | 植物 |
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このカゴノキは、総社市の北西端、
時代 | 樹齢約500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和55年1月14日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 総社市中尾 |
見学に適した時期 | 一般的な花期は9月~10月 (※その年の気候や個体による差あり) |
分類 | 植物 |
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この社叢には、スギ、マツ、中層にはアカラシ、サクラ、モミジを交え、草本層にはマムシグサ、イタドリ、フユイチゴなどを中心に形成されており、古代の植生を推定する貴重な樹林です。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年4月1日 |
所有者・管理者 | 草田八幡宮 |
所在地 | 総社市下倉 |
分類 | 植物 |
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このカヤは、根まわりは460cm、目通りは主幹350cm、枝張り東西15.5m、南北15m、樹高約22m、推定樹齢500~600年とみられ、この種の樹木では近郷に類をみない巨木です。
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和58年10月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市備中町東油野 |
分類 | 植物 |
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このモッコクは、高梁市成羽町
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和49年11月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市成羽町成羽 |
分類 | 植物 |
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大杉の木立の下は、かつて高瀬(たかせ)舟(ぶね)の船頭たちが恐れた難所でした。備中松山城主の
御神木の樹齢は1,500年と言われており、社殿の棟札には「貞享元年甲子卯月吉祥日 御奉行宮田長吉忠長 大願主松山城主水谷左京亮勝宗並出羽守勝美」(1684)とあります。
時代 | 江戸時代前期 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和33年2月24日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市高倉町飯部 |
分類 | 植物 |
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備中松山城 | |
JR伯備線方谷駅 |
有終館は、
時代 | 江戸時代後期 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年6月1日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市中之町9 |
分類 | 植物 |
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山田 方谷 |
大賀衝上(断層)の連続で、中生代の成羽層群の上に古生代の石灰岩が押し被さったものとされてきました。この石灰岩はよく観察すると、石灰岩の礫だけが集まってできた特殊な礫岩で、堆積したのは白亜紀であることが判明しました。このような礫岩は、硯石層(羽山層)に特徴的に挟まれています。すなわち、これは成羽層群と硯石層との間の不整合露頭であり、東方の枝の不整合の続きです。また、不整合露頭が連続して追跡できることは大変稀で貴重なことです。
時代 | 中生代 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和36年6月28日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市成羽町羽山 |
分類 | 地質鉱物 |
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午王渓は、高梁市巨瀬町陰地内で、県道長屋賀陽線を南東に400m進んだ咳止神社の横にあります。傾斜の急な谷を流れる水により、硬い岩盤に数多くの滝つぼや甌穴が造られた、珍しい自然景観が数百mにわたり形成されています。滝の後退でできた数個の滝つぼ跡や、水の流れで転がる石によって削られてできた甌穴が20数個もあります。形は荒っぽい三角形やひし形に近く、深さも浅いものが多いです。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成元年3月22日 |
所有者・管理者 | 国土交通省 |
所在地 | 高梁市巨瀬町陰地東地内 |
分類 | 地質鉱物 |
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谷を下るにつれて、木の種類も多くなり、ケヤキ、トチの木、カエデ、カツラなどの
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和31年4月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市川上町高山 |
分類 | 植物 |
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穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山神社随神門 | |
穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山神社随神門 |
この大スギは、
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成10年3月24日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市巨瀬町 |
分類 | 植物 |
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中生代三畳紀(約2億年前)の地層(成羽層群)の上に、古生代石炭紀(約3億5000万年前~2億8000万年前)の地層が、衝上断層により「押し被せ」状態となっている断層関係の証拠となる露頭とみなされ、大賀衝上(大賀デッケン)と呼ばれていました。
これは、地質学の学会のなかで、1970年頃まで支持されていましたが、その後の詳しい調査・研究により、断層の証拠となる破砕帯が認められないことから、実際は不整合面露頭であることが判明しました。不整合は断層よりも保存されにくく、またここでは不整合面が、後の地殻変動でさらに逆転しているため、以前にも増して学術的に貴重です。
時代 | 古生代石炭紀 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和12年6月15日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市川上町仁賀 |
分類 | 地質鉱物 |
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備中松山城のある
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和31年12月28日 |
所有者・管理者 | 林野庁 |
所在地 | 高梁市内山下地内 |
分類 | 動物 |
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済渡寺本堂の西側に接する山稜(斜面)一帯にツガとモミの群生地(15本)があります。最も古い樹木はツガで、樹齢500年前後と推定され、高さ約20m、目通り周囲3.15mに及んでいます。南北約25m、東西約50m、面積約1,250㎡に生立し、樹勢はすべてが健全で旺盛です。
時代 | 樹齢約500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成24年8月2日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市法曽 |
分類 | 植物 |
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高梁川上流県立自然公園の特別地域内に存する三尾寺本堂の境内東西約50m、南北140m、面積約7,000㎡にスギ40本余・ヒノキ38本余の巨木群が林立しています。スギの最大のものは高さ約30m、目通り周囲約5.3m、ヒノキは高さ約30m、目通り周囲約5.1mの巨大木で、樹齢推定800~1,000年と推定されます。県内でも有数のスギ・ヒノキの老巨木を有するものとして希少価値が高いです。
時代 | 樹齢800~1000年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成24年8月2日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市豊永赤馬 |
分類 | 植物 |
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三尾寺本堂 | |
三尾寺本堂 |
星尾神社の周囲に生育する森で、目通り周囲2.2m前後のモミを中心にし、社殿北側には、30.0mを超えるモミが生育し、一部にクロマツ、アカマツの大径木のほか、亜高木層にはコシアブラ、モミ、アラカシなどが生育しています。自然状態を保っている植生の一つの形態を典型的に残している社叢林といえます。星尾神社は、正中元(1324)年にこの地を治めていた豪族
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 星尾神社 |
所在地 | 井原市美星町星田 |
分類 | 植物 |
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スタジイ(ブナ科)は、西日本を中心に分布する常緑広葉樹です。温暖多湿な環境で生育するため、冬季に冷涼となる気候では群生することが少なく、秋につく果実はアク抜き不要で食用となります。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市美星町西水砂 |
分類 | 植物 |
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これは、宇戸谷八幡神社の
時代 | 樹齢 カヤ300年、モミ350年、イヌマキ200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 宇戸谷八幡神社 |
所在地 | 井原市美星町宇戸谷 |
分類 | 植物 |
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このカゴノキ(クスノキ科)は、目通り周囲3.3m、樹高14.0mで推定樹齢500年です。この地域の
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市美星町星田 |
分類 | 植物 |
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このスギ(スギ科)は、目通り周囲5.86m、根周り6.35m、高さ32.5mで東西16.0m、南北21.0mに枝を張っています。推定樹齢500年で市内では最大級です。大スギがある谷の宮の山神社は旧片塚村の村社で、応保2(1162)年に伊予国の
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 宮総代 |
所在地 | 井原市芳井町片塚 |
分類 | 植物 |
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このスギ(スギ科)は、目通り周囲5.6m、根周り6.9m、高さ32.0mで、東西16.0m、南北19.0mに枝を張っています。推定樹齢500年で市内では最大級です。スギは日本固有種で、日本列島に広く分布する常緑針葉樹です。まっすぐに育つことからヒノキとともに材木として古くから利用されています。巨木となることでも知られています。
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 種八幡神社 |
所在地 | 井原市芳井町種 |
分類 | 植物 |
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このカヤ(イチイ科)は、目通り周囲4.94m、根周り5.77m、高さ25.0mで東西25.3m、南北12.0mに枝を張っています。推定樹齢は550年です。県内では吉祥寺のカヤと同じく最大級です。
時代 | 樹齢550年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市芳井町吉井 |
分類 | 植物 |
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早川のカヤ |
このフジ(マメ科)は目通り周囲1.88m、根周り2.0m、高さ26.5mで推定樹齢は400年です。県下でも最大級となります。ヤマフジは、西日本に広く分布するつる性落葉樹で、4月~5月にかけて淡紫色または白色の花を房状に垂れ下げて咲かせます。
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 日指明神社 |
所在地 | 井原市芳井町上鴫 |
見学に適した時期 | 4月~5月 |
分類 | 植物 |
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このヤマナシ(バラ科)は、ホクシヤマナシとニホンヤマナシの雑種で2株からなります。北株は、目通り周囲2.23m、根周り2.62m、高さ15.0mで、南株は、目通り周囲1.85m、根周り1.82m、高さ15.5mです。いずれも推定樹齢200年で特に北株は全国的に見ても最大級です。本州、四国、九州の山地帯に分布し、4月~5月に花をつけ、9月~10月ごろに梨状の実をつけます。
時代 | 樹齢200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市芳井町吉井 |
見学に適した時期 | 4月~5月 |
分類 | 植物 |
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このサクラ(バラ科)は、目通り周囲2.22m、根周り3.7m、高さ27.5mで、東西19.0mに枝を張っています。推定樹齢200年で県下でも最大級の大きさです。シダレザクラはエドヒガンザクラの変種で、名前のとおり枝が長く垂れるように伸びます。イトザクラとも呼ばれます。
時代 | 樹齢200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市芳井町宇戸川 |
見学に適した時期 | 3月~4月 |
分類 | 植物 |
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このカヤ(イチイ科)は、目通り周囲4.53m、根周り5.15m、高さ28.0mで枝は東西に22.5m、南北に21.5m伸びています。推定樹齢は400年です。県内では泉谷のカヤと同じく最大級です。吉祥寺は真言宗大覚寺派の寺院で、奈良時代(天平年間)に
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 吉祥寺 |
所在地 | 井原市芳井町下鴫 |
分類 | 植物 |
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泉谷のカヤ |
このカヤ(イチイ科)は、目通り周囲4.35m、根周り5.21m、高さ27.0mであり、枝は、東西に23.0m、南北に19.0mに伸びています。推定樹齢は300年です。市内では、吉祥寺のカヤ、
時代 | 樹齢300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市芳井町吉井 |
分類 | 植物 |
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吉祥寺のカヤ | |
泉谷のカヤ | |
早川のカヤ(動画) |
モッコクは、東南アジア特産のツバキ科の暖地性常緑樹で、
時代 | 樹齢約350年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和34年6月6日 |
所有者・管理者 | 高山寺 |
所在地 | 井原市高屋町 |
分類 | 植物 |
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高山寺 |
星田池下流1.8kmの間に大小40あまりの甌穴があります。甌穴とは川の急流で渦巻が起こり、小石が回転して岩石を削りこんだもので、数万年をかけて生成されたと思われます。著名な2個は直径約80.0cm及び70.0cm、深さ110.0cmです。
時代 | 数万年をかけて生成 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 井原市 |
所在地 | 井原市美星町黒木 |
分類 | 地質鉱物 |
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甌穴とは、急流の河川の増水時に蛇行部で渦が発生し、上流から流れてきた岩石が渦の中で回転することによって
時代 | 数万年をかけて生成 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 鳴滝保勝会 |
所在地 | 井原市芳井町花滝 |
分類 | 地質鉱物 |
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このネズは、
水に強く、木目が美しいため、建築用材としてよく利用されたものですが、神社の杜として氏子が大切に保存してきたことにより、これほどの大木になったものです。別名をネズミサシ、あるいはモロの木ともいいます。
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成10年10月1日 |
所有者・管理者 | 内神荒神社 |
所在地 | 矢掛町矢掛 |
分類 | 植物 |
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この松は、
時代 | 樹齢300年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成8年4月1日 |
所有者・管理者 | 専教寺 |
所在地 | 矢掛町矢掛 |
分類 | 植物 |
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このツバキは、目通り1.86m、枝はり四方9m、樹高8mの老木巨樹のツバキです。
4月上旬ごろから中旬にかけて、八重で美しい鮮紅色の花が咲き、落下した花は、赤い絨毯を敷いたようにまことに美しく見えます。
時代 | 樹齢300年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和56年3月24日 |
所有者・管理者 | 圀勝寺 |
所在地 | 矢掛町東三成 |
見学に適した時期 | 4月上中旬 |
分類 | 植物 |
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象岩は、下津井港から南西3kmの沖合に浮かぶ六口島の西岸にある奇岩です。自然の芸術品であるこの岩は、海岸の花崗岩が風と波によって侵食され、長い年月をかけて造りだされたものです。
その姿はあたかも巨象が岸辺に水を飲みにやって来ているかのようにみえます。白い岩肌の雄大な造形は瀬戸内の海の青さによく映えます。満潮になると波に巨体を浮かべ,干潮になると磯辺にたたずみます。高さは約8m、干潮時には歩いて近づくことができます。
古くから人々の目を引いたらしく、岡山藩池田家文書の中には宝永元年(1704)の絵図が残されており、今と変わらぬ姿が描かれています。
時代 | 江戸より前の時代から存在 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和7年7月23日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市下津井(六口島) |
分類 | 地質鉱物 |
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このチシャノキは、片田荒神社の境内に育成しています。チシャノキの大木は全国的に見ても数が少なく、この木も県内有数の大木と考えられるため、町の天然記念物に指定されています。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年1月24日 |
所有者・管理者 | 片田荒神社 |
所在地 | 早島町早島1963-1 |
見学に適した時期 | 5月~12月 |
分類 | 植物 |
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エヒメアヤメは、アヤメ科アヤメ属に属し、本名をタレユエソウともいう可憐な植物です。低山に生える多年草で、春になると紫色の花をつけます。花期は短く、一週間ぐらいで花が枯れます。
草丈は10~30cmと可愛らしく、明治30年に愛媛県で確認されたためにこの名がつきました。その後、西日本の各地で自生地が発見され、現在では、愛媛県・広島県・山口県・佐賀県・宮崎県の自生地が国指定天然記念物となっています。
市内では、かつては吉田のほか
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和31年11月1日 |
所有者・管理者 | 稲田山神社 |
所在地 | 笠岡市吉田 |
分類 | 植物 |
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このヤマモモは、走出の高野山真言宗持宝院にあり、まるで土壁に寄りかかるように南に傾いて伸び、塀の外まで枝を伸ばしています。幹の周囲2.8m、根元周囲約6m、高さ約11m、推定樹齢約300年で、県下有数のヤマモモの巨樹です。
このヤマモモの木を取り込むように塀をこしらえてあることから、塀を作った享保年間(1716~1736)にはすでにある程度の大きさに達していたと推察されています。
時代 | 樹齢300年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成8年7月2日 |
所有者・管理者 | 持宝院 |
所在地 | 笠岡市走出 |
分類 | 植物 |
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延福寺跡 | |
延福寺跡 |
篠坂は笠岡市の北西端部に位置し、井原市と広島県福山市・
時代 | 樹齢250年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成8年7月2日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市篠坂 |
分類 | 植物 |
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このホルトノキは、真鍋島本浦の真鍋家玄関脇にある、幹の周囲2.4m、高さ約15m、推定樹齢約250年の巨樹です。
家伝によると、宝暦年間(1751~1764)に平賀源内が讃岐に苗木を持ち込んだものがやがて真鍋家に伝えられたといいますが、もともと真鍋島に自生していたとする説もあります。いずれにしても県内では珍しい樹木です。
時代 | 樹齢250年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年1月26日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市真鍋島 |
分類 | 植物 |
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幹の周囲2.95m、根元周囲4.1m、高さ約15m、推定樹齢300年以上で、ネズの木としては、県下でも3指に入る巨木に数えられています。
時代 | 樹齢300年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成2年2月26日 |
所有者・管理者 | 笠岡市 |
所在地 | 笠岡市走出字池平 |
分類 | 植物 |
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県道
諏訪神社は、園井に居住している後藤氏の先祖が奉祀したとの伝承がありますが、記録は残っていません。長野県諏訪大社の分霊を祀ったのが始まりとされています。祭神は
時代 | 樹齢400年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和47年5月25日 |
所有者・管理者 | 諏訪神社 |
所在地 | 笠岡市園井 |
分類 | 植物 |
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ひがさき踊り(金光町)【諏訪神社】 |
時代 | 樹齢300年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年10月15日 |
所有者・管理者 | 竹田稲荷神社 |
所在地 | 笠岡市大島中 |
分類 | 植物 |
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笠岡市甲弩、尾坂川右岸にあたる岡田地区の集落の中に、ひときわ大きな落葉樹があります。ちょうど岡田橋の付近から東を見ると、民家の上に覆い被さるように見えるこの巨樹が、浅尾家の敷地内にあるムクノキです。幹の周囲4.6m、根元周囲7.3m、高さ約28m、推定樹齢約400~500年で、地上10mのあたりから二又に分かれています。
家伝によれば、昔、戦に敗れた
時代 | 樹齢400~500年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和43年6月15日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市甲弩 |
分類 | 植物 |
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この枝垂れいちょうは、もともとは高野山真言宗遍照寺の境内に高くそびえていた名木です。現在では、市街地に林立する高層建物に隠れるように、いちょう公園の中に立っています。幹の周囲は3.8m、根元の周囲は5.4m、高さは約25m、推定樹齢は約400年です。
遍照寺は笠岡市の駅前土地区画整理事業により、昭和52年、西の浜の埋立地へと転出しましたが、巨大なイチョウの木は多宝塔とともにそのまま寺跡に残され、保存されています。
時代 | 樹齢400年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年11月1日 |
所有者・管理者 | 遍照寺 |
所在地 | 笠岡市中央町 |
見学に適した時期 | 11月 |
分類 | 植物 |
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遍照寺多宝塔 附石碑 | |
遍照寺 | |
遍照寺多宝塔 附石碑 | |
遍照寺多宝塔 |
真鍋島の北側に、2つの連なった小さな無人島が浮かんでいます。このうち南側の「前大島」の西側中腹、尾根筋から少し下がった急峻な傾斜地にイヌグスの巨樹があります。一見2株にも見えますが、地表下では1株であるといわれています。
北株は幹の周囲6.4m、根元周囲7.0m、高さ15.5m、南株は幹の周囲3.7m、根元周囲4.2m、高さ8.5m。横に大きく枝を広げており、推定樹齢は約400年です。
時代 | 樹齢400年以上 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年5月21日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市真鍋島の属島 前大島字スノタヲ |
分類 | 植物 |
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白石島の地質は島全体が花崗岩で構成されており、山肌にも、無数の花崗岩が露出しています。その中の一峰で、標高128m、「
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和17年10月14日 |
所有者・管理者 | 笠岡市 |
所在地 | 笠岡市白石島字持立 |
分類 | 地質鉱物 |
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かつて笠岡湾の周辺には広大な干潟が広がり、多くのカブトガニが生息していたことから、昭和3(1928)年3月24日、金浦町生江浜海岸一帯が天然記念物「かぶとがに蕃殖地」として指定されました。
その後、笠岡湾干拓に伴って指定地の環境が変わったため、昭和46(1971)年6月16日、神島水道が新たに追加指定されました。
笠岡市では、カブトガニ博物館を設置してカブトガニの保護増殖と普及啓発に努めるとともに、幼生の放流、繁殖地の環境整備などを行っています。
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和46年6月16日 |
所在地 | 笠岡市神島と西大島の間の海域 |
分類 | 動物 |
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カブトガニ博物館 | |
笠岡市立カブトガニ博物館 | |
カブトガニ繁殖地(動画) |
このカゴノキは、樹齢推定340年、高さ約12m、根回り約6.3m、主幹約3.4mの大きさで、
時代 | 樹齢340年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成28年9月28日 |
所有者・管理者 | 天満神社 |
所在地 | 里庄町里見8544 |
見学に適した時期 | 常時 |
分類 | 植物 |
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アッケシソウは、環境省のレッドデータブックで絶滅危惧種に指定されている海浜植物で、平成15年末に、寄島干拓地で確認されました。本州で唯一自生するアッケシソウを平成16年2月に旧寄島町が天然記念物に指定しました。非常に貴重な天然記念物であることから、現在「浅口市寄島町アッケシソウを守る会」によって、環境整備や生育観察等の保護活動が行なわれています。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成23年10月25日 |
所有者・管理者 | 国・岡山県 |
所在地 | 浅口市寄島町寄島干拓地 |
見学に適した時期 | ①開花時期に見学会を開催、9月中旬の1日 ②紅葉時期にアッケシソウ祭りを開催、10月中旬の10日間程度 |
分類 | 植物 |
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安倉八幡神社参道の石鳥居脇にそびえる巨樹です。樹齢620余年、目通り周囲5.2m、地上根周り9.2m、高さ20mで地上から4mのところで三枝に分かれ、東西20m、南北23mに枝を張っています。1839(天保10)年、この付近は干拓され鳴滝新開と呼ばれるようになりましたが、当時の海岸線を語るものとして貴重な記念物となっています。
時代 | 室町時代 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成23年10月25日 |
所有者・管理者 | 安倉八幡神社 |
所在地 | 浅口市寄島町中安倉 |
分類 | 植物 |
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ゲンジボタルは、日本にだけ生息しているホタルです。
「ゲンジボタル」の生息条件は、
①清流であること ②餌(えさ)となるカワニナがいること ③川岸に幼虫がもぐれる土があることなどです。「ホタルの生息できる場所」は、素晴らしい自然環境が残されているということにもなります。
この日本固有の「ゲンジボタル」の生育条件と自然環境を保護することは、環境教育の重要性が増す中で極めて重要なことであり、現在は、「上竹ホタルを守る会」によって、環境整備や生育観察等の保護活動が行なわれています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成23年10月25日 |
所有者・管理者 | 上竹地区 |
所在地 | 浅口市金光町上竹 |
見学に適した時期 | 5月下旬~6月中旬(※その年の気候による) |
分類 | 動物 |
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このクスノキ(クスノキ科)は、
時代 | 樹齢200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 井原市 |
所在地 | 井原市美星町黒忠 |
分類 | 植物 |
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これは、烏頭八幡神社境内を飾る巨木です。社殿に向かって右奥のタブノキ(目通り周囲2.5m、樹高16.6m)、モミ(目通り周囲2.4m、樹高25.5m)、イヌシデ(目通り周囲1.9m、樹高19.5m)の3本で構成されています。さらに、社殿に向かって右側の山腹にタブノキの群生した林があり、県内でも他に類のない貴重なものとなっています。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 烏頭八幡神社 |
所在地 | 井原市美星町烏頭 |
分類 | 植物 |
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このアベマキ(ブナ科)は目通り周囲3.3m、樹高14.5mで古くから地区の人々に親しまれた古木です。アベマキは関東以西に広く分布する落葉広葉樹でクヌギに似ており、この地域の雑木林を構成する主要な樹木です。秋につく果実はドングリの中でも大型のものです。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 上高末荒神社 |
所在地 | 井原市美星町上高末 |
分類 | 植物 |
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瀬戸内海のなかほどに位置する大飛島にある、沖に向かって突き出したような形の細長い砂浜で、学術的にはこれを
この砂嘴は、大飛島の東北端、字「
昭和の初期頃までは中央が高く盛り上がり、長大な姿を見せていた砂嘴も、隣接する大浦港を整備したことによる潮流の変化や海砂採取の影響から、次第に衰退しています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和43年6月15日 |
所在地 | 笠岡市大飛島字洲ノ南の海岸 |
分類 | 地質鉱物 |
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笠岡市立郷土館 |
高梁川東西用水取配水施設は、高梁川の下流に位置する農業用水施設です。小規模な取水施設を統合して、水利用の合理化と施設の大規模化が図られた近代農業用水施設のうち、大正期における最大規模のものとして重要なものです。
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高梁川東西用水取配水施設 | |
用水分水樋門 | |
用水取水桶門 | |
用水配水池 |
旧大原家住宅は、寛政7(1795)年に主屋の建築が着工されました。倉敷町屋の代表的な形式の主屋の後ろにはなまこ壁で仕上げられた蔵が建ち並び、倉敷の町並みの景観を特徴づけています。
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旧大原家住宅 |
江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行った野崎武左衛門の居宅で、低い丘陵を背景に、長屋門・御成門の門建築が配され、その奥に南北に連なる広大な敷地が画されています。
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旧野﨑家住宅 | |
野﨑 武左衛門 | |
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野﨑武左衛門翁旌徳碑ほか | |
野崎家旧宅 |
西爽亭は、天明年間(1781~1789)に建てられたと伝えられ、儒学者の菅茶山(かんちゃざん)に名づけられました。木造平屋建・本瓦葺きの座敷棟・御成門(おなりもん)・茶室・庭園で構成されています。
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荒戸山にある荒戸神社本殿は、室町時代の建築様式を伝える建物で、入母屋造、檜皮葺で向背のない屋根形態は神社の本殿としては全国的に少なく古い形態とされる。
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荒戸神社本殿 |
備中聖人・山田方谷が明治3年、新見市大佐小阪部に隠棲後、明治5年に外祖父母を葬る金剛寺境内に建立した継志祠堂で、外祖父母を祀る持仏堂でもある。
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JR伯備線方谷駅駅舎 | |
方谷橋 | |
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成羽川の支流、布瀬川上流にあり、吉備高原の台地を磐窟川が浸食した高さ100mに及ぶ石灰岩の断崖絶壁を中心とした渓谷である。
矢掛町横谷にある江戸時代の大庄屋屋敷で敷地面積約1400坪をほこる。中でも「主屋」「長屋門」は大庄屋屋敷の構えをよく残している。
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福武家住宅 主屋・長屋門 | |
福武家住宅(主屋・長屋門以外) | |
福武家住宅 主屋・長屋門 |
天平3年、行基菩薩により開基されたと伝えられる。境内には大樹「モッコク」があり、市の天然記念物に指定されている。
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モッコク |
その昔3つの流れ星がこの地に落ち、星の郷と呼ばれるようになったと伝えられる「星尾降神伝説」の残る神社。
明治20年(1887)に完成した石橋。眼鏡のようにアーチが2つ連なり、美しい景観を作り出している。
慶長11年(1606)に建立された県内最古の多宝塔で、内部には極彩色の絵画が描かれている。
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遍照寺多宝塔 附石碑 | |
遍照寺 | |
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「日本の原子物理学の父」と呼ばれる仁科芳雄博士が幼少期過ごした生家。江戸後期の庄屋建築の特徴を残している。
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大正・昭和期の日本の財政学者。政治界でも財政通として活躍し、ビルマ政府の最高顧問として財政再建にあたった。
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浅口市では、江川三郎八が設計した明治期から昭和初期に至る和風及び擬洋風建築の現存建物を見学できる唯一の場所である。
かもがた町家公園の中核となる町家「旧高戸家住宅」は、大和様式と備中様式を併せ持つ建築工法を取り入れた築後300年以上を経た県内最古の江戸初期の町家である。
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大正14年に建設され、当時の姿をとどめたJR伯備線の木造駅舎。平成20年には国登録有形文化財に登録されています。
総社の名前の由来となった神社・総社宮の参道近くに、一際目立つまちかど郷土館。明治43年に総社警察署として建てられ、総社市に唯一残る明治時代の洋風建築です。
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金光教教学研究所は、金光町大谷の国道2号金光隧道南側の木綿崎山丘陵に位置しています。3棟は、昭和5(1930)年に迎賓施設として建設され、渡り廊下を介してつながっており、格調高い面構えです。
客殿は、木造平屋建、入母屋造、銅板葺であります。重い屋根を支えるために木組み(トラス)構造が採用されています。近代の設計手法と伝統木造技術が高度に調和した昭和期和風建築の好例です。
客殿附属舎は、木造平屋建、入母屋造、銅板葺であり、正面に入母屋造の玄関があります。客殿と一体をなす上質なつくりで、客殿の玄関を兼ねています。
洋館は、木造二階建、寄棟造、スレート葺です。西南隅に塔屋を設け、正面に玄関ポーチを配置します。客殿とは相対し、和洋館併設のつくりです。
時代 | 昭和 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成30年11月2日 |
所有者・管理者 | 金光教 |
所在地 | 浅口市金光町大谷 |
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洞松寺は曹洞宗の禅寺で、室町時代初めに喜山性讃という名僧が開山しました。猿掛城主庄氏や毛利氏の帰依をうけ、最盛期には備中国を中心に、1200の末寺を従えた中本山として栄えました。現在の境内には町内最大規模の本堂をはじめ、山門・庫裏、坐禅堂、鐘楼などが今に伝わっています。
矢掛町指定重要文化財の山門以外の建物はすべて、国の登録有形文化財です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成23年7月25日 |
所有者・管理者 | 洞松寺 |
所在地 | 矢掛町横谷3796 |
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町内最大の山門で、天保10(1839)年に再建されました。獅子や獏、渦巻などの美しい装飾が随所に施され、窓や柱の形、貫の構造などに禅宗様式をよく表した重層門です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成13年12月3日 |
所有者・管理者 | 洞松寺 |
所在地 | 矢掛町横谷3796 |
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福武家住宅は約1,400坪(約4、500㎡)の敷地面積をほこり、「主屋」、「長屋門」は江戸時代の大庄屋屋敷の構えをよく残しています。
主屋、長屋門など主要な建物の建築年代は不明ですが、屋敷構えの格式の高さから、大庄屋になった江戸末期頃のものではないかと推測されています。
特に長屋門は小藩の門に匹敵する規模と意匠をもち、続く周囲の土塀には銃眼が設けられており、庭瀬藩板倉家の飛び地として矢掛地方支配の拠点施設だったとの意味も考えられます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成16年3月12日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 矢掛町横谷1809 |
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福武家住宅は安土桃山時代の大名・毛利氏の家臣・對馬守元重を祖とする旧家です。
代々庄屋職をつとめていましたが、天保7(1836)年に大庄屋となり、嘉永2(1849)年に庭瀬藩の徒士小姓になったと伝えられています。町指定文化財となっているのは、湯殿・厠・土蔵・水見櫓・土塀等敷地内の建造物です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年9月19日(平成4.4.1全指定) |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 矢掛町横谷1809 |
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福武家住宅 | |
福武家住宅 主屋・長屋門 |
寺伝によれば、永禄8(1565)年の建立と言われており、当時の建物の特徴を物語っています。堂の一部に改造はあるものの、全体として原型が保存されている数少ない室町時代の建築として貴重なものです。
時代 | 戦国 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和37年3月20日 |
所有者・管理者 | 小田寺 |
所在地 | 矢掛町小田819 |
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脇本陣髙草家は、文化12(1815)年に矢掛村庄屋となり、安政5(1858)年には大庄屋となった旧家で、「大髙草」と呼ばれました。 屋敷は間口約18間(約33m)、敷地面積約530坪(約1,730m²)で、本陣石井家に次ぐ規模となっています。 同じ宿場に本陣と脇本陣が対で現存しており、かつどちらも国の重要文化財に指定されているのは全国で矢掛宿のみです。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年6月20日(昭和57.6.11追加指定) |
所有者・管理者 | (財)矢掛脇本陣高草家住宅保存会 |
所在地 | 矢掛町矢掛1981 |
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矢掛の宿場まつり・大名行列 |
石井家は、江戸時代初期から山陽道矢掛宿の本陣職を務め、宝永5(1708)年以降、代々大庄屋を務めた旧家で、元禄頃から酒造業も営んでいました。
屋敷は旧山陽道に面し、間口約20間(36m)、敷地面積約960坪(約3、164㎡)で、本陣部分の座敷・御成門と石井家の生業であった酒屋部分の主屋・倉などからなり、矢掛宿では最も大きな町家です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年6月20日 (昭和58.6.2追加指定) |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 矢掛町矢掛3079 |
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レンガ造りの門柱は、主門とその両脇に付属する脇門の2対4基からなります。 校門の詳細な設置年代は不明ですが、写真で確認できる最も古い記録は昭和4(1929)年であり、それ以前の大正9(1920)年の写真では確認できないため、少なくともその間に設置されたと考えられます。設置から今日まで早島の子どもたちの成長を見守ってきた、当時の早島小学校の歴史を伝える上で貴重な建造物です。
時代 | 大正~昭和 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成28年3月29日 |
所有者・管理者 | 早島町教育委員会 |
所在地 | 早島町早島2180 |
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明治41(1908)年7月に建てられた洋風住宅。清澄家はもと新見藩士でしたが、明治37(1904)年、当主の若原丈次が夫人の郷里である早島町で眼科医を開業しました。のち、長女の万寿子が昭和4(1929)年に帰郷し、歯科医院を開きました。 建物の外壁は下見張りとし前面の景観は左右相称の洋風住宅です。内部の診療部分は純洋風としていますが、住居部分は和洋折衷です。 町内で残る唯一の明治の洋風建築として貴重な建物です。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成6年11月15日 |
所有者・管理者 | 早島町教育委員会 |
所在地 | 早島町早島344 |
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本門は、神社を守護する門守神を安置している神門で、文化5(1808)年に建立されました。その後、明治26(1893)年9月27日に再建され、入母屋造の枡形天井となっています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 岩倉八幡神社 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
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本門は、その名の通り木造仁王像一対が安置されている楼門です。その仁王像には元禄14(1701)年の銘があり、本門も同様の時期に建立された可能性があります。伝医山四王寺は、弘仁9(818)年平安時代の初め頃、玄賓僧都(734~818)によって開山され、慶長9(1604)年10月に寺領10石を下賜された古刹です。嘉永2(1849)年堂舎が焼失しましたが、仁王門と仁王像一対は難をのがれました。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 四王寺 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
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本堂は、曹洞宗観音寺の末寺として文久4(1864)年に建立したもので、二間四面の建物です。本尊の石造薬師如来座像は、文久3(1863)年に安置されたもので、像の背面に「目のかすみやがて晴行位□山これこそ日本一はたの寺」と刻まれており、殊に眼病平癒を祈る仏とされています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和54年5月16日 |
所有者・管理者 | 地区総持 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
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本殿は、大同3(808)年に造営され、江戸時代末期に再建されたものです。社殿は本殿・拝殿の二棟で、本殿は三方千鳥破風造りで、蟇股内に十二支を彫刻し、色鮮やかな鶴を配しています。広大な社叢は県下でも屈指のものであり、鳥居から拝殿へ通じる参道200mには巨木杉並木が約300本を数え、100有余本は樹齢数百年を越えています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和39年8月30日 |
所有者・管理者 | 大佐神社 |
所在地 | 新見市大佐小阪部2085 |
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本門は、備中松山藩4代藩主の水谷勝宗の弟勝能小阪部陣屋の門です。明治時代の廃藩置県に際し、水谷家代々の菩提寺である本寺に移して、山門に替えたものです。またこの門は刑部大明神を天守閣に祀る姫路城城門と同形式です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和43年12月7日 |
所有者・管理者 | 圓通寺 |
所在地 | 新見市大佐永富358 |
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本堂の創建年代は定かではありませんが、飛騨工匠作と伝えられています。寛文3(1663)年、備中松山藩4代藩主の水谷勝宗(1623~1689)が三間四面の堂宇として再建したとされています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 祥光寺 |
所在地 | 新見市哲西町矢田(祥光寺) |
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本堂は、寄棟造、茅葺で、桁行三間、梁間三間の三間堂です。柱は大きく面を取った角柱に舟肘木を乗せるだけの簡素な中世風の外観です。青龍寺は、真言宗醍醐派の古刹です。大同年間(806~810)、唐から帰朝した空海が諸国巡錫の折り、この地に足を留め、その山容と風光がかつて修業した長安の黒髪山東塔青龍寺に似ているとして、伽藍を建立し、真言密教の霊場としたのが本寺と伝えられています。その後、天正3(1575)年、毛利と三村の争乱で焼失し、万治年間(1658~1660)、備中松山藩3代藩主の水谷勝隆(1597~1664)が旧のままに復元したのが現在の堂です。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和44年9月25日 |
所有者・管理者 | 青龍寺 |
所在地 | 新見市新見2370 |
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本殿は、平入、三間社で入母屋造、檜皮葺です。入母屋造、檜皮葺で向拝のない屋根形態は神社の本殿としては全国的に少なく古い形態とされています。また基壇を作らず、石敷とした床下の工法は古式のものです。
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和62年4月3日 |
所有者・管理者 | 荒戸神社 |
所在地 | 新見市哲多町田淵917 |
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本堂は、永禄2(1559)年、呰部丸山城主の庄兵部大輔勝資が本寺の荒廃を嘆いて再建したといわれています。さらに、慶長9(1604)年備中代官の小堀政一(遠州[1579~1647])が寺領10石を寄進して保護しました。ただし、建築様式から見ると、再建年代は17世紀中頃と考えられます。本堂は、密教本堂の平面を保っており、桁行五間・梁間四間、入母屋造、茅葺です。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和34年1月13日 |
所有者・管理者 | 三尾寺 |
所在地 | 新見市豊永赤馬 |
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JR伯備線は、昭和3(1928)年に全線が開通し、方谷駅も同時に建設されました。方谷駅駅舎は、シンプルな木造平屋構造であり、切妻型の方形プランである主屋を、片流れのプラットホーム屋根と切妻型の車寄が両側から挟みこみ、機能に対応した構造形式を呈しています。車寄が特徴的であり、切妻屋根は意図的に太く見えるようにデザインされたL字型のモルタル柱で支えられ、象徴的な門型による威厳のある「駅の顔」を表現しています。このモルタル柱は、表面を洗い出しで仕上げ、装飾を施すなど、車寄の建築に重きを置いていたことが想像できます。
駅名は中井町出身である山田方谷の名前からと言われていますが、当時は駅名に人名が採用されることはなく、地元の方々が「中井町西方の谷に位置する」という理由で「方谷駅」が良いという説明のもと、「方谷駅」が採用されたとの逸話も残されています。人名のついた駅としては初期のものにあたります。
時代 | 昭和 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和51年3月9日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市中井町西方9194-1 |
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山田方谷 | |
伯備線足見陸梁 | |
方谷庵 | |
方谷橋 | |
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西江家は、鎌倉時代は北面の武士(朝廷の護衛)をし、応仁の乱後京都から高梁市成羽町坂本に居住し、山城を守る武士となりました。戦国時代より毛利家の配下となり、関ヶ原の合戦後、帰農し幕領地における郡中惣代庄屋となります。居宅は代官御用所を兼ねたため、郷蔵・白州跡・式台・駅場舎・手習い場など役宅部分が現存しています。創建は宝永・正徳年間1704年頃といわれ、現在も当時と変わらない堅牢なつくりです。西江家6代目が島根県から一流の石州大工と石州瓦職人たちを結集し、20年かけて創りあげた建造物です。3段構えの石垣はまさしく城郭の構えです。西江家15代目が木道楽であったため、裏座敷は明治に建て替えられました。部材にこだわり、桜・欅・松・檜・黒柿・紅葉など高級木材を使い、ベンガラスス塗りを施しています。江戸時代における産業、人、文化など庶民の営みとともに幕府代官御用所としての歴史を今日に伝える大変貴重な歴史的建造物です。
また、正保4(1647)年西江家3代目がベンガラ製造に着手し、寛延3(1750)年には量産化に成功し、産業化させました。ベンガラは大名間の贈答品である伊万里や九谷などの上絵付け用顔料、漆器・塗料など汎用性のある赤色顔料として使用されました。パリの万博にも出展し、200年間、愛され続けた一流ブランドです。昭和46年に安価なベンガラにおされ、ベンガラ製造は途絶えました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成15年12月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市成羽町坂本1604 |
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「三間社流造」ですが、前一間が吹き通しとなっていて、流造形式の基本的な形式となっています。本殿周りに縁を設け、後ろを脇障子で隔てており、穴門山神社本殿に比べ、仏教建築に近い様式です。彫刻は派手で、江戸時代の様式が感じられます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年2月22日 |
所有者・管理者 | 領家惣社八幡神社 |
所在地 | 高梁市川上町領家2039 |
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この建物は、江戸時代の成羽藩勘定所で、山崎氏時代の中央役所の面影を伝えており、鬼瓦には山崎氏の家紋である「緋扇之内ニ四ツ目結」が見られ、昔の姿をよく留めています。勘定所は、年貢蔵米管理をはじめ、成羽領財政を支えた高瀬舟運行と運上金管理、領地の約7割を占める山林資源の経営管理、さらには連島や大坂中之島の飛び領支配などを所管しており、成羽領政の心臓部となる重要な役所でした。
享保15(1730)年の一匁銀札をはじめ、成羽領の古札もたくさん残っており、多量の藩札を印刷発行して幕末維新の財政難に対処した事を記録した村方文書も残っています。重層の頑丈な土壁で囲い、天井の上にのせた瓦葺きの大屋根など周到な耐火盗防災構造をもった建物で、成羽領政の史跡とともに、江戸時代の建造物として貴重です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年1月31日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市成羽町下原986 |
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広兼氏は、大野呂の庄屋で、同家2代元治の享和、文化の頃(1801~1818)小泉銅山とローハ製造(ベンガラ)を営み巨大な富を築きました。江戸時代末期に建てられた楼門づくりの城郭にまがうばかりの石垣は、当時の富豪を偲ばせています。
二階建の主屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣は文化7(1810)年の建築で、規模・構造とも雄大な城郭を思わせる構えです。離れは、大正の建築で、お茶室、化粧部屋、客間、風呂等を備えたお座敷であり、当主の結婚式に一度使用しただけで以後は使用されていないとのことです。
旧広兼家住宅の正面の尾根上に位置する天広神社は、広兼氏個人の神社として祀られていたものです。社務所もあり、境内には花木が植えられ、池・築山がつくられ、形の変わった石灯籠が数基置かれ、狛犬もあり、全体的には庭園風となっており衆楽園と呼ばれています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和59年11月15日 |
所有者・管理者 | 岡山県 |
所在地 | 高梁市成羽町中野2710 |
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鈴岳神社本殿の後ろの小高い所に三浦神社の社殿が建っています。八幡畝にあった八幡神社の社殿を、神社統合をした明治時代末に、現在地に移して三浦十二天を祀っています。
社殿は、八幡神社の由緒記によると貞享2(1685)年の再建とされ、桁行三間、梁間二間の三間社流造で、江戸時代初期の華麗な建築様式を随所に残しています。建物の意匠は美しく、虹梁の彫刻や懸魚、木鼻等に優れた技法が見られ、特に蟇股はその機能に適応した素晴らしい作りで、時代の特徴をよく示しています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和60年8月29日 |
所有者・管理者 | 鈴岳神社 |
所在地 | 高梁市有漢町有漢2958 |
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薬師院の入口にある仁王門は、江戸時代中期の建立とされ、伽藍の西端に位置する二層門です。
初層は門の両脇に阿形・吽形の仁王が立ち、二層には五大明王(不動・隆三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)が、山門ならびに境内の聖域を守護しています。
近年部分修理を実施したところ、寛文4(1664)年刻銘の瓦が確認されました。江戸時代の建築様式を良好にとどめた建築です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成16年7月20日 |
所有者・管理者 | 薬師院 |
所在地 | 高梁市上谷町4100 |
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薬師院本堂 | |
薬師院本堂 |
石火矢町にある武家屋敷で、江戸時代中期から後期にかけて、120~150石取りで、近習役や番頭役を務めた武士の住宅です。江戸時代後期の建築で、平屋建、西向きの正面の屋根は流れ向拝、南北の破風は入母屋造掛瓦の箕甲葺き、三ツ花懸魚を取り付けており、寺院を思わせる屋根です。玄関には幅2間の式台を設け、玄関の間は数寄屋風に朱色とし、正面には1間半の棚を設けています。式台上部には袖切をした水引紅梁に若葉を施し、蟇股には梅鉢の家紋を彫刻しています。内部は本床造り、海老束で支えた違い棚に天袋、禅宗風の花頭窓、柱はぜいたくな面皮柱など、数寄屋造の面影を残しています。
旧埴原家は板倉勝政の生母の実家であるため、備中松山の城下町の武家屋敷としては、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りとなっています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成15年7月25日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市石火矢町27 |
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明治37(1904)年、男子尋常高等小学校の本館として建築されました。木造二階建、総建坪613.8㎡で、施工者は地元大工の妹尾友太郎です。用材は臥牛山国有林のモミの大木を使用しています。無節で柾目の良材を入念に施工してあり、現在もほとんど狂いがありません。1階は職員室・生徒控室などがあり、2階の講堂は、豪壮な二重折上格天井になっており、明治の代表的な学校建築です。
小学校の移転ののちに、郷土資料館に転用され、高梁市内の民具など多数の資料を展示しています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和48年6月20日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市向町21 |
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臥牛亭は、備中松山藩主板倉勝静が御根小屋の一隅に建てた小亭(12.4㎡)です。勝静は、農耕の神を祀って五穀豊穣を祈り、時には自ら畑を耕して農民の労苦を偲び、眼下に広がる城下の町並みを眺めて、領民に思いを馳せたと伝えられています。明治6(1873)年の廃城令により、旧藩時代の建造物は全て撤去されるなか、山田方谷の計らいでこの亭は、対岸の蓮華寺境内に移築されました。旧主勝静を敬慕して、長くその遺徳を偲ぶものとして移築したとその碑銘にあります。
後年、崖崩れにより亭が傾いたので、八重籬神社境内に再度移築され、今日に至っています。平成22(2010)年に保存修理を行いました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和33年2月24日 |
所有者・管理者 | 八重籬神社 |
所在地 | 高梁市内山下120 |
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板倉勝静 | |
山田方谷 |
随神門は、寺院の仁王門にあたる邪悪なものが神様のいる聖域に入らないようにとの意味で建てられた門です。
穴門山神社の随神門は、正面から柱の間が三つに区切られ、そのうち中央の一つが通路となっている三間一戸の門となっています。
控柱が八本からなる八脚門様式と呼ばれる「三間一戸の八脚門」です。
現在の建物は、慶応4(1868)年に再建され、明治25(1892)年、大正10(1921)年、昭和48(1973)年と頻繁に屋根が葺き替えられています。
門の左右には随神(身)像が安置されています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和52年3月4日 |
所有者・管理者 | 穴門山神社 |
所在地 | 高梁市川上町高山市1035 |
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穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山の社叢 |
本門は、切妻造の妻の部分が進行方向(出入口と平行)にあり、妻は唐破風となっていて「向唐門」形式になっています。
正面一面、側面一面で、屋根は銅板葺に改められています。元禄12(1699)年の建立と伝えられていますが、現在の門は天保11(1840)年の再建によるもので、大正14(1925)年には屋根の葺き替えが行われています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和52年3月4日 |
所有者・管理者 | 穴門山神社 |
所在地 | 高梁市川上町高山市1035 |
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穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社随神門 | |
穴門山の社叢 | |
穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社随神門 |
穴門山神社は、平安時代前期の「延喜式神明帳」に記されているように、古代から多くの人々の信仰を集めていた神社です。
現在の建物は寛永9(1632)年に焼失した後、寛永14(1637)年に備中松山藩主池田出雲守長常が本殿・拝殿を再建し、その後宝暦3(1753)年に改修されたことが棟札から判明しています。また、境内には、水谷勝宗が大鳥居・石灯籠などを寄進したものが残されています。
本殿は、流造の屋根に唐破風の向拝で、それを支える向拝柱は4本で三間社流造となっており、本殿と幣殿、拝殿とを一つの屋根で結んでいます。軒回りや妻は彫刻装飾で飾られており、本殿破風の切妻部はかぶら懸魚で飾られています。桃山時代の建築様式を取り入れた装飾性の強い寺社建築です。
拝殿は、入母屋造で、正面は流れ向拝となっており、唐破風向拝柱は4本で三間社となっています。軒回りや妻の部分には、蛇腹支輪と蟇股を連ねた彫刻装飾が施されています。
拝殿の天井裏には棟札が残されていました。寛永14(1637)年、備中松山藩主池田出雲守長常が拝殿を再建するにあたり、大施主として寄進したことを証明する棟札など、6枚の棟札が指定されています。穴門山神社の建物の修理歴などを知ることができる貴重な資料です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年4月8日 |
所有者・管理者 | 穴門山神社 |
所在地 | 高梁市川上町高山市1035 |
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穴門山神社随神門 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山神社随神門 | |
穴門山の社叢 |
旧吹屋小学校は、吉岡銅山とベンガラ生産が隆盛を極めた時期にあたる明治31(1898)年に三菱商会から本部敷地の寄附を受け、明治33(1900)年に東校舎・西校舎および東廊下・西廊下、明治42(1909)年に本館が完成しました。
校舎は中央の本館の両側に東校舎、西校舎を左右対称に配置しており、旧吹屋小学校の大きな特徴として、本館二階にある講堂の二重折上棹縁天井や正面演壇をはじめとした内部意匠、各校舎の天井裏に造作されたトラス構造を挙げることができます。天井には棹縁という和風の要素が用いられているが、全体としてはトラス構造を用いるなど、洋風の意匠を意図して建築されたことをうかがい知ることができます。こうした特徴は、本館の建築当時、岡山県の技術者であった江川三郎八による「江川式」と呼ばれるものに類似しており、江川三郎八によって設計されたと推測されています。
旧吹屋小学校は、明治33年の尋常高等小学校の開校以来、子どもたちの日々の生活を見守り続け、現役最古の木造校舎として使用されてきましたが、平成24(2012)年3月末をもって閉校しました。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成15年3月11日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋1290-1 |
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吹屋小学校 | |
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松連寺は、弘仁3(812)年の開山で、最初は奥灘の地(奥万田)にありました。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、総督に任命された岡山城主宇喜多秀家は、出陣の時、松連寺の住職宥海法印と十一面観音像を座船に招いて従軍させ、祈願させました。帰国後、宇喜多は釜山浦での大勝利を賞し、観音堂を建立させました。その観音堂に座船の天井と扉を数枚用い、寺領百石などを寄進しました。松連寺は、のちの備中松山藩主水谷勝隆の命により、現在地に移りました。そのとき、観音堂の格天井の格間64枚(船天井)を本堂に移築しました。格間に金箔を押し、57枚は太閤桐が描かれており、精巧で豪華な桃山の遺風を感じさせます。
船戸は、長さ155㎝、幅77㎝、欅造りで客殿と観音堂の間の扉として使用されています。
時代 | 戦国 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和34年3月27日 |
所有者・管理者 | 松連寺 |
所在地 | 高梁市上谷町4102 |
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瑠璃山薬師院泰立寺は寛和年中(985年頃)の創建で、真言宗善通寺派。本尊は薬師瑠璃光如来です。
薬師院本堂は、間口、奥行きともに3間の単層入母屋、向拝造りです。棟札に元和10(1624)年とあり、江戸時代初期の建築ですが、随所に雄大豪華な桃山時代の建築様式がうかがわれます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和34年3月27日 |
所有者・管理者 | 薬師院 |
所在地 | 高梁市上谷町4100 |
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「近世ベンガラ商家の典型」として国の重要文化財に指定されている旧片山家住宅ですが、玄米蔵・弁柄箱・道具蔵は市の重要文化財に指定されています。
玄米蔵は、食糧の保管貯蔵庫で、海鼠壁を塗り込め、美観と防災を兼ね備えた魅力的な土蔵です。この区域一帯の海鼠壁にある「隠し釘」の「錺金」は棟ごと、場所ごとにデザインが多種多様に作られています。
弁柄箱は本来、弁柄を詰める木箱(弁柄箱や運搬箱)を保管するための倉庫として造られたものですが、町工場の仕事が拡大するにつれ、弁柄箱の作成、弁柄工場から送られた弁柄粉を篩分ける作業など、弁柄箱にかかわる多様な仕事を行う場所でした。
道具蔵は、日常生活に使われた家具什器類をはじめ、正月行事用具、神事や祭礼の行事用道具など、当時の弁柄窯元の豪華ながら庶民的な生活をしのばせるものが多く収納されていました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年7月25日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋367 |
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旧片山家住宅は、伝統的建造物群保存地区である吹屋の中町に位置しています。中町は、町並みの中心部で最も広壮な構えを誇っており、ベンガラ窯元の本家、分家、問屋、薬屋、料理旅籠屋などが軒を連ねています。中でも旧片山家住宅は、宝暦9(1759)年の創業以来、200年余りにわたって、ベンガラ製造と販売を手がけた老舗です。その家屋は、ベンガラ屋としての店構えを残す主屋とともにベンガラ製造に関わる付属屋が敷地内に立ち並んでおり、「近世ベンガラ商家の典型」として評価され、平成18(2006)年に国の重要文化財に指定されました。
通りに面した主屋は、一階に弁柄格子、二階に海鼠壁と虫籠窓といった伝統的な意匠に加え、両開きの大戸や腰壁などに近代的な装いが見られます。塩田瓦で葺かれた屋根は、江戸時代後期から明治時代後期にかけて家業の隆盛に伴って増築を繰り返した結果、階段のように棟の高さが変化しています。内部は、通りに面した表を営業の場にあて、その奥は土間に大きな竈を築くなどして生活の場に用いられました。また、庭に面して建つ座敷は、石見(島根県西部)から招いた大工に銘木をふんだんに用いて建てさせた非常にぜいたくなつくりとなっています。国の重要文化財に指定されているのは、主屋、宝蔵、弁柄蔵、米蔵、仕事場及び部屋の5 棟です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年12月19日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市成羽町成羽あ367 |
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旧片山家住宅 |
有漢町上組大石地区の保月にある石幢は、市道脇の山際にあり、石塔婆は約150m 下った道脇に立っています。
石幢は、花崗岩の六角柱の上に六角の笠石と五輪塔を重ねた珍しい石造物です。本来は笠石の上に請花と宝珠がのりますが、五輪が流用されています。総高は264 ㎝で、正六角柱の径約50 ㎝、一辺25 ㎝前後で、上部がやや細くなっています。
第一面に7 つの仏が彫られ、造立の趣旨があり、各面に仏と銘文が刻まれています。初七日より十三年忌までの十二尊像を彫り、仏道修業の道標とするとの趣旨で、室町時代以後の十三仏信仰への過渡期を示す貴重な資料として注目されています。第六面に「願主沙彌西信結義西阿 嘉元四年十月廿四日 大工井野行恒 敬白」(1306)とあります。
石塔婆は釈迦、阿弥陀、地蔵の三尊が刻まれているので、三尊板碑とも呼ばれています。高さ314 ㎝、幅43 ㎝、厚さ30 ㎝という大きな花崗岩製の板碑です。三尊の下部に「心王念法不可破壊 嘉元三季乙巳十一月十三日 結衆二十八人敬白 大願主 漆 真時 大工 井野行恒」(1305)と彫られています。
時代 | 鎌倉 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和36年3月23日 |
所有者・管理者 | 臍帯寺 |
所在地 | 高梁市有漢町上有漢9167 |
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笠神の文字岩 |
備中松山城の建造物としては、天守、二重櫓と三の平櫓東土塀が現存しており、重要文化財に指定されています。天和元(1681)年に藩主水谷勝宗が修築に着手し、同3(1683)年に完成しました。建物は塗込土蔵造のいわゆる近世式城郭建築に改められましたが、城地は元弘元年(1331)に備中守護職高橋九郎左衛門が初めて築城した小松山城の縄 張をほとんどそのまま用いています。
古文書によると、天守は三重櫓と呼ばれており、外観は三重ですが、実際には二階建です。一階には囲炉裏があり、装束の間という城主だけが入る一段高い部屋があります。二階の正面には御社檀を設けて三振の宝剣(県指定重要文化財)を御神体として祀っていました。本来の構造は八の平櫓から廊下を通って入る連結式でしたが、昭和15(1940)年の大修理の際に、荒廃がひどく原型の復帰が困難なため、やむなく切離したもので、昔の姿とはやや異なっています。
二重櫓は、天守の北側に配置されており、天守とともに本丸を構成する重要な建築物です。昭和3(1928)年に有志の拠金によって修理、昭和34(1959)年の国による解体修理で完全に復原しました。
三の平櫓東土塀は、土を練って造った土の塊を積み重ね、白壁仕上げにしたものです。
なお、備中松山城は、天守の現存する山城としては全国で唯一のものです。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和16年5月8日 |
所有者・管理者 | 文部科学省 |
所在地 | 高梁市内山下1 |
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備中松山城御根小屋跡 |
現在の国分寺は、奈良時代に建てられ中世に廃寺となった備中国分寺を再建しようと、清水山惣持院住職増鉄和尚が、領主蒔田氏から再興の許可と国分寺の跡地を賜り、江戸時代・享保2(1717)年から19 年の歳月を費やして建立したものです。建設に費やした費用は、銀360 貫目、金に換算すると5,000~6,000 両にのぼったといわれています。領主蒔田氏の援助が大きかったためか、武家的な書院造風の簡素な建物となっています。
※庫裏 寺院の台所にあたる建物、あるいは住職および家族の住むところ。入母屋造りの二階建、本瓦葺となっています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和49年5月31日 |
所有者・管理者 | 国分寺 |
所在地 | 総社市上林 |
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備中国分寺 | |
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備中国分寺五重塔 |
日照山国分寺は、奈良時代に創建された備中国分寺の再建を目指した増鉄和尚により、江戸時代・享保2(1717)年から19 年の歳月を費やして建立されたものです。
吉備路のシンボルともいうべき五重塔は、国分寺の再興からおよそ100 年後の文政4(1821)年ごろより、証旭和尚によって建立が図られました。工事が完了したのは、天保14(1843) 年か弘化元(1844)年のことといわれています。県内唯一の五重塔で、初重から三重までがケヤキ材を、四重以上がマツ材を主に使用しています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和55年12月18日 |
所有者・管理者 | 国分寺 |
所在地 | 総社市上林 |
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宝福寺は、天台宗の寺として創建されましたが、鎌倉時代の中ごろに、臨済宗に改宗され、有力な禅宗寺院として栄えました。現在も禅の修行や、秋の紅葉の名所として、多くの人々が訪れています。
境内にある三重塔は、南北朝時代の永和2(1376)年に建てられたもので、県下では、弘安8(1285)年に建てられた美作市の長福寺の塔に次いで2 番目に古い塔です。宝福寺の中でも 、戦国時代の戦火を免れ残っている唯一の建物です。本瓦葺、丹塗りの三重塔で、各重のバランスも良い名塔です。
宝福寺には、総社市赤浜で生まれたとされる画聖雪舟が子供のころ修行をし、涙でネズミの絵を描いたという逸話があります。雪舟はこの三重塔を日々眺め、塔内にも足を踏み入れていたと思われます。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和2年4月25日 |
所有者・管理者 | 宝福寺 |
所在地 | 総社市井尻野 |
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宝福寺 |
梅荘は、塩田王として有名な野﨑武左衛門の孫である武吉郎が、日露戦勝記念として建てた別荘です。当初は野﨑家の海水浴用の休憩所として計画されました。本館を中心に北側に別館、西側に離れ、東側に女中部屋及び台所、北東側に蔵が配置されています。別館は明治初期頃の建物を移築したものと伝えられていますが、その他は明治40(1907)年にできたと考えられます。
京都から大工を呼び、煎茶に通じた文人画家であり築庭家であった久我小年が監督し2年余りをかけて完成したといわれています。庭に梅の木が多くあったことから「梅荘」と呼ばれました。現在は所有者が変わり、本館は飲食店として利用されています。
建築当時、文化人や地域の名士などを中心に煎茶の文化が発達していましたが、煎茶室をもつ本館や煎茶趣味の離れは近代における座敷の発達の特徴を示し、貴重なものとなっています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成27年 3月26日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市児島通生1200 |
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20世紀初頭、倉敷でも繊維産業が急速に発展し、女性労働者が増えるにつれて育児環境や子どもの発達への影響が悪化し始めます。このような社会問題を解決するために、倉敷さつき会が先頭に立ち、大原孫三郎や倉敷紡績からの援助も受けながら、大正14(1925)年に「若竹の園」保育園がつくられました。
園舎の設計は、教育者・建築家・芸術家として著名な西村伊作が行いました。西村は設計にあたり、バンガロー様式を採用して、小さな棟を複数配置する図面を描きました。結果、森の中に立ち、庭に小川の流れる「おとぎの国」の夢のお城のような園舎になり、数回の増改築を経ても核となる当初の部分がよく残っています。
西村は、与謝野鉄幹・晶子らとの交流を深める中で「文化学院」を創設し、文部省令に縛られない自由な教育を実践しました。倉敷文化協会に招かれて「文化生活の実行」と題する講演を行ったことがきっかけで、倉敷との縁が生まれます。そして、倉敷教会や祐安の洋館群も手がけることになりました。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成21年 4月28日 |
所有者・管理者 | 財団法人若竹の園 |
所在地 | 倉敷市中央1丁目6-12 |
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大原孫三郎 | |
倉敷の礎を築いた 大原孫三郎 | |
倉敷紡績記念館 | |
倉紡記念館 |
明治39(1906)年に設立されて誓願寺向かいの民家を借りて会堂にしていた倉敷教会が、明治44(1911)年の今橋北西・惣堂社の跡地に建設した会堂を経て、大正12(1923)年に新築・移転した教会の建物です。
木造一部コンクリート造(木骨コンクリート造)三階建、カラーベスト葺で、建築当時の様相を極めて良好に残しています。
設計者は、東京・神田に文化学院を創設した教育者であり、建築家・芸術家としての一面も有する西村伊作です。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成21年 1月 8日 |
所有者・管理者 | 日本基督教団倉敷教会 |
所在地 | 倉敷市鶴形1丁目5-15 |
校地のほぼ中央に建つ武道場で、南北は約28m、東西は約11mあります。 木造平屋建て、入母屋造り瓦葺きで、東向きの正面には、切妻造り玄関と千鳥破風が設けられています。 現在も柔道場・剣道場として使用されていますが、保存の状態が良い、現役の近代和風の学校建築物です。
時代 | 昭和 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成19年10月2日 |
所有者・管理者 | 岡山県 |
所在地 | 倉敷市藤戸町天城269 |
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明治期の貴族院議員・野崎武吉郎(1848~1925)が、塩田王と呼ばれた祖父・武左衛門(1789~1864)のために建てたオベリスク型(方尖塔)の記念碑です。約8m四方の基壇の上に上下2組の台座を設置し、その上に長さ約12mの塔を立ち上げたもので、児島沖の六口島産の花崗岩を使用しています。
日本でも珍しい古代エジプト趣味の建造物で、フランス留学経験のある土木技師・山田寅吉が設計しました。県指定史跡「野崎家旧宅」の南西約400mに位置する約1000平方メートルの小庭園内にあります。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成16年6月9日 |
所有者・管理者 | (公財)竜王会館 |
所在地 | 倉敷市児島味野 |
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この旧倉敷天文台スライディングルーフ観測室は、大正15(1926)年に原澄治(倉敷市名誉市民)の資力と京都帝国大学教授山本一清の支援により、日本最初の民間天文台として建てられたもので、内部には当時、我が国では最大級となる英国ホルランド社製の口径32cmの天体望遠鏡(倉敷市指定重要文化財)が設置され、広く一般に開放されてきました。
また、長年倉敷天文台長を務められ、生涯に彗星12個、新星11個を発見した世界的な天文家・本田實(倉敷市名誉市民)も、この観測室で星の観測を行いました。
観測室の規模は、東西4.4m、南北5.3mで、1.1mのレンガ造りの基礎の上に、桁高2.2mの木造下見張りの軸部が乗っています。屋根は切妻、鉄板張りで、室内の歯車のついたハンドルを回転させることにより、屋根が破風の角度に沿って東西方向に滑り降りるように開くという非常に珍しい構造をもっており、科学史上においても貴重な建物であることから、平成13(2001)年8月28日に国の登録有形文化財に登録されました。
倉敷市では、本田實生誕100年となる平成25(2013)年に、この観測室を公益財団法人倉敷天文台から譲り受け、創立当時に近い姿で、それまであった中央二丁目19-10から、ライフパーク倉敷に移築・復元を行いました。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成13年8月28日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市福田町古新田940 |
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本田實 | |
旧倉敷天文台スライディングルーフ観測室 | |
原澄治・本田實記念館 |
非常に精巧な花莚「錦莞莚」の発明で知られる磯崎眠亀(1834~1908)の住宅兼作業場として、明治7(1874)年に建築されたものです。保存・修理を経て昭和63(1988)年に「倉敷市立磯崎眠亀記念館」として開館されました。
基本的には、通り土間を持つ二列型の町屋の平面をしていますが、機能・意匠の両面において発明家らしい眠亀のアイデアが随所に見られます。
最大の特徴は、建物の昇り降り用に、階段でなくスロープを配置した点にあります。これは、物資の搬入・搬出を素早く、そして楽に行おうとするものです。また、土間の吹き抜け部分には滑車が設けられ、ここから物資を出入することも可能なように工夫されています。他にも、式台形式の玄関の戸は、菱形の桟が入り、回転と横滑りによって開閉する珍しい形式です。二階の窓には、外に向けて突き出す独特の雨戸がつけられています。
平成12(2000)年11月6日、国の文化財登録原簿に登録され、登録有形文化財になりました。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成12年10月18日 |
所有者・管理者 | 倉敷市教育委員会 |
所在地 | 倉敷市茶屋町195 |
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木造平屋建ての洋風建築の建物で、中央部分と、そこから東西に延びる両翼部分から成る建物です。
中央部分には正面に玄関、その奥に八角形の展示室(旧遊戯室)があります。両翼部分は北側に開放廊下が通り、南面に収蔵室・作業室(いずれも旧保育室)が配置されています。
この建物の最大の特徴は、玄関を入ってその奥にある八角形の平面をした展示室に表れています。内部に支柱を使わず広い空間を確保することは、当時としては斬新な試みであり、幼児教育実践の場としての機能性を満たしたことは、高く評価されています。また、こうした様式をとどめる園舎は、この建物が現存する唯一のものといわれており、建築様式からも特徴あるものになっています。
内部の意匠について、天井は中央部が折り上げになった花弁状になっています。そこから八角形の平面の形に沿って放射状に大きく八分割され、さらにそれぞれが二つに分けられています。これらに巧みに板が張られていることも含め、非常に特色のあるものになっています。
この他にも、中央部分の屋根が、日本瓦葺きの屋根の頂部に金属板葺きの屋根が乗る二段構成になっている点や、正面南面に三角形の屋根が付いていたり、背面北側は屋根が放射状に広がっていたりするなど、変化に富んだ屋根構造をしている点も、この建物の大きな特徴の一つになっています。
外壁は下から縦板張り、横板張り、白漆喰塗の構成で、しっかりとした分節がなされ、引き締まった意匠になっています。また、正面玄関や開放廊下にアーチが用いられることによって、園舎としての柔らかみが醸し出されています。さらに、正面玄関の上には、巾着をかたどったユニークな棟飾りや桜の花の文様が置かれるなど、園舎として子どもたちに親しまれるような工夫も凝らされています。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成12年10月18日 |
所有者・管理者 | 倉敷市教育委員会 |
所在地 | 倉敷市西中新田669 |
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旧主屋に付属する座敷棟で、木造平屋建・本瓦葺きの建物です。天明年間(1781~1789)に建てられたと伝えられ、備後国神辺(現在の広島県福山市神辺町)出身の儒学者である菅茶山によって「西爽亭」と名付けられました。
西爽亭を構成する座敷棟・御成門・茶室および庭園の中で、建築上特に優れているのが、御成門と座敷棟にある式台玄関です。通りに面する御成門は、本瓦葺きの薬医門形式で、屋根の四隅に意匠の凝った鬼瓦を乗せています。式台玄関は幅が2間あり、入母屋の屋根で、凸型に緩やかに傾斜したむくりのある唐破風様の妻飾がついています。
式台玄関を入ると、「取次の間」「次の間」「上の間」と続きます。「次の間」「上の間」は、内部の仕上げこそ格別華美というわけではありませんが、天井が比較的高く、ゆったりとした数寄屋風の書院になっています。さらに奥へ進むと湯殿・小便所・大便所・手洗いが配置されており、江戸時代の上級武士の生活の様子がうかがわれます。
屋敷地の南に建つ茶室は、台目3畳と中板からなる特異な平面をもつ部分と、庭の傾斜した部分に懸造状に建てられた台目二畳の煎茶席で構成されており、美しい意匠をとどめています。
このような建築物群は、豊富な庭園の石組みと相まって、築造された天明期の風趣を漂わせています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成12年10月18日 |
所有者・管理者 | 倉敷市教育委員会 |
所在地 | 倉敷市玉島3丁目8-25 |
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児島の塩田王・野崎武左衛門の孫、野崎武吉郎は明治23(1890)年から3期16年にわたって貴族院議員をつとめ、中央知名人としばしば交友を深めていました。この頃、味野には児島郡役所があり、人々が多く行き交っていました。中央知名人の迎賓館的施設として、また、往来する人々の接待や宿泊、集会の場として建造されたのが、この建物です。この建築事業には、日清戦争後の失業対策という意味も兼ねられていました。
主屋は入母屋造の式台玄関を構え、百畳敷の大広間を有する大規模で複雑な建築です。なまこ壁の土蔵は宴会用の備品類を収納した道具蔵で、居宅は屋敷地の維持管理人の住宅です。車寄と車夫詰所は当時の地方の交通事情の一端を伺い知る貴重な建物です。
敷地内にある2つの茶室は、野﨑武吉郎の還暦記念に建てられたもので、外葭葺きで田舎屋風に仕立てられています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成12年4月28日 |
所有者・管理者 | ナイカイ塩業株式会社 |
所在地 | 倉敷市児島味野1-8-3 |
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第一合同銀行の倉敷支店として、大正11(1922)年に竣工したルネサンス風の建物です。総社市出身の薬師寺主計が設計しました。彼は大原美術館や有隣荘など、大原家関連の建物の多くに関わった建築家です。
鉄筋コンクリート造り(一部木造)の2階建てで、屋根は寄棟、小屋組はトラス組です。外壁は御影石洗い出しで仕上げられ、腰壁は御影石貼りになっています。正面に6本、側面に3本の円柱をあしらい、屋根は銅板一文字葺きで、前後の屋根上には3つの屋根窓が設けられています。営業室は2階まで吹き抜けになっており、壁と天井は洗練されたデザインの漆喰レリーフで飾られています。
当初の姿から増改築・修理工事を経ておりますが、外観・内部ともに保存状態が良好な建物です。
※現在は営業されていません。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成10年12月11日 |
所有者・管理者 | 株式会社中国銀行 |
所在地 | 倉敷市本町3-1 |
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観光文化施設「倉敷アイビースクエア」の一角にあるこの建物は、明治39(1906)年に倉敷紡績が5度目の工場増設を行った時、製品倉庫として建てられたものです。煉瓦造り(一部木造)の平屋建物で、屋根は寄棟桟瓦葺、小屋組はトラス組です。
建物入口には擬石洗い出しのアーチが設けられており、意匠化した要石には、倉敷紡績のマークを見つけることが出来ます。
昭和47~56(1972~1981)年にかけて、大原美術館の分館として利用するために改装されましたが、保存状態が良く、往時の姿をとどめています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成10年12月11日 |
所有者・管理者 | 倉敷紡績株式会社 |
所在地 | 倉敷市本町7-1 |
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倉敷紡績創業の明治21(1888)年に、原綿貯蔵用の倉庫として建てられたものです。当初は2棟別々の建物でしたが、明治30年前後の工場増設の際に棟続きに増築され、現在のコの字型平面形になりました。
木造煉瓦造の平屋建物で、屋根は寄棟桟瓦葺です。外壁は白漆喰塗で仕上げられており、和風の外観になっていますが、内部はトラス組の小屋組など、西洋の技術が取り入れられています。
昭和44(1969)年、観光文化施設「倉敷アイビースクエア」を構成する建物の一つとして改装されました。倉敷紡績の歴史を伝える展示施設に生まれ変わり、現在に至っています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成10年12月11日 |
所有者・管理者 | 倉敷紡績株式会社 |
所在地 | 倉敷市本町7-1 |
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村山家住宅は、明治24(1891)年に高田氏(西高田)の邸宅として建築された、木造二階建ての洋風建物です。
西高田は幕末以来、塩業で財をなした高田三家のひとつで、明治中期には紡績所の創設や経営にも携わっていました。
昭和10(1935)年からは、医院を開業した村山氏の診療所として使用されることになり、昭和36(1961)年まで外科医院として利用されました。その後は村山氏の居宅として、建築当初の形態をほぼとどめて現在に至っています。
建物の外観は、寄棟造・桟瓦葺の屋根部と白漆喰仕上げの壁体及び花崗岩の基礎石から構成されています。2階の全面は、吹き抜けのバルコニーに6本の円柱が建ち並ぶコロニアル様式になっています。1・2階の扉口上部には半円形のアーチが置かれ、両開きの窓には鎧戸が設置されています。
このほかにも、軒蛇腹、バルコニーの手すり等の各部に、美しい洋風装飾の工夫が施されています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成9年6月12日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市児島下の町2-1527-2 |
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大正6(1917)年に倉敷町役場として建てられた擬洋風の建物です。屋根は寄棟、小屋組はトラス組になっています。北東隅の塔屋の二重屋根は銅板葺で、その他は桟瓦葺です。外壁は下見板張、白ペンキ塗で仕上げられています。
昭和3(1929)年の市制施行により建物が手狭になったため、市役所機能が移転しました。残されたこの建物は、倉敷市公益質屋、倉敷市農業共済組合事務所、倉庫などに転用され、荒れるままになっていました。
昭和43(1968)年に市民の中から保存の声が上がり、昭和46(1971)年の保存修理、昭和60~62(1985~1987)年の解体修理を経て、現在は「倉敷館」の名で観光案内所として利用されています。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成28年10月17日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市中央1丁目4-8 |
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楠戸家は、「はしまや」の屋号を持ち、明治2年の創業以来、今日も呉服店として営業が続けられています。主屋をはじめ米蔵・炭蔵・道具蔵・塀が平成8(1996)年に登録文化財になっていますが、主屋のうち店舗部・玄関部・中座敷部は、平成14(2002)年2月20日に倉敷市指定重要文化財になりました。
現在の店構えは明治中期に整えられたとされています。主屋の平面は町屋の完成形のひとつである「表屋造」で、明治期の町屋らしい合理性の高いものになっています。主屋2階のしっくいを塗り込めた「虫籠窓」は、当時の近畿地方の町屋の手法が取り入れられており、楠戸家住宅の大きな特徴になっています。また、海鼠壁(なまこかべ)の蔵や屋根付きの板塀なども含め、明治時代の町屋の屋敷構えとして高い水準を示しています。
古禄の町屋「井上家住宅」、新禄の町屋「大橋家住宅」や「旧大原家住宅」の時代のあとを受けて、楠戸家住宅は明治時代中期を代表する町屋として、倉敷の町屋の歴史を現代に伝えています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財(主屋)、国登録重要文化財(米蔵ほか) |
指定年月日 | 平成14年2月20日(主屋)、平成8年12月20日(米蔵ほか) |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市東町1-20 |
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神社の創建沿革については、詳しくわかってはいませんが、流行病を免れるため、村の氏神様として建てられ、天形星社を称した時期を経て、明治3(1870)年に元の天石門別保布羅神社の社名に復したものと伝えられています。 本殿は、三段に整地した社地の上段に石積基壇を設け、 西を正面にして建てられています。桁行1間、梁間1間の一間社流造、檜皮葺の白木の建物で、屋根には千木、鰹魚木と呼ばれる飾りを配し、妻部分など細部の様式は曽原にある清田八幡神社本殿によく似ています。
また、棟札によると元禄11(1698)年の改築とされていますが、この時期備前藩では、 元禄10(1697)年の吉備津彦神社の改築をはじめ、神社行政への新たな取り組みを始めており、 こうした流れを受けたものと考えられます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和58年4月26日 |
所有者・管理者 | 天石門別保布羅神社 |
所在地 | 倉敷市福田町広江726 |
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この建築は日本式木造灯明台で、味野浜と赤崎浜境の入江の埠頭にあり、文久3(1863)年に塩釜明神の御神燈として、また、浜へ出入りする船の夜間照明のための灯台として建てられました。
この地は野崎武左衛門が創始した塩田地帯の東端に当たり、かつては野崎浜と呼ばれ、塩の積出しをする船着場になっていました。
灯明台は桁行1間、梁間1間で、宝形造、本瓦葺の屋根には露盤の上に宝珠が据えられています。高さは約9.7mで、灯室の周囲には欄干を巡らし、その下から四面に裾開きに焼板を張り、基礎部分には花崗岩の切石を用いています。
こうした木造高灯籠形式のものは全国的にも少なく、西洋式灯台に変わる以前の灯台を知ることができる資料として、貴重なものです。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和49年10月19日 |
所有者・管理者 | (公財)竜王会館 |
所在地 | 倉敷市児島味野4048 |
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院記によると、かつて、この地には、西岡山西安寺という大寺があり12カ院を擁して栄えたが、大火によって一山の堂塔を焼失したと伝えられています。元和元(1615)年勢誉法印により再興され、元禄12(1699)年には名を行願院と改め、本寺の地所へ移築したとされ、現在は2カ院が残っています。
この仁王門は、桁行3間、梁間2間の欅の円柱を用いた三間一戸の八脚門の建物で、屋根は切妻造、本瓦葺となっています。また左右に脇間のある様式で、両脇間は前後にわかれ、仁王像は後室に祀られています。
昭和52年度に行われた保存修理の際に墨書が発見され、慶安元年~4(1648~51)年 にかけて建造されたことがわかり、またこの保存修理に伴い、本堂南方の現在の位置に移されました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和43年 7月19日 |
所有者・管理者 | 行願院 |
所在地 | 倉敷市西岡1789 |
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貞観元(859)年 の開基と伝えられる宝島寺は、寂厳の住んでいた寺としてもよく知られています。
慶長年間(1596~1614)に火災にあいますが、この仁王門は、そのとき、難をのがれた唯一の建物として今日まで伝えられているものです。
桁行3間、梁間2間の欅の円柱を用いた三間一戸の八脚門で、屋根は切妻造、本瓦葺となっています。また、左右に脇間のある様式で、両脇間は前後にわかれ、仁王像は後室に祀られています。
昭和58(1983)年度に保存修理が行われ、鮮やかな丹塗りの建物に復原されましたが、屋根瓦や妻の部分などの細部には装飾がほとんどみられず、全体的には簡素な造りとなっています。
また創建年代については室町時代中期頃と推定されていますが、この保存修理の際に発見された墨書から、享保4(1717)年に大修理が行われたこともわかりました。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和40年3月25日 |
所有者・管理者 | 寶島寺 |
所在地 | 倉敷市連島町矢柄5633 |
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この三重塔は、総高21.5m、方三間、本瓦葺で、隅木の先に銅製の風鐸を吊り、屋上には青銅製の相輪を立てています。
軒は、初重・二重を二軒繁垂木、三重を二軒扇垂木としており、軒の美しさには目をひかれます。組物は和様二手先で、各重には高欄が巡らされています。柱には欅材の円柱が用いられ、心柱は二重でとめられており、初重内部には四天柱が立ち、内陣、外陣に分けられ、床は拭板敷、天井は格天井となっています。
江戸時代末期の再建とされていますが、彩色のない白木造の塔は清楚で美しく、古い様式を継承した優れた三重塔です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和49年 5月31日 |
所有者・管理者 | 尊瀧院他四ケ院 |
所在地 | 倉敷市林 |
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由加神社本殿は、江戸時代、麓に門前町が栄えた由加山の一角に巨石を背にして立つ小建築です。神仏分離令までは由加大権現を祀った社殿でしたが、明治5(1872)年に由加神社となりました。
本殿は桁行3間、間1間の三間社で、正面に3間の向拝が取り付き、背面を除く3間に擬宝珠高欄付きの縁があります。屋根は大正の改修時に銅板葺に改められていますが、入母屋造の屋根二棟をひとつの屋根にまとめた比翼入母屋造といわれる形式で妻入として比翼の破風の美しさを正面にみせています。
身舎は円柱を使い、正面には桟敷を入れ、両側面は板壁で金箔を貼り、内部は内陣と外陣に分けられ、航海安全の神が祀られています。また、壁や柱などの細部に施された装飾彫刻や極彩色からは、創建当時の輝きとともに江戸前期の様式を伺うことができます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和36年7月25日 |
所有者・管理者 | 由加神社 |
所在地 | 倉敷市児島由加2852 |
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社伝によるとこの神社は、もと、粒江の清滝山中にありましたが、承久元(1219)年にやや南にあたる現在地に移転したとされています。現在の社殿は、寛永19(1642)年に児島郡内の17カ村の氏子によって再建されたもので、総鎮守といわれる児島の古社です。本殿は、桁行3間、梁間2間の単層で、屋根は入母屋造、檜皮葺となっており、周囲には擬宝珠高欄付の縁が巡らされています。妻飾りは二重虹梁大瓶束式で、破風下に鰭つきかぶら懸魚をつり、前面の3間の向拝は、中央の1間を軒唐破風としており、その上に千鳥破風が付けられ、内部は前一間半を外陣とし、奥半間は扉で仕切って内陣としています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和35年 8月23日 |
所有者・管理者 | 清田八幡神社 |
所在地 | 倉敷市曽原1124 |
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蓮台寺は、寺伝によると、天平5(733)年行基によって開かれたと伝えられています。その後、興廃を繰り返し、応永年間(1394~1428)に増吽により再興されました。
客殿は、桁行8間、梁間5間、本瓦葺裳階付入母屋造の堂々たる建造物で、寛政から文化年間の再建とされ、平成4(1992)~6(1994)年にかけて行われた保存修理工事の際には、享和元(1801)年の上棟棟札が発見されています。その内部は6室から成り、上々段制を採用した武家特有の形式を示す書院造となっています。
孔雀の間、柳の間など各室の襖や貼付壁には、室の名称となっている花鳥図や山水図の画題が四条派画人である柴田義董などの手によって描かれており、県内でも有数の障壁画群として広く一般に公開されています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年 4月 1日 |
所有者・管理者 | 蓮台寺 |
所在地 | 倉敷市児島由加2855 |
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高梁川東西用水取配水施設は、高梁川の下流に位置する農業用水施設です。
治水を目的とした高梁川改修工事の一環として実施され、樋門は内務省大阪土木出張所の設計により大正13(1924)年に、事務所は同15(1926)年に竣工しました。
樋門はいずれも鉄筋コンクリート造で、酒津取水樋門は表面全体に花崗岩の切石を積む荘重な外観、南配水樋門は15連からなる大規模な構造物です。
高梁川東西用水取配水施設は、近世以来の小規模な取水施設を統合して、水利用の合理化と施設の大規模化が図られた近代農業用水施設のうち、大正期における最大規模のものとして重要なものです。
また、大正期に全国的に導入が進められた鉄筋コンクリート造樋門の現存例としても貴重であり、農業土木技術史上価値が高いものです。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成28年7月25日 |
所有者・管理者 | 高梁川東西用水組合 |
所在地 | 倉敷市酒津2826 |
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花崗岩製で、基礎・塔身・笠・相輪の各部ともにそろっています。基礎は四面ともに無地のままで、正面に年号と勧進聖人覚圓起立之の刻銘があり、塔身の四面に如来と菩薩の名が刻んであります。
昭和3(1314)年の造立で、素朴ながら雄大で、どっしりとして重々しく、鎌倉時代の世相をそのまま表しています。
時代 | 鎌倉 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和40年5月29日 |
所有者・管理者 | 地区有 |
所在地 | 倉敷市真備町辻田 |
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この宝塔は、当時尊瀧院におられた桜井宮覚仁法親王と冷泉宮頼仁親王が、隠岐で亡くなった父君、後鳥羽上皇の一周忌供養のために仁治元(1240)年に建てたものと伝えられています。
総高約3.8m、 花崗岩製の大宝塔で、方形の壇上積基壇上には格狭間のある基礎を置いています。塔身は円筒、首部・高欄は一石で作られており、高欄には天女が刻まれています。
軸部には正面に座像が刻まれていますが、印相は定かでなく、背面には梵字があったといわれています。笠の形式は通常ですが、軒口の造りや軒反りには、鎌倉時代の特色がよく示されています。また、軒端の四隅には風鐸等をかけるための小孔があいています。
石塔様式などから仁治ごろの造塔はほぼ確かであるとされ、見事な壇上積基壇の中央に立つ宝塔からは、堂々とした姿が伺えます。
時代 | 鎌倉 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年 6月28日 |
所有者・管理者 | 五流尊瀧院 |
所在地 | 倉敷市林952 |
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五流尊瀧院の採燈護摩 | |
熊野神社本殿(第一~六殿) 6棟 |
本荘八幡宮は、大宝元(701)年に建てられたと伝えられている古い神社で、水島灘を見渡す宮山の上にあります。
石鳥居は神社の境内に入る出入口として立てられるのが普通であり、この鳥居も元は三ノ鳥居として社前の参道に立っていました。その後、保存のために社殿の裏、瑞垣の中に移され現在に至っています。
鳥居は本来簡単な構造ですが、わずかな形態の差異によって様々に分類されています。二本の柱の上にのせる横木を笠木、柱の途中を結合するものを貫と呼び、笠木の下に島木を入れ、島木と貫の間に額束を挟んだ形式を明神鳥居といいます。
八幡宮のこの鳥居は、高さ2.3m、 花崗岩製の明神鳥居で、笠木と島木は一石で作られ穏やかな真反りを示しています。向かって左柱に「応永廿八年辛丑(1421)十一月吉日」、右柱に 「願主塩生村住人松井紀義泰辰生年三十二二(「二二」は「四」の意)」の刻銘があり、室町時代初期の様式を典型的に示しており、全国における当代石鳥居の基準作として知られています。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年 6月28日 |
所有者・管理者 | 本荘八幡宮 |
所在地 | 倉敷市児島通生22 |
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江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い、「塩田王」となった野崎武左衛門(1789~1864)の居宅で、低い丘陵を背景に長屋門、御成門の門建築が配され、その奥に南北に連なる広大な敷地があります。
中央に表書院、主屋を置き、その北側には内蔵、大蔵、書類蔵、道具蔵、岡蔵、夜具蔵が建ち並んでいます。
桁行約26mの堂々とした構えの長屋門を入ると、 踏石を伝って主屋・表書院へ導かれます。表書院は南東面に縁座敷が巡らされ、淡雅なゆったりとした内部空間が広がっており、その前面には3棟の茶室のほか、 奇石・巨石を組み、松やツツジ、苔を巧みに配した美しい枯山水の庭園が広がっています。
武左衛門の精神が反映された建築群は旧状がよく保存されており、庭園や塩業資料の展示などを含めて広く一般に公開されています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年12月19日 |
所有者・管理者 | (公財)竜王会館 |
所在地 | 倉敷市児島味野1-11 |
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井上家住宅は、倉敷川畔の重要伝統的建造物群保存地区の中でも代表的な大型の町屋の一つで、古くから倉敷の中心通りである本町通り(往還)に面して建っています。
小屋組の登り梁形式で束を併用しているなど、非常に古いかたちを採用しています。また、南面二階外壁の7つの倉敷窓には火災に備えて土扉が付いています。倉敷では少なくとも江戸時代後半には大火が無く、こうした古い町屋の形式が残っているのは井上家だけとなっています。
平成24~34年度まで全解体して保存修理を行っており、今回の修理で発見された墨書から、主屋は享保6(1721)年に上棟されたことがわかり、倉敷美観地区内では最古の町屋であることが判明しました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年 5月23日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市本町1-35 |
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大橋家は、江戸後期の倉敷において、塩田・新田開発によって財をなした大地主で、大原家と共に「新禄」と呼ばれる新興勢力となっていました。
住宅の屋敷構えは大原家とは大きく違っており、旧往来に面して長屋門を有し、主屋が通りに直接面しておらず、前庭が隔て門の奥側に配置されている点に特色があります。
建造物の特徴としては、旧大原家住宅同様、主屋は本瓦葺、厨子二階建てで、1階に倉敷格子、2階に倉敷窓を備え、米蔵・内蔵は土蔵造りで『なまこ壁』を備えており、非常に美しい姿を見せています。
往時の新禄層の屋敷構えをよく伝えており、倉敷町屋の典型を示すものとして主屋や長屋門・米蔵・内蔵の4棟が国の指定を受けています。平成3(1991)年~7(1995)年にかけて、3年4カ月を要した建物の全解体を含む保存修理工事が行われ、往時の輝きを取り戻しました。これによって附指定の「普請覚」のほか、棟札・墨書等の資料から寛政8(1796)年より寛政11(1799)年にかけて主要部分が建築され、その後、文化4(1807)年, 嘉永4(1851)年の2度にわたって大改造が行われたことがわかっています。
そして、最も屋敷構えの整った嘉永4年の姿に復元されて一般に公開されており、格式の高さと地主の繁栄ぶりを伺い知ることができます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年 1月21日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市阿知3丁目21-31 |
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倉敷は、江戸初期以来、幕府が直接治める地でした。倉敷川の水運を利用して経済力が高まり、江戸後期には「新禄」と呼ばれる新興勢力が台頭し、それまでの「古禄」と呼ばれる勢力に代って次第に富を蓄え、社会的地位を確立してきました。
こうした新禄層の屋敷のうち、旧大原家住宅と大橋家住宅の2つの町屋が、往時の面影を最もよく留める町屋として国の重要文化財に指定されています。屋敷構えは互いに全く異なるものの、主屋等の建造物はどちらも18世紀末における倉敷町屋の代表的な形式を示しています。
旧大原家住宅は、寛政7(1795)年に主屋が建てられ、その後座敷部分が増築され、その先には広い庭が続いています。また、主屋の後ろには蔵が建ち並び、 防火の役目も果たしています。
主屋は本瓦葺、厨子二階建てで、屋根は一見入母屋造に見えますが、実際には切妻造りで妻側に付庇を設けた庇付き切妻屋根となっています。また倉敷窓、倉敷格子といった倉敷独特の工夫も備えています。蔵は土蔵造りで、外壁は腰に瓦を張りつけ、目地を白しっくいで盛りあげる『なまこ壁』で仕上げられ、そのコントラストは非常に美しく、倉敷の町並みの景観を特徴づけています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年3月11日 |
所有者・管理者 | 株式会社三楽 |
所在地 | 倉敷市中央1丁目2-1 |
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遍照院は、真言宗の伽藍で、寺伝によると、寛和元(985)年 智空上人の開基と伝えられています。
三重塔は、従来、永享年間(1429~41)の再建と伝えられていましたが、昭和41~42年にかけて行われた解体修理の際、応永23(1416)年の再建墨書が発見され、室町時代前期の再建であったことが判明しました。
この塔は、方三間、総高約21m、本瓦葺で屋根の逓減が整然となされていて屋上に青銅製の相輪をたてています。柱は総円柱で、軒は各層とも二軒繁垂木、組物は和様の三手先となっており、各重とも中央間に板唐戸、脇間に連子窓を備えています。また、初重の縁には高欄はついていませんが、二・三重は組高欄としています。 木鼻の絵様、板彫式蟇股の意匠などに、室町時代前期の建築様式の特色がよくうかがわれ、均衡のとれたその形態は塔としての品位を示し、端正で美しく、国内有数の三重塔と言えます。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 大正14年4月24日 |
所有者・管理者 | 遍照院 |
所在地 | 倉敷市西阿知町464 |
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一列に南面して並んだ社殿は、向かって左から第三・第一・第二殿、そして第四・第五・第六殿といいます。6棟からなる本殿のうち、第二殿が国の重要文化財、第一・三~六殿の5棟が県の重要文化財に指定されています。 熊野神社は、古くは熊野十二社権現と呼ばれ、社伝によると、大宝元年(701) に紀伊の熊野より勧請し、その後、応仁元年(1467)に兵火によって全焼したと伝えられています。
明応元 (1492)年に再建されましたが、第二殿は本殿のなかでは最も古く、6棟のうちほぼ中央に位置しています。
その後、明治になり神仏分離令によって「熊野神社」として祀られるようになりました。
建築様式は、正面1間、奥行2間の隅木入春日造で、正面に1間の向拝が取りつき、屋根は檜皮葺で、棟に千木と堅魚木をのせています。また、全体に彩色が施されており、柱・垂木・虹梁・破風などを丹塗りとし、木口に黄土を塗り、板壁や裏板はゴフン胡粉で白塗りされています。
比較的小さな本殿ですが、室町時代中期の建築様式をよく示しており、破風部分の曲面と二重に仕組まれた垂木配列や正面の吹寄格子が美しく調和しています。
また、県の重要文化財である5棟は、いずれも正保4 (1647)年に岡山藩主池田光政によって再建されたものと伝えられています。
第一殿は春日造、第三殿は入母屋造、第四~六殿は流造とし、屋根は全て檜皮葺で、彩色を施さず白木造となっています。第一殿は、第二殿と類似する姿や組物の形態をもっており、また、第六殿は熊野権現の鎮座する地を守る地主神を祀った特殊なもので、紀州熊野の本宮にも同様なものがみられます。
時代 | 室町時代(第二殿)、江戸時代(第一・三~六殿) |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財(第二殿)、県指定重要文化財(第一・三~六殿) |
指定年月日 | 大正10年4月30日(第二殿)、昭和43年4月19日(第一・三~六殿) |
所有者・管理者 | 熊野神社 |
所在地 | 倉敷市林684 |
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真鍋家住宅は、明治から大正時代にかけて建てられた主屋、旧郵便局、乾倉、倉庫及び納屋、表門の合計5棟の建物で構成されています。保存状態が良く、島の住宅建築を知るうえで貴重な建物です。
時代 | 明治~大正 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年3月27日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市真鍋島4026 |
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菅原神社は、福山4代目藩主の水野勝種が、延宝2(1674)年に吉浜村の氏神として造ったと言われています。現在の本殿は、建築様式からすると18世紀中頃に再建された可能性があります。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和50年1月27日 |
所有者・管理者 | 菅原神社 |
所在地 | 笠岡市吉浜1661 |
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稲富稲荷神社は、村上隆重が古城山に城を築いた時に、城内の鎮守としてまつったのが始まりといわれています。拝殿は鮮やかな朱塗りが印象的な建物で、内部の天井には見事な花鳥や動物の絵が描かれています。拝殿は文政2(1819)年、本殿は弘化2(1845)年に建てられたことが、棟札から分かっています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和50年1月27日 |
所有者・管理者 | 稲富稲荷神社 |
所在地 | 笠岡市笠岡2363 |
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甲弩神社の拝殿は、笠岡市内でも最古級の拝殿建築と考えられています。屋根の内部には、宝永7(1710)年に塩田長右衛門が棟梁として再建されたことが墨書されています。また、寛永14(1637)年から大正15(1926)年までの棟札が残っており、建物の建立、再建、修繕の歴史をたどることができます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和38年2月20日 |
所有者・管理者 | 甲弩神社 |
所在地 | 笠岡市甲弩789 |
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神護寺の本堂は、笠岡市内に残る最も古い木造建築です。棟木には、戦国時代の永禄11(1568)年に小田髙清の命で、藤原乗久が建築したことが書かれています。いつ、誰が建てたのか明らかな室町時代の建築として高く評価されています。
時代 | 戦国 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成13年3月23日 |
所有者・管理者 | 神護寺 |
所在地 | 笠岡市甲弩816 |
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遍照寺の多宝塔は、慶長11(1606)年に建てられた県内で一番古い多宝塔です。内部の壁や柱、天井には絵師の釣雪によって極彩色の絵画が描かれています。また、多宝塔のそばには、塔が完成した時に、それを祝って法華経を読んだことを記した石碑が立っています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和50年6月23日 |
所有者・管理者 | 遍照寺 |
所在地 | 笠岡市中央町16-2 |
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このお堂は、天正年間(1570年代)、柳本八郎左衛門が、毛利家の家臣としてこの地方の領主となり、その曾孫甚左衛門正勝が、寛文6(1666)年に寄進した。井原市で確認されている最古の建造物となる。
単層入母屋造りのお堂で梁行5.4m、桁行5.4m。ケヤキ、ツガ、クサマキを使用している。扉や梁などには、花や人物像の彩色された精巧な彫刻が施され、また、床が鴬張りになっている。天井は小組格子天井、本尊の上には折上小組格子天井、中央には本尊の釈迦如来坐像を安置するための唐様の須弥壇が置かれ、唐獅子の彫刻が施されている。棟札には、「大工 大阪 田中仁左衛門元吉、木下仁左衛門吉次、柳十衛門忠次」と書かれている。
善福寺は、足利尊氏が南北朝の争乱の際に立ち寄ったと伝えられるところで、足利義満が応永3年(1396)に祈願所として建立した寺である。現在も足利義満の宝篋印塔である鹿苑院殿石塔婆が境内にある。
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成14年3月12日 |
所有者・管理者 | 善福寺 |
所在地 | 井原市井原町 |
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正伝寺は、元亀2(1571)年に建立された浄土真宗本願寺派光清寺の末寺で、明治30(1897)年に廃寺となり、旧境内には石垣やこの門が残っているにすぎません。明治期から昭和期にかけてこの跡地に学校が建ち、この門は校門として使用され、龍宮門の愛称で親しまれています。
山門は、いわゆる龍宮門形式です。重層で、桁や垂木は丹塗りが施されており、上層部は桁行2間、梁行1間です。屋根は入母屋造りで本瓦葺、棟の両端に鳥衾をもった獅子口を乗せ、破風には懸魚が付きます。下層の内部は木造で、これに木の骨組みを設け、漆喰を上から塗って外壁を造っています。外壁の基部は、斜格子状のなまこ壁です。
この門は、その後幾多の修補が加えられていますが、池田家文庫「備中鴨方領入会絵図」にも記載されており、当地域を代表する江戸時代の貴重な建物です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成24年2月22日 |
所有者・管理者 | 浅口市 |
所在地 | 浅口市鴨方町鴨方398-1 |
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金光教徒社東棟・中央棟・西棟は、金光町大谷地区の金光教本部前に面して建っています。
東棟は、大正10(1921)年建設で、木造二階建、寄棟造、スレート葺、切石積基礎に外壁下見張です。中央に入口を配する左右対称の外観が特徴であり、軒線中央部を僅かに切り上げ、洋風意匠の事務所建築となっています。
中央棟は、昭和2(1927)年建設で、木造二階建、寄棟造、スレート葺です。外壁は、モルタルを塗装して石積に見せる特異な外観です。 西棟は、大正5(1916)年建設で、金光教徒新聞社の社屋として建てられました。木造二階建、寄棟造、スレート葺で、中央部と西側下見、軒を板張りとするなどの意匠でまとめています。
時代 | 大正~昭和 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成29年10月27日 |
所有者・管理者 | 金光教 |
所在地 | 浅口市金光町大谷325-3他 |
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姫井家は、江戸時代より代々医者を輩出した旧家で、鴨方藩の御殿医も務めました。主屋は、木造平屋建、一部二階建、入母屋造及び寄棟造り、桟瓦葺であります。主屋の正面中央に式台玄関及び土間玄関を並べています。座敷には面皮材を多用するなど数寄屋趣味がうかがえ、欄間には漢詩を彫るなど文人との付き合いが深かったことが分かります。建築年代は、江戸時代後期と考えられ、大正3 (1914)年に改築し、洋風の外観の診察室を増築しています。
長屋門は、木造二階建、切妻造、桟瓦葺で、外観は漆喰塗りで格子窓を並べ、風格ある屋敷景観を形成しています。建築年代は、明治前期頃とみられます。姫井家住宅は、近代における地方の町医者が、住宅を使ってどのように医院を営んでいたかを知る上で貴重な建造物です。
時代 | 江戸~明治 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成27年3月26日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 浅口市鴨方町鴨方1342 |
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金光学園中学高等学校記念講堂は、明治37(1904)年、現金光教本部の一角にあった旧金光中学校校地に建てられた講堂で、昭和31(1956)年に現在地に移築されました。
構造は、木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺で、建築面積約238㎡です。屋根には半円形の屋根窓を設け、軒下には雲形の持送で装飾しています。外壁は下半を板張り、上部を漆喰塗とし、壁に「X」字状の木組みを表しています。内部の天井は二重折上格天井で、これは旧吹屋小学校にもみられる構造です。和風(寺社建築)と洋風の意匠を巧みに融和させたデザインに特徴があり、明治期の学校建築の様式や技術を知る上で貴重な建造物です。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成26年10月7日 |
所有者・管理者 | 学校法人 金光学園 |
所在地 | 浅口市金光町占見新田1350-6 |
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定金家住宅主屋は、大正6(1911)年、金光教の門前町の一角に建ち、歯科医院兼住宅として使用されました。東を正面とした木造2階建ての洋館です。正面中央の玄関を中心に左右対称になっており、玄関のある中央部と左右の旧歯科待合室、居間部分から構成されています。
屋根は、切妻で桟瓦葺きで、外壁は、柱や梁形を装飾的にみせるスティックスタイルであり、木部と塗り壁部分が塗り分けられています。角の柱と窓枠にはフルーティングが施されています。中央部二階の屋根は、軒を切ってアーチを掛け、両脇に小尖塔を立てることにより正面性を強調しています。二階の窓上部には櫛形ペディメント、一階の玄関の庇には三角ペディメントを付けています。
洗練された西洋建築様式をよく継承しながら、一部に大正期的な意匠を取り入れた、美しい外観をもった貴重な建築物です。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年3月27日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 浅口市金光町大谷229-14 |
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丸本家住宅及び丸本酒造は、遙照山山系の竹林寺山の南麓に位置しています。周辺には、棚田の広がる農村の美しい情景があります。この麓から湧き出る清水を利用した酒造業が盛んな場所です。丸本家は、幕末の慶応年間創業と伝わる老舗の酒造元で、建物は、明治期から昭和初期の建築で、現役の酒蔵です。
登録された文化財は、住宅では座敷屋、塀であり、酒醸造場では、店舗、脇門・塀及び石段、釜場 、西蔵、取合廊下、東蔵、東囲蔵、南蔵、井戸及び石垣です。酒蔵の外観は、白と黒のコントラストが美しく、蔵の一部は、洋風小屋組み(トラス構造)となっています。
丸本酒造は、主屋と酒蔵が一体となって、酒醸造家の住宅の風情を構成している貴重な産業の文化財です。
時代 | 明治~昭和 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成15年12月1日 |
所有者・管理者 | 丸本酒造(株) |
所在地 | 浅口市鴨方町本庄2485 |
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昭和3(1928)年10月に伯備線が全通した。これで初めて岡山・鳥取両県が鉄道で直接結ばれることになった。ここに両県民の宿願であった、いわゆる陰陽連絡鉄道が完成をみたのである。その計画は早くからあったが、明治25(1892)年に制定された「鉄道敷設法」には3本の比較線が示された。その内の西方線(倉敷―境)が、伯備線の前身である。その後、備中地域の人々が、犬養毅率いる国民党を支持して猛烈な建設運動を展開した経緯もある。一方、高梁川には古くから高瀬舟が就航していた。鉄道は、その速度、積載量、安全性などにおいて、高瀬舟の競争相手ではなかった。鉄道建設が進むにつれて、高瀬舟は次第にその姿を消すことになった。写真では、帆を上げて川上ヘ向かう一艘の高瀬舟、岸には弧を描いたレールが見える。黒煙を吹き上げる汽車が、今にも姿を現しそうな歴史的な一枚の写真である。
時代 | 昭和3(1928)年10月 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.10、新見市足見「伯備線建設概要」 |
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大正10(1921)年頃の高梁の町並みを撮影。高梁川西岸からサーカットカメラを用いて撮影されたパノラマ写真と思われる。備中松山の城下町の構成は他の城下町と同様、武家町、商家町、寺院群に大別される。町は山城のある臥牛山南麓にある「御根小屋」(藩庁と藩主の居館を兼ねる)を中心に主に南方にしかも高梁川に沿って広がっている。武家町は町名を「町」とせず「丁」と表現する町が多かった。また、武家町の大半は6万5千石の所領と、相応の家臣団をもった池田家によって取り立てられた。商家町は江戸時代の初期から段階的に広がり、17世紀後半の水谷氏の跨代に南町が建設され、城下町の範囲がほぼ確定された。写真には方谷橋が見えるが、現在は、方谷橋も木造橋から鉄骨の橋となり、護岸の石垣はすべてコンクリート護岸となり国道180号線が通るようになった。
時代 | 大正10(1921)年頃 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.13 |
高梁の町並み(明治40年ごろ) |
写真は昭和36(1961)年の倉敷駅前。写真左手が倉敷駅。左に伸びる道を行くと駅前に出る(現在は駅南側のロータリー)。写真の上が東。下が西。バスとトラックの走るこの車道が、現在の国道429号線。しかし昭和36(1961)年当時には、センターラインもない。写真の右斜め上に走る道が、商店街の現栄天街と倉敷センター街。写真の右斜め上の建物は、現在もある中国銀行倉敷駅前支店。その前の車が停まっている舗装されていない場所は、当時の中国銀行の駐車場。写真の右に延びる車道を行くと、現市役所方面ヘ行く。この当時は、この道はまだ細く、今のように片側2車線になっていない。写真の右斜め下、二人連れが歩いて出てきているのは、商店街の現倉敷一番街である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.15 |
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明治40(1907)年頃の写真で、小田郡笠岡町の本道通り筋。商店街の通りは、江戸時代から浜街道として東西を結ぶ主要な道であり、これに面して商家が軒を連ねていた。県西部から広島県東部一帯にわたる顧客を集めていたという。明治20年代頃の笠岡町の中心商家街が本島町通り筋であった。昭和37(1962)年の笠岡市商店街診断報告書によると、笠岡の商店街は、昭和以前創業の商店が47%、しかも明治時代創業というのが全体の33%であった。大正に入ると、最寄りの品だけでなく買いまわり品を扱う商店が増えて小売商の幅が広がっており、商店街が周辺の備中地南西部からの集客力を強め、港町だけに歓楽的施設もあった。明治43(1910)年には備後水力電力側により電灯が笠岡・金浦につき、商家の販売力を高めていった。
時代 | 明治40(1907)年頃 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.14 |
高梁市の市街地的一角、石火矢町の町並み。石火矢町は、江戸時代備中松山藩主池田長幸によって武家町として建設された町である。「石火矢」とは石または鉄・鉛などを飛ばして用いた火砲のことで、近世初期に西洋から伝来した大砲をさす。しかし、ここに居住した武士が必ず火砲に関わったわけではない。江戸時代の後半にこの地域を治めた板倉氏の家臣団は家格によって1番から5番まで格付けされた屋敷に居住したが、石火矢町には2番屋敷が置かれた。現在、公開されている武家屋敷館折井邸はその典型例である。また、同じく公開されている埴原邸は4代藩主板倉勝政の生母志茂の実家であったため、式台などの意匠が2番屋敷以上の格式で設置されており、見所の一つとなっている。現在は岡山県のふるさと村に指定されており、武家屋敷の折井邸、及び埴原邸が公開されている。また、武家町のたたずまいを見せる土塀や武者窓などもみることができる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.12 |
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銅山町として発達し、ベンガラの生産によって栄えた吹屋の町並み。石州瓦とベンガラ塗りの柱や壁の赤褐色が特徴の現在の町並みと、明治30(1887)年頃の吹屋の姿。吹屋銅山の起源については平安時代初期807(大同2)年説があるが、一般には室町時代(南北朝時代)が有力視されている。江戸時代の銅山経営は大塚家を中心とした地元資本の村稼ぎの時代と泉屋、代官所などの外からの資本による経営の繰り返しであった。町に直接富をもたらしたのは江戸時代後期から始められたベンガラの生産と考えられている。明治6(1873)年三菱の岩崎弥太郎が、請負権を買収してからは飛躍的な生産量となったが、昭和47(1972)年に閉山し、銅山としての歴史を完全に閉じた。現在、吹屋の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区とふるさと村の県指定を受けており、江戸時代末期から明治時代の建物が並び、かつて栄えた銅山町の風情を今に伝えている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.12 |
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倉敷市本町の阿智神社参道を望む風景。現在、倉敷の顔となっている「美観地区」。この情緒ある町並みの保存には、古くから先覚者たちが尽力し、昭和30年代後半から、住民・行政が一体となった保存活動の取り組みへと発展していった。昭和44(1969)年、市の伝統美観保存計画の策定、同53(1978)年、市の伝統的建造物群保存地区保存条例の制定、そして同54(1979)年国の重要伝統的建造物群保存地区として指定。保存地区に指定されてから後の方が、住民には苦労が多いことだと思う。しかし、今もにぎわう街中にあって、容易に百年前の写真と同じ場所を見つけることができ、はるか昔に思いを馳せることができることは、倉敷市民のみならず岡山県民の大きな誇りである。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.10 |
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現倉敷美観地区の倉敷考古館と中橋を撮影した大正初期と平成21(2009)年の様子である。倉敷考古館は昭和25(1950)に開館。倉敷で江戸時代から商家を営んでいた小山家の土蔵を利用したものである。太鼓状のカーブを描く石造りの橋は、中橋。この中橋は、明治10(1877)年に木造から現在の石造へと架け替えられた。大正初期の写真では川岸に電柱が見える。倉敷に電灯がついたのは明治43(1910)年。撮影の少し前のことである。また当時、岸に植えられているのは桜であるが、現在は柳に植え替えられている。中橋の向こうには舟が見える。倉敷川は児島湾を経て瀬戸内海につながる物流の大動脈として、江戸時代から倉敷の発展を支えてきた。倉敷川は海につながる汐入川であり、物資の運搬を担う舟の入出する舟入川であったのだ。しかし、昭和34(1959)年の児島湾堤防締切により倉敷川は淡水化し、通船もとだえ、物流の川としての役目を終えた。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.10 |
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矢掛の商店街は、江戸時代の宿場が時代の経過の中で発展し、誕生したといえる。元来、矢掛の宿場ではそれぞれの町家が旅籠としての機能を持ちつつも、平常は商売を営んでおり、江戸時代中頃の町絵図にも、たたみや、たばこや、とうふやなど多彩な商家が記録に残されている。また、矢掛は町の南側を流れる小田川を利用した高瀬舟の川湊としての機能も持っていた。かつては陸と河川の交通の要衝として、人と物資が行きかい、賑わいをみせていたことが想像される。現存する古い町家は江戸期のものだけでなく、明治・大正・昭和初期に建てられたものも多く、伝統的な和風建築の中に近代化による洋風建築の技術と意匠を取り入れた斬新な建物もある。時代の変遷の中で技術の進歩とともに町がどのように発展してきたのかを物語る貴重な資料だといえよう。
時代 | 江戸時代 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.13 |
広兼家は、小泉銅山とベンガラの原料となるローハの製造で財を成しました。広兼邸は、江戸末期に建てられた楼門づくりで、城郭にも劣らない堂々たる石垣は、今もそのままに当時の繁栄ぶりを伝えており、市の重要文化財に指定されています。
ホームページ | ページを開く |
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電話番号 | 0866-29-2205 |
開館時間 | 4月~11月10:00~17:00、12月~3月10:00~16:00 |
料金 | 大人400円・小中学生200円 |
所在地 | 高梁市成羽町中野2710 |
参考文献 | 流域パスポート |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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現在、現役最古の木造校舎として知られる吹屋小学校と、その明治40年代頃の様子。欧屋小学校の発足は名称の変遷などはあるが明治6(1873)年とされ、学制の制定と三菱が吹屋の吉岡銅山を買収した年とほぼ時を同じくしている。明治31(1898)年、吉岡鉱山から当時の吹屋村ヘ吉岡鉱山本部跡地を吹屋村高等小学校校舎敷地として寄附され、現存の校舎はその場所に建てられた。校舎は同33(1900)年10月に東西校舎と東西廊下が竣工した。4年後には東校舎北東部の旧吹屋女学校校舎が完成し、本館は同42(1909)年11月に落成した。以来、100年余りの間、この地域の人々の学び舎として続いてきた。近年、近代化遺産の評価が高まるにつれ、欧匡小学校も注目されてきたが、平成23(2011)年度の卒業生を送り出したのち、閉校となる予定である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.18 |
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旧吹屋小学校校舎 | |
吹屋の町並み | |
吹屋ふるさと村 |
平成19(2007)年度に国道2号笠岡バイパスが暫定的に供用開始となった。笠岡市は国土交通省と協力して、笠岡バイパスの側道沿いに県内で16箇所目の「道の駅」建設を決定し、平成23(2011)年8月4日に「笠岡ベイファーム」がグランドオープンした。オープン当日には多くの来場者が訪れ、盛大なものとなった。その後も、早朝から多くの人たちで賑わっている。笠岡湾干拓地内の100万本の「ひまわり」や道の駅の隣にある3haの農地の「コスモス」も祝福してくれている。「笠岡ベイファーム」の名称は、平成22(2010)年秋に名称募集を行って、応募総数527通の中から決定した。笠岡ベイファームは、笠岡湾干拓地をアピールして笠岡を情報発信していくとともに、笠岡の農産品・笠岡諸島の水産物や土産物などを販売する直売所やレストラン等の施設を備えており、道路利用者への情報や休憩サービスを提供している。笠岡の農業や観光産業の振興を進める新たな拠点となっている。
所在地 | 笠岡市カブト南町245-5 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
浅口市北部、標高400m近い遙照山山系の阿部山を水源とする杉谷川周辺では、江戸時代の文政年間に農家の副業として、素麺生産が採用された。鴨方が麺の産地として発達した理由は、二毛作として栽培されていた小麦、瀬戸内海沿岸で生産されていた塩、そして湿度が低く晴天の日が多い気候という好条件に恵まれていたためであろう。江戸時代の末期になると播州(兵庫県)から水車石臼製粉技術が伝播。最盛期の明治末期には、水車小屋が杉谷川沿いに60力所に並び稼働していた。素麺作りは、12月から3月まで行われ、生地を仕込んでから麺に仕上げるまで、約30時間休む間もなく作業が続く。写真は、屋外での門干し作業。機(はた)とよぶ乾燥用の木枠に麺を掛け、2本の箸を操って、2本の間隔が2m程度になるまで延ばし麺線を作っていく。麺作りは、「麺生地は生き物」といわれるように天候条件により塩加減や熟成時間等を考慮する職人の技巧を垣間見ることができる当地域の伝統文化である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
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備中和紙は、主原料である楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の樹皮繊維を黄蜀葵(とろろあおい)ののりの中に溶かし、一枚一枚漉いて作る。かつては日常の用に使われていたが、現在は、楮紙はもちろん仮名書道用の鳥の子紙(雁皮紙)などのほか植物染料による渋い色調の染め紙も製造している。また、昭和55(1980)年の東大寺昭和大納経の用紙に指定されるなど、書に適した紙として書家の間で好評を得ている。和紙を作る技術は、奈良時代から伝わったと言われている。明治時代になると洋紙におされ生産は激減し、「清川内紙(ないごうちがみ)」という和紙だけが備中町の成羽川沿いで細々と漉かれていた。昭和39(1964)年の新成羽川ダム建設により産地がなくなったが、復活を願う人々の努力でもあり、丹下哲夫氏が生産の場所を倉敷に移し「備中和紙」として再び生産するようになった。昭和57(1982)年3月には、岡山県伝統的工芸品として指定されている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
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岡山県で藺草が大量に生産され、畳表が流通商品となった歴史は、江戸時代前期の児島湾干拓による広大な新田開発の時代に遡る。海を干拓した土地には塩分が残るが、塩分に強い藺草と綿は、この新しい大地に力強く根を張った。明治29(1896)年の「郡市別藺草作付面積」の記録によると、県下で都宇郡が最も多く、次いで御野郡、窪屋郡の順であり、県南の干拓地を中心に広大な藺草が広がっていたことが分かる。また、藺草の栽培とともに、畳表の家内工業が発達し、家ごとに畳表の機を織る音が聞こえていた。江戸時代、早島で織られた畳表は「早島表」の名で全国に知られた。藺草の栽培は大変な重労働で、繁忙期には県内外からの労働者も多く雇われ、町に人が溢れたという。しかし、藺草の栽培も昭和40年代頃から衰退し、今では県下でもほとんど藺草田は見られない。早島町では、平成13(2001)年に「ゆどころ保存会」が結成され、長く続いた藺草栽培の歴史を今に伝えている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
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向山から、倉敷紡績(現倉敷アイビースクエア)を望む風景。写真の奥、中央に見える特徴的な山は、酒津八幡山。現倉敷アイビースクエアは、ツタに覆われた赤レンガの壁が特徴の近代化産業遺産。昭和48(1973)年に、倉敷紡績所旧工場が修繕・再生されたものである。倉敷紡績所は、明治22(1889)年に倉敷代官所跡に建設されたものである。明治の創業以降、昭和20(1945)年まで、倉敷の発展を担う中心であった。紡績所建設前のこの場所には、倉敷代官所が存在していた。倉敷代官所は寛永19(1642)年から慶応2(1866)年の倉敷浅尾騒動で灰贐と化すまで、この地に設置され、備中(倉敷)、美作(久世)、讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となっていた。今は、代官所跡の記念碑と濠の遺構が、倉敷アイビースクエア構内に残るだけである。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
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倉紡記念館 |
たたらとは千年以上の歴史を持つ日本古来の製鉄方法である。たたらは川の砂鉄と木炭を燃焼させて鉄を得るもので、森林資材の豊富な中国山地から日本海一帯で盛んに作られており、高梁川流域でも新見市から総社市に至る各地でたたら跡が散見される。因みに、「真金吹く」は「吉備」の枕詞で製鉄の精錬の工程で飛び散る火花の様を言い表わしているとされる。中世において、新見市は「新見庄」として栄えた京都東寺(教王護国寺)の荘園で、良質な砂鉄が採取されていたことから、鉄を年貢として納めていたという記録が東寺百合文書(国宝)に残っている。その鉄を作る製法を現代によみがえらせるべく、「中世たたら製鉄の再現」を平成11(1999)年から行っており、同19(2007)年からは「たたら体験学習事業」として市民参加型の体験実習を実施している。写真は、燃え盛っている炉内に砂鉄を入れる場面である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.15 |
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江戸時代、備中南部の主要な道を「備中国絵図」に見ることができる。絵図には、中国地方を縦貫し東海道につながる大動脈の山陽道と、庭瀬から鴨方・笠岡に至る鴨方往来が描かれている。この二つの道と交差する南北線として、撫川から南に早島を経て備前児島ヘ至り四国へと続く道が、後に金比羅往来と呼ばれる道筋である。金比羅往来は、中・四国間の重要な連絡路であるとともに、金比羅参詣や四国八十八ヵ所巡りの旅人で賑わう信仰の道でもあった。金比羅往来は、この南北線とともに岡山城下から妹尾を経て早島に至る東西線があり、早島は東西、南北の金比羅往来の交わる交通の要衝であった。特に町の中心部を通る道は、児島湾干拓の先がけとなった宇喜多堤の跡といわれている。多くの旅人が行き交う金比羅往来には道標が立てられ、要所要所に旅籠や茶店が並び、賑わったという。町内には、今でも当時の往来が偲ばれる道標や灯籠が随所に残されている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.15 |
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旧制矢掛中学校は、県下で四番目の県立の中学校として明治35(1902)年に開校した。当時、備中南部の地に県立中学校の設置を望む声が高まり、候補地をめぐり紆余曲折を経た末の開校だった。その後、昭和23(1948)年に岡山県立高等学校設置条例により、岡山県立矢掛第一高等学校と改称し、同24(1949)年には矢掛第二高等学校(旧岡山県立矢掛高等女学校)と統合し、矢掛高等学校が誕生。さらに、平成18(2006)年に県立矢掛商業高等学校と統合し、現在の矢掛高等学校となった。開校以来、矢掛町を中心に周辺地域の高等教育の拠点となり、約2万人の卒業生を輩出している。この写真の正門は設立当初のもので、今も校内に移築保管されている。学校を囲む石垣と白壁は今も健在で風に揺れる柳の葉とのコントラストが、ふるさとの情景として瞼に焼き付いている方も多いのではないだろうか。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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桜渓塾は旧川上郡九名村出身の儒学者阪谷朗廬(さかたにろうろ)が、嘉永4(1851)年に後月郡築瀬村(現井原市芳井町築瀬)ヘ開いた塾。阪谷朗廬は大阪の大塩平八郎や江戸の昌谷精渓(さかやせいけい)、古賀洞庵(こがとうあん)らに学んだ、優れた儒学者であったが、26歳で病気の母の元ヘ帰郷、その後結婚し桜渓塾を開いた。しかしその後、朗廬の名声を伝え聞いた一橋領の友山勝次代官は、教諭所(後の郷学興譲館)を設けるために彼を招聘し朗廬は後に初代輿譲館長となった。朗廬は嘉永6(1853)年より興譲館ヘ移り住むと、明治元(1868)年に広島藩ヘ招聘されるまで教育に尽力した。明治時代に入ると代々の館長・校長は朗慮の遺徳を称えるとともに、輿譲館の歴史・伝統を重んじるようになり、学校発祥の地である桜渓塾保存の機運も高まった。大正2(1913)年には、写真中にみられる石碑建立や草廬補修が行われた。本来の塾は石碑建立の場所にあったといわれている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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興譲館(動画) | |
芳井歴史民俗資料館 | |
天守の残る唯一の山城備中松山城 | |
興譲館 |
旧制高梁中学校校舎を写した絵葉書。
旧制高梁中学校は、明治28(1895)年高梁市向町の旧藩主板倉氏の菩提寺安正寺に岡山県高梁尋常中学校が創立されたことに始まる。同33(1900)年、安正寺から備中松山城御根小屋へ校舎を移転した。このとき本館は洋風建築のものとして注目される。写真に見える建造物がそれである。
昭和24(1949)年、私立順正女学校と合併により新制岡山県立高梁高等学校となるまでの間、男子の教育はこの高梁中学校で行われた。備中松山城御根小屋に建築された校舎は高梁の近代建築の代表的なものであった。
現在、洋風建築で学校の象徴でもあった本館は同47(1972)年に解体され、見ることはできない。しかし、高梁高等学校は今も同じ場所にあり、生きた教育の舞台として多くの生徒が学んでいる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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備中松山城御根小屋跡 | |
私立順正高等女学校 |
順正女学校の校舎風景を写した絵葉書。明治12(1879)年、初めて高梁にキリスト教が紹介され、同15(1882)年に高梁キリスト教会が創立する前年、金森通倫や新島襄の影響を受けた福西志計子、木村静子によって女子教育専門の機関として「私立裁縫所」が紺屋川南岸の向町に設立された。近代女子教育機関としては岡山県最古のもので、同18(1885)年には順正女学校と改称し、初代校長にはキリスト教伝導に尽力した柴原宗助が就いた。同29(1896)年、伊吹岩五郎校長のとき紺屋川北岸の伊賀町に拡張移転した。昭和24(1949)年、旧制高梁中学校と合併により新制岡山県立高梁高等学校となるまでの間、この地域の女子教育の中心の役割を果たした。現在、岡山県指定史跡「順正寮跡」として、建造物も残され、旧順正女学校跡地にはその名を冠した学校法人順正学園がある。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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旧制高梁中学絞 |
天守の現存する国内唯一の山城です。天守は、臥牛山の山頂付近の標高約430mに築城されており、国の重要文化財に指定されています。秋から冬にかけては霧が発生し、雲海に浮かぶことから、「天空の山城」とも呼ばれています。
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電話番号 | 0866-22-1487 |
開館時間 | 4月~9月 9:00~17:30、10月~3月 9:00~16:30(最終入城30分前まで) |
料金 | 大人500円・小中学生200円 |
所在地 | 高梁市内山下1 |
参考文献 | 流域パスポート |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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備中松山城御根小屋跡 |
大正6(1917)年頃の写真で正確には「笠岡尋常小学校」、「笠岡女子尋常高等小学校」の時代である。中央に子どもたちが座っているのは当時あった井戸である。左の柵の外は同6(1917)年にできた笠岡区裁判所であると思われる。また、正面の建物は、かつて小田県庁舎として使われていた建物である。小田県庁舎が建っていた位置に昭和17(1942)年に建設された中央の赤い屋根の貫閲講堂、その右側には同31(1956)年新設した3階建ての鉄筋校舎があり、左側には同34(1959)年に新築した校舎がある。左にあった笠岡区裁判所の建物・井戸は、現在の運動場となっている。現在の笠岡小学校は、明治6(1873)年3月「敬業小学校」として発足し、同9(1876)に現在の小田県庁跡に移転。以後、通学区域は変わっていないが、時代、制度の移り変わりに従って学校の名称や規模もいくたびか変わりながら現在に至っている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.20 |
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明治40(1907)年頃の写真で、小田郡役所は同11(1878)年9月20日に設置された。当初は威徳寺の建物を流用して庁舎としていたが、同31(1898)年3月7日に発生した大火災で焼失後、同33(1900)年に八幡平に新築されたのがこの新庁舎である。郡役所は大正15(1926)年7月1日までおかれていた。現在は廃寮となっている笠岡高等学校等の女子寮として使用されていた建物であり、当時の面影を残すのは石垣のみとなっている。明治23(1890)年5月17日に群制が公布され、それまで行政区画にすぎなかった郡が不完全ながら実態を備えることとなり、群には郡会及び郡参事会が置かれ、地主を中心とする有産者が郡行政及び町村監督行政への参政権を得ることとなった。郡議員は笠岡地方で見る限りはかなり庶民的であり、議長は郡長がなっていた。制度的には自治体としては限界があり、郡長は政府の官僚的統治の最先端として中央集権政策遂行の中枢的役割を果たした。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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明治22(1889)年町村制施行で発足した里見村と新庄村が、同38(1905)年に合併して里見村となった。昭和25(1950)年6月1日には町制施行によって里庄町となり、平成22(2010)年には町制60周年を迎え、現在に至っている。人口は、町制施行を行った昭和25(1950)年6月1日において、7,469人で、水島と福山の工業地帯の中間に位置する地理的条件や国道2号線、山陽本線が通るなど交通条件に恵まれていたことから、工場立地が進むとともに、ベッドタウンが形成され、人口も増加に転じている。平成2(199O)年には1万583人と1万人を超え、同22(2010)年現在、人口は1万1,076人、世帯数は4,087世帯である。旧庁舎は、昭和3(1928)年に建築されたもので現庁舎は同51(1976)年4月に完成した。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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舟本は早島の河川交通の発着ではここ舟本から汐入川の水運を生かし、特産の畳表のほか、多くの物資を運んでいた。また、薪などの消費物資も児島湾を経由して運ばれてきた。この港の維持管理は村中総出で行い、安政3(1856)年には、昔の例にならい、みなとの破損修理のため村と役所と商人が共同で出資して川岸10間ほどを石垣に整備したとの記録がある。舟本荒神社は、延宝年間(1673~1681年)に前潟新田の開墾が完成したことに伴い、国家安全五穀豊穣祈願のために、千光寺(町内市場)境内の荒神社より分体奉祀されたものである。現在の舟本は、汐入川沿いに走る南北の県道と、岡山・倉敷に抜ける東西の道との交差点として、通行の多い箇所である。交差点には、金比羅平往来の道しるべがひっそりと佇み、今は道を行き交う人や車の流れを見つめている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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弁才天の地名は、厳島神社の祭神である弁財天に由来する。弁才天は、舟本と並ぶ早島の川港で、河川交通の拠点であった。厳島神社境内には、それを物語るように、天保年間に四国三豊郡和田村(現香川県観音寺市)から灰の購入にきた灰船の船頭たちが寄進した灯寵が今も残されている。また弁才天は四国への金比羅往来の沿線にあり、多くの旅人が行き来したところで、金比羅への道を示す道標も今に残る。江戸時代後期の金比羅往来は、ここ弁才天を起点に南下し、茶屋町・天城へと続いた。厳島神社境内には、ごつごつとした巨石が多く残されている。この巨石群は、川港の歴史をさらに遡り、この辺りがまだ海であった頃、打ち寄せる波が山肌を削ったものとされる。巨石群の上に鎮座する弁才天、厳島神社は、明治時代に諒まれた「早島十景」に「弁天の浮き見堂」として紹介され、今でも土地の歴史と昔の風景を静かに伝えてくれる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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写真では、中央に遍照寺の仁王門、左端には枝垂れいちょう、右端には多宝塔がある。遍照寺は笠岡駅前土地区画整理事業によって昭和52(1977)年、西の浜の埋立地へ移転した。現在は「いちょう公園」となり、多宝塔と枝垂れいちょうの木だけが元の場所に残っている。慶長11(1606)年に建てられた岡山県下の多宝塔建築の中で最も古い国指定重要文化財の「遍照寺多宝塔」は、内部の天井・壁・柱などに装飾文様・絵画が極彩色で描かれている。枝垂れいちょうは、多宝港建立記念として植樹されたといわれる。枝がすべて垂れ下がっているところから「枝垂れいちょう」と呼ばれるが、これは学術上の品種名ではない。本樹は、雌株で秋にはたくさんの銀杏が採れる。また、遍照寺の仁王門に吊られている青銅製の梵鐘は、室町時代に鋳造されたものである。銘文が刻まれており、それによると、永年4(1432)年現在の早島町鶴崎神社の鐘として鋳造されたことが分かる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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葉書のセットである。発行者は酒津婦人会であり、完成を祝う地元の様子がうかがわれる。絵葉書に「延命山眞如院」と表記されているこの寺は、現在「韶法山済興寺」と号し、酒津配水池の北にある。都窪郡誌には「当院は河川改修のため大正6(1917)年東酒津字荒神谷に移転せり」とあり、中洲町誌には「古来酒津本村にありしが河川改修のため同4(1915)年東酒津字城の内に移転せり」とある。いずれにしても高梁川の河川改修のため移転したものと伝わる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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井山宝福寺は、総社市赤浜で生まれた画聖・雪舟が幼い頃に修行をし、涙でネズミの絵を描いたという有名な逸話で知られる臨済宗東福寺派の寺院。京都にある本山東福寺との結びつきが強く、地方の中でも有力な律宗寺院である。もともとは天台宗の寺院だったが、鎌倉時代中頃に臨済宗に改宗された。境内にある三重塔は、南北朝時代の永和2(1376)年に建てられ、県内では2番目の古塔である。これは戦国時代の戦火を免れた貴重な建物で国指定重要文化財である。その他の建物は消失してしまったと考えられるが、歴代の住職などの努力により見事に復興された。仏殿や方丈などの七堂伽藍を備えた境内は禅宗特有の趣を感じさせ、座禅体験をすることができる。特に、秋の紅葉シーズンには数多くの観光客で賑い、訪れる人々の心に感動を与えてくれる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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福山城は総社市南部の福山(302m)山上に存在した山城。城跡は、鎌倉末期から室町初期にかけての南北朝動乱期を描いた軍事物語『太平記』に記された「福山合戦」の舞台となった場所として有名で国指定の史跡。1336(建武3)年、京都の戦いで敗れた足利尊氏は九州に逃れ、勢力を盛り返しながら再び都を目指し攻め上がった。この時、後醍醐天皇方の新田義貞軍の武将大井田氏経はこれを阻止するために福山城を占拠し、新田軍1500騎と30万の足利軍が、三日三晩にわたる激しい攻防を展開したと伝えられている。標高302mの福山は、古代より山岳仏教の寺院・福山寺があり、山頂部には平坦化された寺域と礎石がみられる。福山城はこの寺を改変して砦にしたため、にわかづくりの門の跡、土塁、井戸跡のほか、寺院の古瓦片や窯跡が残されている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.20 |
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「謎の古代山城」として全国の歴史ファンの注目を集める鬼ノ城は、吉備高原の南の端に位置する標高約400mにある総社市の鬼城山(きのじょうざん)の8~9合目にかけて築かれた古代山城で、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の温羅(うら)退治の伝説の舞台としても有名で国指定の史跡。城の南側が深い谷と急斜面からなり、自然の地形を利用した難攻不落の堅固な要塞である。また、眼下には古代吉備文化の中枢地たる総社平野はもちろん、瀬戸内海や遠く四国山脈までを望むことができる。周囲を城壁が約2.8kmにわたって鉢巻状に巡り、城壁は一段一列に並べて置かれた列石の上に土を少しずつ入れてつき固めた版築土塁と高い石垣で築かれている。城内は約30haに及ぶ広大なもので水門が6ヶ所、城門が4ヶ所、食糧貯蔵庫と考えられる礎石建物跡などが確認されている。平成13(2001)年度から整備が開始され、古代山城としては初めて門と城壁が復元された。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.20 |
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埋蔵文化財学習の館 |
6月、サツキ、ツツジの咲く名勝頼久寺庭園を撮影したもの。頼久寺は南北朝時代(1336~1392)のはじめ、足利尊氏、直義兄弟が全国に建立した安国寺の一つといわれる。暦応2(1339)年に開かれ、臨済宗永源寺派の祖寂室元光を開山としている。一時、寺は衰退したものの、戦国時代のはじめ備中松山城主であった上野頼久(?~1521)が荒廃していた安国寺を再興した。これにより寺号が安国頼久禅寺と改められ、現在まで続いている。備中松山は上野氏の後、庄氏、三村氏、毛利氏などに治められたが、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの直後から小堀正次(1540~1604)が備中国奉行として支配を行い、正次の死後、子の政一(遠州)が継いだ。遠州は作庭、茶の湯、築城などにその才能を発揮した。この頃、備中松山城は荒廃しており、仮の居館として頼久寺が使われ、頼久寺庭園はこのとき遠州によって作庭されたと考えられている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.20 |
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明治24(1891)年に私鉄山陽鉄道が笠岡まで開通すると、同年に玉島駅(現新倉敷駅)鴨方駅が開業した。その中間に位置する金光では、金光教の春・秋季大祭時には全国から参拝者があり、その利便性から大祭時には金神(こうじん)仮駅が設置された。また浅口群域は麦稈真田や酒蔵業・素麺業などの諸産業の発展が目覚ましく、金光でも常設駅の要望が高まり、明治34(1901)年金神駅が開業した。駅周辺は田畑に固まれたのどかな風景であったが、駅が開業されると、運送合資会社・銀行・土産物屋・旅館等が立ち並び、駅前の町並みも整備された。また駅前を中心に電燈が灯るなど静かな街も近代化が進んでいった。大正6(1917)年駅舎は大改修され、同8(1919)年金神駅から金光駅へと改称された。この写真は改修前の金神駅のものであるが、駅前に建物が並び、にぎやかに変遷してしく姿があらわれている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.24 |
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まちかど郷土館は、明治43年に建築された旧総社警察署の建物で、総社市内で現存する唯一の明治洋風建築です。館内には、備中売薬や阿曽の鋳物、い草や畳など、総社で盛んだった産業の資料を展示しています。
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電話番号 | 0866-93-9211 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 総社市総社二丁目17-33 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合、その翌日)、年末年始 |
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総社跡 | |
総社宮 |
総社の地名の由来となったといわれる社。総社は、国中の神社を巡拝する慣わしの不便をはぶくため、平安時代末期に国府の近くに造られるようになったものであり、この備中の総社は324社の神々を一つに配ったもの。前庭の三島式庭園は、古代様式をそのまま今に伝え、長い回廊の美しい影が水面に映し出されている。また、拝殿には多くの絵馬が奉納されており、円山応挙や大原呑舟などといった絵画史に残る有名な画家によって描かれた絵馬も奉納されている。その他、直径2.5mの茅でできた輪を3回くぐりぬけ、厄除けを願う「輪くぐり祭」や、総社宮に伝わる力石(約180kgの横綱力石)をどれだけ長く持ち上げることができるかを競う「力石総社」などの行事が行われている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.23 |
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総社跡 |
奈良時代の天平13(741)年に、聖武天皇が仏の力によって外敵や災害、疫病などの災いから国を守るため、全国に僧寺や尼寺を建てるように詔を出した。その命により建てられた尼寺の一つが、この備中国分尼寺である。備中国分尼寺跡は、備中国分寺の東方、約700mのなだらかな丘陵地にあり、国分寺とは異なり、短期間で廃棄されたものと考えられる。現在では、アカマツ林の中に残る建物の柱を支えた大きな礎石や、築地土塀の痕跡を残すのみであるが、当時の寺域は東西約108m、南北約216mと推定されている。建物は境内の中心線上に南門、中門、金堂、講堂が一直線に配置され、中でも金堂は残っている礎石からかなり大きな建物であったと想像できる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.23 |
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備中国分寺 | |
こうもり塚古墳 | |
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備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) |
備中国分寺は、総社市南部のアカマツに包まれた美しい丘陵地帝のほぼ中央部に位置し、聖武天皇の発願によって全国に建立された国分寺の一つである。当時の境内は、東西約160m、南北約178mと推定されるが、建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在ある建物は江戸時代に再建されたものである。また、境内にそびえる吉備路のシンボルともいうべき五重搭は、県内唯一の五重塔で、国の重要文化財に指定されている。この五重塔は国分寺の再興からおよそ100年後の文政4(1821)年頃より建立が図られ、工事が完了したのは天保14(1843)年か弘化元(1844)年のことといわれている。総高約34.3mの大規模な塔で、木造本瓦葺、青銅製の相輸をたてている。3層まではケヤキ材、4・5層は松材を主に使用しており、心柱が塔の中央を礎石の上から相輪まで達している。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.23 |
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古代吉備文化発祥の地総社市 | |
備中国分尼寺跡 | |
こうもり塚古墳 | |
備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) |
総社市(旧山手村)にある旧山陽道を北に望む低い丘陵上に築かれた古墳で一辺36m×38m、高さ約5mの吉備地方では最大規模の方墳。墳丘の外表構造については、斜面を覆う葺石や、段の有無も明らかではないが、墳丘に立てられた埴輸が少数ながら採集されている。埴輸の形状から5世紀後半に造られた古墳であると考えられるが、内部の埋葬施設の構造については全く明らかになっていない。その名の由来は、戦前、古墳の西側に土俵を設け、宮の祭りの際に奉納相撲が行われていたことからきているという説が伝えられている。また、この古墳の上には、県指定天然記念物で、樹齢約450年を誇る樹形の非常に美しいクロマツが枝を大きく広げ、そびえている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.22 |
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備中国分寺と国分尼寺跡の中間の丘陵にある前方後円墳で、またの名を「くろひめ嫁古墳」ともいわれていた古墳。6世紀に築造され、全長は約100m、奈良の石舞台古墳と同規模の巨大な横穴式石室を持つ。この横穴式石室は、全長19.4mで巨大な石を組み合わせて造られており、全国で第4位の規模を誇る。玉砂利を敷き詰めた石室には、貝殻石灰岩で造られた家形石棺や、土を焼いて作った陶棺、そして木の棺が安置されていた。盗掘の被害を受けてきたが、須恵器や土師器などの土器のほか、大刀や馬具をはじめとした鉄器などが多数出土している。また、この古墳は、かつて仁徳天皇に愛された吉備のくろひめの墓とされ、「くろひめ塚古墳」と呼ばれていた。しかし、6世紀後半