室町時代の画僧・雪舟等楊生誕の地とされる総社市赤浜に、その功績を後世に伝えると共に、多くの人々が集い、交流する公園として雪舟生誕600年の年である令和2年に開園しました。園内には広場のほか、展示・交流施設や室町時代を感じられる家屋もあり郷土の誇りである雪舟に親しむことができます。
室町時代の画僧・雪舟等楊生誕の地とされる総社市赤浜に、その功績を後世に伝えると共に、多くの人々が集い、交流する公園として雪舟生誕600年の年である令和2年に開園しました。園内には広場のほか、展示・交流施設や室町時代を感じられる家屋もあり郷土の誇りである雪舟に親しむことができます。
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電話番号 | 0866-90-2025 |
料金 | 無料 |
所在地 | 総社市赤浜2025 |
休館日 | 年末年始 |
建物は大正4年に倉敷幼稚園の園舎として建てられました。当時としては、珍しい八角形の遊戯室のある建物を残すため、この地に移され、資料館として生まれかわりました。幕末から現代までの教科書や、学校で昔使われた文房具などを展示しています。
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電話番号 | 086-422-7239 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市西中新田669 |
休館日 | 月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)12月28日~1月4日、その他 |
ベンガラ窯元片山家の分家で、明治12年に建築された建物が当時のまま保存されています。
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電話番号 | 0866-29-2205 |
料金 | 大人500円・小中学生250円(旧片山家住宅と共通) |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋699 |
休館日 | 12~3月の火・水・木・金(祝日は開館)、12月29日~1月3日 |
地球温暖化、大気や川や海の汚染などの環境問題、自然環境について、環境学習の拠点として、施設見学や講座を行っています。施設には、エコライブラリーやエコギャラリーがあります。エコチャレンジ大作戦など楽しく学ぶことができます。
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電話番号 | 086-440-5607 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市水島東千鳥町1番50号 |
休館日 | 土・日曜日、祝日、12月29日~1月3日 |
平成24年3月まで現役の木造校舎として国内最古とされていた小学校です。約7年間の保存修理工事を終え、令和4年4月に「学び」と「遊び」をコンセプトとした新たな施設として生まれ変わりました。※令和4年4月21日オープン予定
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電話番号 | 0866-29-2811 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 大人500円・小中学生250円 |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋1290番地1 |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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カラフルな照明で見たことのない世界が体験できる鍾乳洞です。鍾乳洞は、石灰岩が雨水などに溶けてできたもので、鍾乳石は1cm伸びるのに100年ぐらいかかると言われています。洞内はいつも15℃ぐらいで、夏は涼しく、冬は暖かいです。周辺には、自然豊かな遊歩道もあります。
※満奇洞をリアルに体験できるバーチャルサイト公開中
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電話番号 | 0867-74-3100 |
開館時間 | 8:30~17:00(入洞受付は16:30まで) |
料金 | 大人1,000円・高校生1,000円・中学生800円・小学生500円 |
所在地 | 新見市豊永赤馬2276-2 |
休館日 | なし |
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幕末の備中松山藩において藩政改革を成し遂げた郷土の偉人、山田方谷を顕彰する記念館です。山田方谷の生涯について、歴史資料や解説パネルでわかりやすく展示・紹介しています。
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電話番号 | 0866-22-1479 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 大人500円・小中学生250円 |
所在地 | 高梁市向町21 |
参考文献 | 流域パスポート |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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山田方谷記念館 |
里庄町出身の博物学者。化石・岩石・鉱物・昆虫・動物などの標本と文献の収集及び調査研究を生涯にわたって続けた。また、民俗学にも興味を持ち、日本で初めての妖怪事典『現行全国妖怪辞典』を著した。
子どもが大好きな遊具を設置した「子ども広場」や健康づくりに最適な「ウォーキングコース」が整備された運動公園。ウォーキングコースの途中には展望デッキもあり、晴れた日には瀬戸内海を望むことができる。
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碁盤の目のような表面の割れ目を持つ形状が大男が着る鎧のように見えることから「鎧岩」と呼ばれています。
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笠岡市立カブトガニ博物館では、「カブトガニ繁殖地」の保護活動や研究に取り組んでいます。
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恐れ入ります。該当する情報がありません。
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遙照山南麓の金光町上竹地区を流れる竹川の上流では、5月下旬から6月上旬にかけてゲンジボタルの幻想的な光景に出会える。
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目通り周囲4.35m。根周り5.21m。高さ27.0m。推定樹齢300年。
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長い年月の間に地下水で溶かされた跡が波に洗われた跡のように見えるところから波形岩の名称がつけられた。
専教寺の境内にある樹齢推定300年のクロマツ。特に北に伸びている枝は非常に優雅で、龍が眠っている姿を思わせる。
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樹齢推定300年をほこるツバキ。
4月上旬から中旬にかけて、八重で美しい鮮紅色の花が咲く。
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戦国時代末期に早島の城山に砦を構えていたとされる毛利方の武将。
冠山城で秀吉軍の加藤清正と戦った。
角力取山古墳の上にそびえる、樹齢約450年のクロマツの巨木。昭和47年岡山県指定天然記念物指定。
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高梁川支流槇谷川の上流にある渓谷。花崗岩特有の摂理による奇岩石柱が連なり,新緑や紅葉の美しい景勝地。
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全国的にも珍しい伏流水が水源の滝。石灰岩のカルスト台地に降った雨が浸透し、台地下の川へ流れ出て、滝となっている。
平面に発達した閉塞・断層裂か型の吐出穴で、鍾乳管や石筍が発達し、曲石も存在するなど、「鍾乳石の宝庫」とも呼ばれる。
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オグラセンノウ、ビッチュウフウロ、リュウキンカ、アギスミレなどが分布する植物群落の宝庫とされ、「西の尾瀬」ともいわれる。
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このイチョウは、目通り周囲約6.9m、根元周囲約7mの主樹を中心に、6本のわき芽があります。わき芽は、それぞれ根元周囲1~1.2m、目通り周囲1~1.95mで、樹齢500~600年と推定されています。
時代 | 樹齢500~600年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 植物 |
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このカヤは、
時代 | 樹齢約530年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町本郷 |
分類 | 植物 |
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モリアオガエルは、両生類アオガエル科で、日本だけに生息しています。体長は、雄は7.5cm程ですが、雌は大きく9.5cm程になります。体色は緑色の地に褐色の斑紋があり、腹面は白色です。夜行性で、吸盤が発達し主に樹上生活しています。
5~6月ごろの梅雨期になると、夜間、雌雄は池や沼の岸に集まり、雌がまず樹木に登り水面上に張り出した木枝に行き、雄がそれに続いて集まり産卵を開始します。雌は、直径15cm前後の泡状の塊の中に200~300個の卵を産みます。2週間ほどでふ化したオタマジャクシは、自ら出す酵素で泡塊を溶かし、底が破れると下の池に落ち、2ヶ月程で蛙に変態します。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和60年8月5日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
見学に適した時期 | 5~6月頃に産卵する |
分類 | 動物 |
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モリアオガエルは、両生類アオガエル科で、日本だけに生息しています。体長は、雄は7.5cm程であるが、雌は大きく9.5cm程になります。体色は緑色の地に褐色の斑紋があり、腹面は白色です。夜行性で、吸盤が発達し主に樹上生活しています。
5~6月ごろの梅雨期になると、夜間、雌雄は池や沼の岸に集まり、雌がまず樹木に登り水面上に張り出した木枝に行き、雄がそれに続いて集まり産卵を開始します。雌は、直径15cm前後の泡状の塊の中に200~300個の卵を産みます。2週間ほどでふ化したオタマジャクシは、自ら出す酵素で泡塊を溶かし、底が破れると下の池に落ち、2ヶ月程で蛙に変態します。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和52年10月15日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市大佐小阪部 |
見学に適した時期 | 5~6月頃に産卵する |
分類 | 動物 |
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この水藻は、
この水藻については、『
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和41年6月1日 |
所在地 | 新見市哲多町花木 |
見学に適した時期 | 1~4月上旬に見ることができる |
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時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和54年5月16日 |
所有者・管理者 | 岡山県 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 地質鉱物 |
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荒戸山は、哲多町田淵の西方約1kmにあり、鍋を伏せたような形をしていることから昔から「鍋山」として親しまれています。
新世代新第3紀鮮新世の終わりごろ、新見市西部から広島県東部にかけて火山活動が始まりました。この火山活動は陸上の火山活動であり、中新世備北層群を貫いて火口から熔岩が流出し、玄武岩の熔岩台地が形成されました。その後の浸食により玄武岩台地は削られ、かつてのマグマの通路であった火道の部分が浸食されずに釣鐘状の小高い残丘(標高761.9m)として残されたものが荒戸山となっています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和41年6月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町田淵 |
分類 | 地質鉱物 |
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本湿原は、面積が2.0haあり、湿原内には湿生植物が広く自生しています。海抜550mに位置し、旧
湿生植物は、上流側において良く発達し、下流側に至るにつれて沼沢性が強くなっており、全体としては変化に富んだ植生をしています。調査の結果、107種が確認されています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成2年9月1日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市哲多町田淵 |
見学に適した時期 | 4月後半~11月 |
分類 | 植物 |
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鯉ヶ窪湿生植物群落 |
本洞は、びょうぶ嶽の石灰岩の絶壁に開口する全長1.2kmの鍾乳洞で、洞口は小さく高さ2m・幅2mとなっています。井倉上の穴から吸い込まれた水の吐出穴があります。洞内は石灰岩の節理に沿う溶食作用の結果できた割れ目が発達したもので、洞穴(天然の石灰洞)は、前半部は南北方向に、後半部は北北東方向に延びています。
また、洞内には、地軸の滝・音の滝など落差50mにも達する観光洞としては珍しい滝があります。顕著な二次生成物には、つらら石・流れ石・カーテン・石筍・石柱などがあります。観光客の便のため、回遊式の人口洞が獅子穴まで通じています。
県下の観光洞の中でも最も交通の便がよく、満奇洞・羅生門とともに新見市観光のシンボルとなっています。
時代 | 不明 |
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料金 | 【入洞料】高校生以上1,000円・中学生800円・小学生500円・小学生未満無料(団体割引、障害者料金あり) |
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年11月5日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市井倉 |
定休日 | なし |
分類 | 地質鉱物 |
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羅生門 | |
井倉洞 | |
阿哲台(宇山洞) | |
阿哲台(満奇洞) | |
阿哲台(縞嶽) |
金谷から哲多町花木にかけての一帯(河本ダム周辺)には石灰岩と花崗岩との接触部があり、スカルン帯を形成しています。これらの堆積岩が、中生代の火成活動によって噴出した花崗岩の熱の影響を受けて、石灰岩は大理石に、チャートや泥質岩は珪灰石・ベスブ石・ざくろ石などを含むスカルンに変化しました。石灰岩は風化浸食に弱いため窪み、スカルンは石英を主体とし硬く浸食に強いため、全体として凹凸のある縞状の岩体となり、崖をつくっています。この縞模様から「縞嶽」と名づけられたものであり、阿哲台の地史を知る上でも貴重な場所となっています。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年11月5日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市金谷 |
分類 | 地質鉱物 |
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阿哲台(井倉洞) |
本洞は、岡山県内有数の規模の
昭和42(1967)年には、洞内からナウマン象の歯が発見されています。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年11月5日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市豊永宇山 |
分類 | 地質鉱物 |
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阿哲台(縞嶽) | |
阿哲台(井倉洞) | |
注意点 | 入洞届の提出が必要 |
本洞は、阿哲台では最も早く開発された鍾乳洞で、昭和時代初期にはすでに他県にまで知られていました。
洞穴は平面に発達した迷路に富む閉塞・断層裂か型の吐出穴であり、総延長450m・最大幅25mとなっています。最大のプールは夢の宮殿・竜宮と呼ばれ、無数のつらら石・カーテン・洞穴さんごが発達しています。プールの最大水深は約1mで、この水は洞内の炭釜・千枚田付近で地下に吸い込まれ、そのため洞口付近は流水がなく鍾乳石は乾燥し風化しつつあります。鍾乳管・つらら石・畦石・カーテン・石筍・石柱が発達し、また小さな洞穴さんご・曲石なども無数に存在しており、鍾乳石の宝庫とも呼ばれています。
「満奇洞」の名称は地名の「槇」にちなんで、歌人の与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻が命名したものです。
「まきの洞 夢にわが見る 世の如く 玉より成れる 殿づくりかな」鉄幹
「満奇の洞 千畳敷の 蝋の火の あかりに見たる 顔を忘れじ」晶子
時代 | 不明 |
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料金 | 【入洞料】高校生以上1,000円・中学生800円・小学生500円・小学生未満無料(団体割引、障害者料金あり) |
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年11月5日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市豊永赤馬 |
定休日 | なし |
分類 | 地質鉱物 |
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体長は5~7mm、ゲンジボタルやヘイケボタルと比べて小さいという特徴があります。雄は体が長く、羽が良く発達し飛ぶことができますが、雌は体が短く羽が退化して飛べないため、地表や笹の茎にとまるほか、雄に比べて弱い光を発します。
ゲンジボタルやヘイケボタルなど他のホタルの幼虫は、水生でカワニナや淡水のマキ貝などを餌にしますが、金蛍は陸生で陸生のキセル貝等を餌として成長します。生息地域は山岳地帯の限られた場所のみです。
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和34年3月27日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町蚊家 |
見学に適した時期 | 7月10日頃が最盛期 |
分類 | 動物 |
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注意点 | ホタルを触ったり捕まえたりしないこと。光を発しないこと。蚊取り線香や虫除けスプレーを使わないこと。大声で話さないこと。 |
この御衣黄は、樹高約7m、目通り周囲約1.7mです。オオシマザクラ系サトザクラが変異した「御衣黄」という珍種で、県内でも数カ所にしかないといわれています。花弁は、葉よりもわずかに淡い緑色で薄黄緑色の筋があり、満開になるにしたがって紅色の線が現れますが、全体的に緑色をしているため遠くから見ると葉桜と見間違われます。昭和40~45(1965~1970)年頃にかけて各駅にサクラの苗木が配られ、植栽されたうちの1本です。
時代 | 樹齢約50年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成5年3月30日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田(矢神駅構内) |
見学に適した時期 | 4月末~5月初め |
分類 | 植物 |
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このケヤキは、樹高約13m、目通り周囲6.9mあり、推定樹齢は700年の巨木で、樹勢は現在も旺盛です。根元から約3mのところで大きな枝が2本を分岐し、さらにその上方では四方に枝張りを広げ、東西南北にそれぞれ約30mの延びを見せています。根元には荒神様の小祠を祀っています。
時代 | 樹齢約700年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成11年4月13日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市足見 |
分類 | 植物 |
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このツバキは、樹高約7.5m、目通り周囲約1.6m、高さ約1.6mのところで3本に枝分かれしており、樹齢250年と推定されています。
時代 | 樹齢約250年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成5年3月30日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
見学に適した時期 | 10~4月 |
分類 | 植物 |
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このツバキは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
見学に適した時期 | 10~4月 |
分類 | 植物 |
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日尾山八幡神社のサカキ |
これは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
見学に適した時期 | 10~4月 |
分類 | 植物 |
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このツバキは、樹高約7m、目通り周囲約2m、東西南北に約15m広がっています。20m離れた所に同程度のヤブツバキがあることから「
時代 | 樹齢数百年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和58年9月8日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市神郷下神代 |
見学に適した時期 | 10~4月 |
分類 | 植物 |
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このサカキは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和54年5月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
分類 | 植物 |
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時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年6月19日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市神郷油野 |
見学に適した時期 | 5月上旬開花 |
分類 | 植物 |
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これは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和39年3月29日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市大佐上刑部 |
見学に適した時期 | 5月上旬開花 |
分類 | 植物 |
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これは、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和39年3月29日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市大佐大井野 |
見学に適した時期 | 5月上旬開花 |
分類 | 植物 |
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このボダイジュは、樹高約17.3m、目通り周囲0.6~0.8mで、7本に株立っています。環境省のレッドデータブック(平成12年7月刊)で、絶滅危惧IA類(CR〔ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種〕)に指定されています。
マンシュウボダイジュは落葉高木で、果実は球形で短い星状毛が密生しています。分布は中国東北部・ロシア(ウスリー島)・朝鮮半島にあり、日本では山口県・広島県、そして新見市
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年6月20日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
分類 | 植物 |
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このクワは、樹高約22m、目通り周囲約4.5m、東西南北に約17m広がっている大木で、推定樹齢は400年といわれています。
時代 | 樹齢約400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和58年9月8日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市神郷油野 |
分類 | 植物 |
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この植物は、タンポポの一種で葉は
昭和7(1932)年4月、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和54年5月16日 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 植物 |
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このカキノキは、樹高約20m、根元周囲約2.5mの古木です。いつのことかはっきりしませんが、その昔、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成5年3月30日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 植物 |
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このイチョウは、樹齢約200年といわれている大木(雌)で、獅子山八幡宮のイチョウと夫婦だと古くから言い伝えられています。樹高約25m、目通り周囲約3.9m、根元周囲約4.9mとなっています。
時代 | 樹齢約200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
分類 | 植物 |
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獅子山八幡宮のイチョウ | |
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このイチョウは、市道(旧国道)沿いにある大木(雄)で、
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
分類 | 植物 |
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善江院のイチョウ | |
善江院のイチョウ |
本群落は、新見市の西部、広島県との県境付近にある標高約550mの鯉ヶ窪池の周辺に広がる湿原内にあります。この湿原の平面は鯉の形をしており、常に水湿を保ち、土地の人々が「沢っ田」と呼ぶ泥沼地です。この湿原には、オグラセンノウ・ビッチュウフウロなど隔離分布を示す希少植物や、寒地性植物のリュウキンカ・エゾシロネなどのほか、わが国固有の植物アギスミレ・サワオグルマ・サギソウ・スイランなどが分布しており、植物群落の宝庫です。季節によりそれぞれの植物が美しい花を競い合い「西の尾瀬」ともいわれます。西日本の代表的な湿生植物群落として、学術上高い価値があります。
時代 | 不明 |
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料金 | 入場協力金200円 |
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和55年3月6日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
定休日 | 11月~4月21日まで |
見学に適した時期 | 定休日 11月~4月21日まで |
分類 | 植物 |
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鯉ヶ窪湿生植物群落 |
古くから地元では潮の満ち干と関連があるとし、「
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和5年8月25日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市草間 |
分類 | 地質鉱物 |
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注意点 | 小川を渡る必要があるため,長靴の着用が望まれる |
羅生門は、標高400m前後の草間台のドリーネにできた石灰岩の巨大なアーチです。第1門から第4門までアーチがつながり、末端は羅生門第1洞と呼ばれる吸い込み穴となります。古い鍾乳洞が崩落し、一部分が残存してアーチとなった鍾乳洞の最後の姿です。
チョウジガマズミ・ヤマトレンギョウなどの石灰岩植物だけでなく、洞口から吹き出す低温多湿な自然状態から、高山性や北方系の貴重な蘇苔類や地衣類が隔離分布しています。蘚苔類では、サガリヒツジゴケ・イギイチョウゴケ・セイナンヒラゴケ、昆虫ではガロアムシなどの洞穴昆虫が生息しており、7月初めになるとドリーネ内外で黄金色の光を点滅させるヒメボタルが見られます。
また、夏期はモヤや冷気を感じることができ、まさに「羅生門」の名にふさわしい光景を見ることができます。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和5年8月25日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市草間 |
分類 | 地質鉱物 |
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羅生門 | |
注意点 | 第1展望台より先は進入禁止 |
オオサンショウウオは、両生類、有尾目、オオサンショウウオ科に属し別名「ハンザキ」ともいわれています。ヨーロッパ大陸でも50万年前まで生息していましたが、現在は絶滅し、わずかに東アジアの一角、日本、中国のみに生息しています。このようなことから「生きている化石」ともいわれる貴重種で、学術上重要な動物です。
岡山・大分・岐阜・鳥取諸県の主要な生息地を指定し保護されてきましたが次第に減少しました。また、他にも多くの生息地があり、これらを保護するためにオオサンショウウオを特別天然記念物に指定し捕獲を禁止しました。オオサンショウウオは、両生類中最大で、160cmに達するものもありますが、一般には40~120cmくらいになります。
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和27年3月29日 |
分類 | 動物 |
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注意点 | 触ったり捕まえたりしないこと |
このムクノキの巨樹は、目通り周囲約7m、根元周囲約6.5m、樹高約15mで、樹齢は約500年と推定されます。
昭和31(1956)年の台風により一部欠損したとのことです。昔は松山往来がここを通っており、行き交う人々の憩いの場所でもありました。
時代 | 樹齢約500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和41年4月14日 |
所有者・管理者 | 総社市 |
所在地 | 総社市日羽 |
見学に適した時期 | 一般的な花期は4月~5月 新緑5月~6月 紅葉11月 (※その年の気候や個体による差あり) |
分類 | 植物 |
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このシダレザクラは、高梁市有漢町鈴尾中央部の道路上の傾斜地にあり、道路の上に枝を広げており満開の頃は美しい姿を見せます。高さ約10m、幹の目通り周囲1.6mで、樹齢は約100年と言われています。
時代 | 樹齢100年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和56年12月7日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市有漢町有漢 |
見学に適した時期 | 4月中旬~下旬 |
分類 | 植物 |
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この杉並木は、6,805㎡の広大な社叢で岡山県下でも屈指の林相です。その参道200mには巨大なスギの並木があり、江戸時代末期に再建された本殿と年数が同じと思われる巨木が数十本あります。
一番の巨木は、参道右側にあり、御神木として根元を竹の柵で囲んでいます。根元周囲は約9mあり、樹齢は約800年と推定されます。昼なお暗い樹林は、静寂かつ荘厳さに満ちています。
時代 | 樹齢約800年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和39年8月30日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市大佐小阪部 |
分類 | 植物 |
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大佐神社本殿 | |
明石神社社叢のうち御神木と杉並木12本 | |
明石神社社叢のうち御神木と杉並木12本 | |
大佐神社本殿 |
御神木は、明石神社本殿の裏山にあり、樹高約46mで目通り周囲7m、樹齢約700年のスギの巨木です。新見市では、大佐の大佐神社及び大井野八幡神社の神木に次ぐ大きさです。
また、鳥居から本殿にいたる急勾配の参道両脇には、スギの大木12本が並んでいます。これらは、樹高約38m、目通り周囲4.2m、樹齢350年のものを筆頭に、樹高32m、目通り周囲3.7m、推定樹齢300年のものなどとともに見事な杉並木を形成しています。
時代 | 御神木樹齢約700年 杉並木樹齢300~350年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年3月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市千屋 |
分類 | 植物 |
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大佐神社本殿 | |
大佐神社の杉並木 | |
大佐神社の杉並木 | |
大佐神社本殿 |
このウメは、昭和7(1932)年、草間青年団によって移植されたウメです。旧草間村大庄屋の庭園にあったものを草間中学校(現草間公民館)に移植しました。樹高は3.7m、樹齢は約200年です。
時代 | 樹齢約200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成20年12月3日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市草間(草間公民館内) |
見学に適した時期 | 3月上旬~中旬開花 |
分類 | 植物 |
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このホオノキは、樹高約20mで、根元から7本の枝を分岐して、東西南北にそれぞれ約30mの延びをみせています。根元周囲は約11m、最も大きい分枝は周囲約2mあり、樹齢は約700年と推定されます。
また、根元には
時代 | 樹齢約700年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年9月25日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市千屋花見 |
分類 | 植物 |
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このヤマボウシは、休石の周りに生える境界木で、樹高約5m、目通り周囲1.74mあり、枝張りは約5mの広がりをみせています。ヤマボウシとしては県下最大の巨木で、推定樹齢は400年とされます。ヤマボウシは別名「イツキ」「ヤマグワ」ともいい、新見市周辺では「ウツキ」と呼ばれており、6~7月に球状の頭状花序をつけます。花弁状をした4弁の白色の総苞をもち、開花のときには木全体が白く覆われたようになり、10月頃には実が紅熟し食用されます。
時代 | 樹齢約400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年3月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市千屋花見 |
分類 | 植物 |
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このアテツマンサクは、樹高約7m、目通り周囲0.56m、根元から11本の枝が分岐して、根元周囲は約2.5mに及びます。花は3月上旬に咲き、約10日間見ることができます。日本では中国・近畿地方西部の山地に自生しています。花のがく・花弁は4個で、花弁は黄色で細長く、葉は有柄・ひし状円形または倒卵形をしています。アテツマンサクは、大正3(1914)年に牧野富太郎博士が黒髪山で発見・命名されたもので、葉裏に白毛を重生する高木であることから新種と決定されました。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年9月25日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市新見 |
見学に適した時期 | 3月上旬開花 |
分類 | 植物 |
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このモミは、樹高約30m、目通り周囲約5.4m、樹齢300年と推定されています。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成11年9月29日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市神郷高瀬 |
分類 | 植物 |
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このモミは、参道の鳥居の裏側で、左右そろって成長した巨木です。モミvの巨木は新見市でも珍しく、市内でも1、2を争うものであり、ことに2本がいずれも劣らず成長している様子はあたかも「夫婦」を思わせるものがあります。本殿に向かって右側は樹高約44m、目通り周囲約4.2mで、左側は樹高約40m、目通り周囲約4.7mで、樹齢はいずれも約300年と推定されます。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年3月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市千屋花見 |
分類 | 植物 |
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この多行松は、赤松の変種で根元より多数の幹が枝分かれし、全く主幹を欠き、樹形は傘状になっているのが特徴です。樹高約11m、根元周囲約1.8mで、根元より枝が5本に分かれ、地上1.2mで10枝、同2mで30枝、同3mで50枝に分かれています。推定樹齢は150~200年です。現在のところ、山中において多行松の自生種は、この松以外に確認されていないので、この松がこの地域にあり、また巨木と成育していることは非常に貴重であります。
時代 | 樹齢150~200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和41年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町蚊家 |
分類 | 植物 |
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このアベマキは、大野部川南のさいの神にある巨大な神木で、樹高約30m、目通り周囲約4.94m、根元周囲約5.15m、地表から約2mのところから3本に枝分かれしています。また樹齢は350~400年と推定されています。
時代 | 樹齢350~400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
分類 | 植物 |
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このアベマキは、樹高約27m、目通り周囲約4.3m、根元周囲約6.1m、枝張りは四方約18mで、推定樹齢は300年です。アベマキの根元には祠があり、地元の人々から私祭神の御神木として祀られています。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町大野 |
分類 | 植物 |
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このアラカシは、樹高約26m、目通り周囲約5.2m、推定樹齢500~530年であり、幹は、地上約5mのところから十数本に枝分かれしています。アラカシとしては、県下第一の大きさを誇っています。
時代 | 樹齢500~530年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町宮河内 |
分類 | 植物 |
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このアカガシは、草間馬繋地内にある
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成19年8月21日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市草間(輝雲寺) |
分類 | 植物 |
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このミズナラは、樹高約19.8mで、目通り周囲約3.76mです。根元には、弘法大師が祀られており、地区の人々による参詣や盆踊りが行われるなど「大槇」と呼んで親しまれていました。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年6月20日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町矢田 |
分類 | 植物 |
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このクヌギは、樹高約30m、根元周囲3.47m、目通り周囲3.08m、推定樹齢200~250年とされます。
時代 | 樹齢200~250年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町上神代 |
分類 | 植物 |
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このツクバネは、大椿寺にあり、形が珍しいので多くの人が持ち帰り移植するが、半寄生植物のため活着しづらいようです。また城谷奥仙石山付近、蚊家天王山、舟原の鳥居付近にも自生しています。ツクバネは、山地に生じる半寄生植物の灌木で、樹高2~3m、葉は長楕円形で先端尖鋭で対生します。雌雄異株で6月頃枝梢に雌花を単生し、雄花は数個叢生し開花後結実します。苞4個は果実と共に残り、形が羽子板の羽根に似ているところからその名が付けられました。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和61年6月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲多町花木 |
見学に適した時期 | 8~10月頃 |
分類 | 植物 |
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このスギは、
時代 | 樹齢約350年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成11年9月29日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市神郷下神代 |
分類 | 植物 |
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このカリンは、中国原産の落葉高木で、幹囲は根元周囲2m、目通り周囲2.1m、樹高約13m、高さ1.7mのところで枝が分かれ、枝数は13本もあります。また長さ10cm内外の楕円形の実がなります。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市哲西町畑木 |
分類 | 植物 |
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このムクの木は、根回り5.7m、目通り5.8m、樹高15mのニレ科の木です。
県下でも有数の巨樹で、老齢樹木に登録されています。幹内は直径60cm、高さ3mに及ぶ空洞となっています。
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和56年3月24日 |
所有者・管理者 | 矢掛町 |
所在地 | 矢掛町里山田 |
分類 | 植物 |
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このカゴの木は、根回り4.5m、目通り2.3m、樹高約12mで、クスノキ科の常緑高木です。
樹皮が脱落すると、その痕がまだらになり、鹿の子模様にみえるところからついた名前で、暖温帯に分布し、矢掛町内では
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和48年4月11日 |
所有者・管理者 | 柏木町内会 |
所在地 | 矢掛町横谷 |
分類 | 植物 |
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このチシャの木は、根回り4.8m、目通り3.3m、樹高12mの大木です。
ムラサキ科の落葉高木で、主として九州・沖縄・台湾などに分布する暖帯林の植物であり、矢掛町では珍しいものです。
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和48年4月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 矢掛町浅海 |
分類 | 植物 |
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クスドイゲは、イイギリ科の常緑小高木で、日本国内では主に近畿以西の本州・四国・九州・沖縄の海岸近くの林内に生育しています。幹や若木の葉腋(葉の付け根)にトゲがあり、9月に花を咲かせます。
樹齢約200年と推定されるこのクスドイゲは、高さ11.5m、枝張りが東西6.9m、南北6.8mで、地上1.3m部分の直径は51.3cmあります。
祝神社の祠の背後にあり、岡山県下のクスドイゲとしては、笠岡市神島外浦の
時代 | 樹齢約200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年7月28日 |
所有者・管理者 | 祝神社 |
所在地 | 倉敷市船穂町船穂 |
分類 | 植物 |
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この松は、
この松は、宝永3(1706)年に寺が再建されて間のないころ植えられたといわれ、その樹形が鳥が翼を広げたように見えることから、法厳寺第16世聖演法印により「鳳凰の松」と名付けられたと伝えられています。
また、同寺の霊木として、地域の人々の間で親しまれています。
時代 | 樹齢約200年~250年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年4月15日 |
所有者・管理者 | 法厳寺 |
所在地 | 倉敷市片島町 |
分類 | 植物 |
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この松は、玉島黒崎の沙美海岸近く、
安永年間(18世紀)本性院の第14世真寛上人が付近の山から移植したと伝えられ、第17世実亮上人のとき、先端を止めて笠の形に整え、それ以来中央が盛り上がり円くなったとされます。
「雨笠の松」という名は、嘉永元年(1848) にこの地を訪れた備前の儒学者雲岳が命名したといわれており、興譲館の
その他にも、
時代 | 樹齢約200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年4月16日 |
所有者・管理者 | 本性院 |
所在地 | 倉敷市玉島黒崎 |
分類 | 植物 |
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三島中州 | |
興譲館 | |
興譲館(動画) |
この場所は、由加山参道に接しており江戸時代由加往来の盛んだったころには田の口港に発着する船の目標になったといいます。田の口荒神は田の口地区の氏神として約1000年前から祀られていたと伝えられ、これを裏書きするように境内をめぐって数基の古墳(6~7世紀の後期古墳)が環状に配列しています。
時代 | 樹齢約700年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年4月16日 |
所有者・管理者 | 荒神社 |
所在地 | 倉敷市児島田の口 |
分類 | 植物 |
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この松は、
時代 | 約200年前移植 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和40年3月25日 |
所有者・管理者 | 不洗観音寺 |
所在地 | 倉敷市中帯江 |
分類 | 植物 |
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阿知の藤は、美観地区の北、鶴形山の山頂近くにある藤の名木で、阿智神社本殿の裏手に自生しており、推定年齢は300年とも500年ともいわれています。
幹廻り約1.5m、根元周囲約2.2mで、同種の藤としては日本一の巨樹といわれています。
アケボノフジと呼ばれる藤の一品種で、毎年5月上旬になると淡紅色の花を咲かせ、藤棚全面に花房をつけます。
先年老衰のためか,樹勢の衰えが目立つようになり、花の着生も少なくなりはじめたため、活性剤の注入や各種の有機肥料を与えるなどさまざまな処置が施されました。こうした活性化・延命策により樹勢は回復しつつあります。
さらに、つぎ木・取木などによる二世育成にも力が注がれています。
時代 | 樹齢300~500年 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年4月1日 |
所有者・管理者 | 阿智神社 |
所在地 | 倉敷市本町 |
見学に適した時期 | 5月上旬 |
分類 | 植物 |
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時代 | 樹齢約280年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成20年6月23日 |
所有者・管理者 | 美袋八幡神社 |
所在地 | 総社市美袋 |
見学に適した時期 | 一般的な花期は5月(※その年の気候や個体による差あり) |
分類 | 植物 |
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このなぎは、八柱神社社殿の西側にあります。目通り周囲約1.06m、樹高約11mです。清音地区でもっとも大きい「なぎ」です。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年12月13日 |
所有者・管理者 | 八柱神社 |
所在地 | 総社市清音柿木 |
分類 | 植物 |
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このむくろじは、軽部神社社殿の西に2本あります。目通り約1.4m(東)、約1.46m(西)、樹高約15m(東)、約15m(西)あり、樹齢は約300年で神社造営当時の植栽と考えられます。むくろじの実はシャボンと呼ばれてせっけん代わりにされ、種子は羽根突きのおもりや数珠などに使われるなど、昔から人々に親しまれていました。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年12月13日 |
所有者・管理者 | 軽部神社 |
所在地 | 総社市清音軽部 |
見学に適した時期 | 一般的な花期は6月 一般的な紅葉期11月~12月 (※その年の気候や個体による差あり) |
分類 | 植物 |
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このいぶきは、八幡神社境内の東北隅にあり、直幹は北に約20度傾いています。根元は石垣補修時に埋められています。清音地区有数の巨木で、目通り周囲約2.9m、樹高約15mです。八幡神社建立当時の植栽(樹齢約300年)と推定されます。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年12月13日 |
所有者・管理者 | 八幡神社 |
所在地 | 総社市清音軽部 |
分類 | 植物 |
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このカゴノキは、総社市の北西端、
時代 | 樹齢約500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和55年1月14日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 総社市中尾 |
見学に適した時期 | 一般的な花期は9月~10月 (※その年の気候や個体による差あり) |
分類 | 植物 |
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この社叢には、スギ、マツ、中層にはアカラシ、サクラ、モミジを交え、草本層にはマムシグサ、イタドリ、フユイチゴなどを中心に形成されており、古代の植生を推定する貴重な樹林です。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年4月1日 |
所有者・管理者 | 草田八幡宮 |
所在地 | 総社市下倉 |
分類 | 植物 |
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このカヤは、根まわりは460cm、目通りは主幹350cm、枝張り東西15.5m、南北15m、樹高約22m、推定樹齢500~600年とみられ、この種の樹木では近郷に類をみない巨木です。
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和58年10月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市備中町東油野 |
分類 | 植物 |
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このモッコクは、高梁市成羽町
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和49年11月11日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市成羽町成羽 |
分類 | 植物 |
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大杉の木立の下は、かつて高瀬(たかせ)舟(ぶね)の船頭たちが恐れた難所でした。備中松山城主の
御神木の樹齢は1,500年と言われており、社殿の棟札には「貞享元年甲子卯月吉祥日 御奉行宮田長吉忠長 大願主松山城主水谷左京亮勝宗並出羽守勝美」(1684)とあります。
時代 | 江戸時代前期 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和33年2月24日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市高倉町飯部 |
分類 | 植物 |
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備中松山城 | |
JR伯備線方谷駅 |
有終館は、
時代 | 江戸時代後期 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年6月1日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市中之町9 |
分類 | 植物 |
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山田 方谷 |
大賀衝上(断層)の連続で、中生代の成羽層群の上に古生代の石灰岩が押し被さったものとされてきました。この石灰岩はよく観察すると、石灰岩の礫だけが集まってできた特殊な礫岩で、堆積したのは白亜紀であることが判明しました。このような礫岩は、硯石層(羽山層)に特徴的に挟まれています。すなわち、これは成羽層群と硯石層との間の不整合露頭であり、東方の枝の不整合の続きです。また、不整合露頭が連続して追跡できることは大変稀で貴重なことです。
時代 | 中生代 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和36年6月28日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市成羽町羽山 |
分類 | 地質鉱物 |
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午王渓は、高梁市巨瀬町陰地内で、県道長屋賀陽線を南東に400m進んだ咳止神社の横にあります。傾斜の急な谷を流れる水により、硬い岩盤に数多くの滝つぼや甌穴が造られた、珍しい自然景観が数百mにわたり形成されています。滝の後退でできた数個の滝つぼ跡や、水の流れで転がる石によって削られてできた甌穴が20数個もあります。形は荒っぽい三角形やひし形に近く、深さも浅いものが多いです。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成元年3月22日 |
所有者・管理者 | 国土交通省 |
所在地 | 高梁市巨瀬町陰地東地内 |
分類 | 地質鉱物 |
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谷を下るにつれて、木の種類も多くなり、ケヤキ、トチの木、カエデ、カツラなどの
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和31年4月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市川上町高山 |
分類 | 植物 |
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穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山神社随神門 | |
穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山神社随神門 |
この大スギは、
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成10年3月24日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市巨瀬町 |
分類 | 植物 |
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中生代三畳紀(約2億年前)の地層(成羽層群)の上に、古生代石炭紀(約3億5000万年前~2億8000万年前)の地層が、衝上断層により「押し被せ」状態となっている断層関係の証拠となる露頭とみなされ、大賀衝上(大賀デッケン)と呼ばれていました。
これは、地質学の学会のなかで、1970年頃まで支持されていましたが、その後の詳しい調査・研究により、断層の証拠となる破砕帯が認められないことから、実際は不整合面露頭であることが判明しました。不整合は断層よりも保存されにくく、またここでは不整合面が、後の地殻変動でさらに逆転しているため、以前にも増して学術的に貴重です。
時代 | 古生代石炭紀 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和12年6月15日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市川上町仁賀 |
分類 | 地質鉱物 |
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備中松山城のある
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和31年12月28日 |
所有者・管理者 | 林野庁 |
所在地 | 高梁市内山下地内 |
分類 | 動物 |
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済渡寺本堂の西側に接する山稜(斜面)一帯にツガとモミの群生地(15本)があります。最も古い樹木はツガで、樹齢500年前後と推定され、高さ約20m、目通り周囲3.15mに及んでいます。南北約25m、東西約50m、面積約1,250㎡に生立し、樹勢はすべてが健全で旺盛です。
時代 | 樹齢約500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成24年8月2日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市法曽 |
分類 | 植物 |
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高梁川上流県立自然公園の特別地域内に存する三尾寺本堂の境内東西約50m、南北140m、面積約7,000㎡にスギ40本余・ヒノキ38本余の巨木群が林立しています。スギの最大のものは高さ約30m、目通り周囲約5.3m、ヒノキは高さ約30m、目通り周囲約5.1mの巨大木で、樹齢推定800~1,000年と推定されます。県内でも有数のスギ・ヒノキの老巨木を有するものとして希少価値が高いです。
時代 | 樹齢800~1000年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成24年8月2日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 新見市豊永赤馬 |
分類 | 植物 |
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三尾寺本堂 | |
三尾寺本堂 |
星尾神社の周囲に生育する森で、目通り周囲2.2m前後のモミを中心にし、社殿北側には、30.0mを超えるモミが生育し、一部にクロマツ、アカマツの大径木のほか、亜高木層にはコシアブラ、モミ、アラカシなどが生育しています。自然状態を保っている植生の一つの形態を典型的に残している社叢林といえます。星尾神社は、正中元(1324)年にこの地を治めていた豪族
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 星尾神社 |
所在地 | 井原市美星町星田 |
分類 | 植物 |
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スタジイ(ブナ科)は、西日本を中心に分布する常緑広葉樹です。温暖多湿な環境で生育するため、冬季に冷涼となる気候では群生することが少なく、秋につく果実はアク抜き不要で食用となります。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市美星町西水砂 |
分類 | 植物 |
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これは、宇戸谷八幡神社の
時代 | 樹齢 カヤ300年、モミ350年、イヌマキ200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 宇戸谷八幡神社 |
所在地 | 井原市美星町宇戸谷 |
分類 | 植物 |
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このカゴノキ(クスノキ科)は、目通り周囲3.3m、樹高14.0mで推定樹齢500年です。この地域の
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市美星町星田 |
分類 | 植物 |
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このスギ(スギ科)は、目通り周囲5.86m、根周り6.35m、高さ32.5mで東西16.0m、南北21.0mに枝を張っています。推定樹齢500年で市内では最大級です。大スギがある谷の宮の山神社は旧片塚村の村社で、応保2(1162)年に伊予国の
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 宮総代 |
所在地 | 井原市芳井町片塚 |
分類 | 植物 |
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このスギ(スギ科)は、目通り周囲5.6m、根周り6.9m、高さ32.0mで、東西16.0m、南北19.0mに枝を張っています。推定樹齢500年で市内では最大級です。スギは日本固有種で、日本列島に広く分布する常緑針葉樹です。まっすぐに育つことからヒノキとともに材木として古くから利用されています。巨木となることでも知られています。
時代 | 樹齢500年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 種八幡神社 |
所在地 | 井原市芳井町種 |
分類 | 植物 |
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このカヤ(イチイ科)は、目通り周囲4.94m、根周り5.77m、高さ25.0mで東西25.3m、南北12.0mに枝を張っています。推定樹齢は550年です。県内では吉祥寺のカヤと同じく最大級です。
時代 | 樹齢550年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市芳井町吉井 |
分類 | 植物 |
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早川のカヤ |
このフジ(マメ科)は目通り周囲1.88m、根周り2.0m、高さ26.5mで推定樹齢は400年です。県下でも最大級となります。ヤマフジは、西日本に広く分布するつる性落葉樹で、4月~5月にかけて淡紫色または白色の花を房状に垂れ下げて咲かせます。
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 日指明神社 |
所在地 | 井原市芳井町上鴫 |
見学に適した時期 | 4月~5月 |
分類 | 植物 |
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このヤマナシ(バラ科)は、ホクシヤマナシとニホンヤマナシの雑種で2株からなります。北株は、目通り周囲2.23m、根周り2.62m、高さ15.0mで、南株は、目通り周囲1.85m、根周り1.82m、高さ15.5mです。いずれも推定樹齢200年で特に北株は全国的に見ても最大級です。本州、四国、九州の山地帯に分布し、4月~5月に花をつけ、9月~10月ごろに梨状の実をつけます。
時代 | 樹齢200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市芳井町吉井 |
見学に適した時期 | 4月~5月 |
分類 | 植物 |
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このサクラ(バラ科)は、目通り周囲2.22m、根周り3.7m、高さ27.5mで、東西19.0mに枝を張っています。推定樹齢200年で県下でも最大級の大きさです。シダレザクラはエドヒガンザクラの変種で、名前のとおり枝が長く垂れるように伸びます。イトザクラとも呼ばれます。
時代 | 樹齢200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市芳井町宇戸川 |
見学に適した時期 | 3月~4月 |
分類 | 植物 |
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このカヤ(イチイ科)は、目通り周囲4.53m、根周り5.15m、高さ28.0mで枝は東西に22.5m、南北に21.5m伸びています。推定樹齢は400年です。県内では泉谷のカヤと同じく最大級です。吉祥寺は真言宗大覚寺派の寺院で、奈良時代(天平年間)に
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 吉祥寺 |
所在地 | 井原市芳井町下鴫 |
分類 | 植物 |
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泉谷のカヤ |
このカヤ(イチイ科)は、目通り周囲4.35m、根周り5.21m、高さ27.0mであり、枝は、東西に23.0m、南北に19.0mに伸びています。推定樹齢は300年です。市内では、吉祥寺のカヤ、
時代 | 樹齢300年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 井原市芳井町吉井 |
分類 | 植物 |
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吉祥寺のカヤ | |
泉谷のカヤ | |
早川のカヤ(動画) |
モッコクは、東南アジア特産のツバキ科の暖地性常緑樹で、
時代 | 樹齢約350年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和34年6月6日 |
所有者・管理者 | 高山寺 |
所在地 | 井原市高屋町 |
分類 | 植物 |
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高山寺 |
星田池下流1.8kmの間に大小40あまりの甌穴があります。甌穴とは川の急流で渦巻が起こり、小石が回転して岩石を削りこんだもので、数万年をかけて生成されたと思われます。著名な2個は直径約80.0cm及び70.0cm、深さ110.0cmです。
時代 | 数万年をかけて生成 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 井原市 |
所在地 | 井原市美星町黒木 |
分類 | 地質鉱物 |
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甌穴とは、急流の河川の増水時に蛇行部で渦が発生し、上流から流れてきた岩石が渦の中で回転することによって
時代 | 数万年をかけて生成 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 鳴滝保勝会 |
所在地 | 井原市芳井町花滝 |
分類 | 地質鉱物 |
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このネズは、
水に強く、木目が美しいため、建築用材としてよく利用されたものですが、神社の杜として氏子が大切に保存してきたことにより、これほどの大木になったものです。別名をネズミサシ、あるいはモロの木ともいいます。
時代 | 樹齢400年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成10年10月1日 |
所有者・管理者 | 内神荒神社 |
所在地 | 矢掛町矢掛 |
分類 | 植物 |
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この松は、
時代 | 樹齢300年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成8年4月1日 |
所有者・管理者 | 専教寺 |
所在地 | 矢掛町矢掛 |
分類 | 植物 |
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このツバキは、目通り1.86m、枝はり四方9m、樹高8mの老木巨樹のツバキです。
4月上旬ごろから中旬にかけて、八重で美しい鮮紅色の花が咲き、落下した花は、赤い絨毯を敷いたようにまことに美しく見えます。
時代 | 樹齢300年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和56年3月24日 |
所有者・管理者 | 圀勝寺 |
所在地 | 矢掛町東三成 |
見学に適した時期 | 4月上中旬 |
分類 | 植物 |
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象岩は、下津井港から南西3kmの沖合に浮かぶ六口島の西岸にある奇岩です。自然の芸術品であるこの岩は、海岸の花崗岩が風と波によって侵食され、長い年月をかけて造りだされたものです。
その姿はあたかも巨象が岸辺に水を飲みにやって来ているかのようにみえます。白い岩肌の雄大な造形は瀬戸内の海の青さによく映えます。満潮になると波に巨体を浮かべ,干潮になると磯辺にたたずみます。高さは約8m、干潮時には歩いて近づくことができます。
古くから人々の目を引いたらしく、岡山藩池田家文書の中には宝永元年(1704)の絵図が残されており、今と変わらぬ姿が描かれています。
時代 | 江戸より前の時代から存在 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和7年7月23日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市下津井(六口島) |
分類 | 地質鉱物 |
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このチシャノキは、片田荒神社の境内に育成しています。チシャノキの大木は全国的に見ても数が少なく、この木も県内有数の大木と考えられるため、町の天然記念物に指定されています。
時代 | 樹齢約300年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年1月24日 |
所有者・管理者 | 片田荒神社 |
所在地 | 早島町早島1963-1 |
見学に適した時期 | 5月~12月 |
分類 | 植物 |
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エヒメアヤメは、アヤメ科アヤメ属に属し、本名をタレユエソウともいう可憐な植物です。低山に生える多年草で、春になると紫色の花をつけます。花期は短く、一週間ぐらいで花が枯れます。
草丈は10~30cmと可愛らしく、明治30年に愛媛県で確認されたためにこの名がつきました。その後、西日本の各地で自生地が発見され、現在では、愛媛県・広島県・山口県・佐賀県・宮崎県の自生地が国指定天然記念物となっています。
市内では、かつては吉田のほか
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和31年11月1日 |
所有者・管理者 | 稲田山神社 |
所在地 | 笠岡市吉田 |
分類 | 植物 |
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このヤマモモは、走出の高野山真言宗持宝院にあり、まるで土壁に寄りかかるように南に傾いて伸び、塀の外まで枝を伸ばしています。幹の周囲2.8m、根元周囲約6m、高さ約11m、推定樹齢約300年で、県下有数のヤマモモの巨樹です。
このヤマモモの木を取り込むように塀をこしらえてあることから、塀を作った享保年間(1716~1736)にはすでにある程度の大きさに達していたと推察されています。
時代 | 樹齢300年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成8年7月2日 |
所有者・管理者 | 持宝院 |
所在地 | 笠岡市走出 |
分類 | 植物 |
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延福寺跡 | |
延福寺跡 |
篠坂は笠岡市の北西端部に位置し、井原市と広島県福山市・
時代 | 樹齢250年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成8年7月2日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市篠坂 |
分類 | 植物 |
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このホルトノキは、真鍋島本浦の真鍋家玄関脇にある、幹の周囲2.4m、高さ約15m、推定樹齢約250年の巨樹です。
家伝によると、宝暦年間(1751~1764)に平賀源内が讃岐に苗木を持ち込んだものがやがて真鍋家に伝えられたといいますが、もともと真鍋島に自生していたとする説もあります。いずれにしても県内では珍しい樹木です。
時代 | 樹齢250年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年1月26日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市真鍋島 |
分類 | 植物 |
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幹の周囲2.95m、根元周囲4.1m、高さ約15m、推定樹齢300年以上で、ネズの木としては、県下でも3指に入る巨木に数えられています。
時代 | 樹齢300年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成2年2月26日 |
所有者・管理者 | 笠岡市 |
所在地 | 笠岡市走出字池平 |
分類 | 植物 |
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県道
諏訪神社は、園井に居住している後藤氏の先祖が奉祀したとの伝承がありますが、記録は残っていません。長野県諏訪大社の分霊を祀ったのが始まりとされています。祭神は
時代 | 樹齢400年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和47年5月25日 |
所有者・管理者 | 諏訪神社 |
所在地 | 笠岡市園井 |
分類 | 植物 |
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ひがさき踊り(金光町)【諏訪神社】 |
時代 | 樹齢300年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年10月15日 |
所有者・管理者 | 竹田稲荷神社 |
所在地 | 笠岡市大島中 |
分類 | 植物 |
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笠岡市甲弩、尾坂川右岸にあたる岡田地区の集落の中に、ひときわ大きな落葉樹があります。ちょうど岡田橋の付近から東を見ると、民家の上に覆い被さるように見えるこの巨樹が、浅尾家の敷地内にあるムクノキです。幹の周囲4.6m、根元周囲7.3m、高さ約28m、推定樹齢約400~500年で、地上10mのあたりから二又に分かれています。
家伝によれば、昔、戦に敗れた
時代 | 樹齢400~500年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和43年6月15日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市甲弩 |
分類 | 植物 |
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この枝垂れいちょうは、もともとは高野山真言宗遍照寺の境内に高くそびえていた名木です。現在では、市街地に林立する高層建物に隠れるように、いちょう公園の中に立っています。幹の周囲は3.8m、根元の周囲は5.4m、高さは約25m、推定樹齢は約400年です。
遍照寺は笠岡市の駅前土地区画整理事業により、昭和52年、西の浜の埋立地へと転出しましたが、巨大なイチョウの木は多宝塔とともにそのまま寺跡に残され、保存されています。
時代 | 樹齢400年以上 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年11月1日 |
所有者・管理者 | 遍照寺 |
所在地 | 笠岡市中央町 |
見学に適した時期 | 11月 |
分類 | 植物 |
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遍照寺多宝塔 附石碑 | |
遍照寺 | |
遍照寺多宝塔 附石碑 | |
遍照寺多宝塔 |
真鍋島の北側に、2つの連なった小さな無人島が浮かんでいます。このうち南側の「前大島」の西側中腹、尾根筋から少し下がった急峻な傾斜地にイヌグスの巨樹があります。一見2株にも見えますが、地表下では1株であるといわれています。
北株は幹の周囲6.4m、根元周囲7.0m、高さ15.5m、南株は幹の周囲3.7m、根元周囲4.2m、高さ8.5m。横に大きく枝を広げており、推定樹齢は約400年です。
時代 | 樹齢400年以上 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和32年5月21日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市真鍋島の属島 前大島字スノタヲ |
分類 | 植物 |
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白石島の地質は島全体が花崗岩で構成されており、山肌にも、無数の花崗岩が露出しています。その中の一峰で、標高128m、「
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和17年10月14日 |
所有者・管理者 | 笠岡市 |
所在地 | 笠岡市白石島字持立 |
分類 | 地質鉱物 |
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かつて笠岡湾の周辺には広大な干潟が広がり、多くのカブトガニが生息していたことから、昭和3(1928)年3月24日、金浦町生江浜海岸一帯が天然記念物「かぶとがに蕃殖地」として指定されました。
その後、笠岡湾干拓に伴って指定地の環境が変わったため、昭和46(1971)年6月16日、神島水道が新たに追加指定されました。
笠岡市では、カブトガニ博物館を設置してカブトガニの保護増殖と普及啓発に努めるとともに、幼生の放流、繁殖地の環境整備などを行っています。
指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和46年6月16日 |
所在地 | 笠岡市神島と西大島の間の海域 |
分類 | 動物 |
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カブトガニ博物館 | |
笠岡市立カブトガニ博物館 | |
カブトガニ繁殖地(動画) |
このカゴノキは、樹齢推定340年、高さ約12m、根回り約6.3m、主幹約3.4mの大きさで、
時代 | 樹齢340年 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成28年9月28日 |
所有者・管理者 | 天満神社 |
所在地 | 里庄町里見8544 |
見学に適した時期 | 常時 |
分類 | 植物 |
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アッケシソウは、環境省のレッドデータブックで絶滅危惧種に指定されている海浜植物で、平成15年末に、寄島干拓地で確認されました。本州で唯一自生するアッケシソウを平成16年2月に旧寄島町が天然記念物に指定しました。非常に貴重な天然記念物であることから、現在「浅口市寄島町アッケシソウを守る会」によって、環境整備や生育観察等の保護活動が行なわれています。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成23年10月25日 |
所有者・管理者 | 国・岡山県 |
所在地 | 浅口市寄島町寄島干拓地 |
見学に適した時期 | ①開花時期に見学会を開催、9月中旬の1日 ②紅葉時期にアッケシソウ祭りを開催、10月中旬の10日間程度 |
分類 | 植物 |
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安倉八幡神社参道の石鳥居脇にそびえる巨樹です。樹齢620余年、目通り周囲5.2m、地上根周り9.2m、高さ20mで地上から4mのところで三枝に分かれ、東西20m、南北23mに枝を張っています。1839(天保10)年、この付近は干拓され鳴滝新開と呼ばれるようになりましたが、当時の海岸線を語るものとして貴重な記念物となっています。
時代 | 室町時代 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成23年10月25日 |
所有者・管理者 | 安倉八幡神社 |
所在地 | 浅口市寄島町中安倉 |
分類 | 植物 |
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ゲンジボタルは、日本にだけ生息しているホタルです。
「ゲンジボタル」の生息条件は、
①清流であること ②餌(えさ)となるカワニナがいること ③川岸に幼虫がもぐれる土があることなどです。「ホタルの生息できる場所」は、素晴らしい自然環境が残されているということにもなります。
この日本固有の「ゲンジボタル」の生育条件と自然環境を保護することは、環境教育の重要性が増す中で極めて重要なことであり、現在は、「上竹ホタルを守る会」によって、環境整備や生育観察等の保護活動が行なわれています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成23年10月25日 |
所有者・管理者 | 上竹地区 |
所在地 | 浅口市金光町上竹 |
見学に適した時期 | 5月下旬~6月中旬(※その年の気候による) |
分類 | 動物 |
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このクスノキ(クスノキ科)は、
時代 | 樹齢200年 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 井原市 |
所在地 | 井原市美星町黒忠 |
分類 | 植物 |
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これは、烏頭八幡神社境内を飾る巨木です。社殿に向かって右奥のタブノキ(目通り周囲2.5m、樹高16.6m)、モミ(目通り周囲2.4m、樹高25.5m)、イヌシデ(目通り周囲1.9m、樹高19.5m)の3本で構成されています。さらに、社殿に向かって右側の山腹にタブノキの群生した林があり、県内でも他に類のない貴重なものとなっています。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 烏頭八幡神社 |
所在地 | 井原市美星町烏頭 |
分類 | 植物 |
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このアベマキ(ブナ科)は目通り周囲3.3m、樹高14.5mで古くから地区の人々に親しまれた古木です。アベマキは関東以西に広く分布する落葉広葉樹でクヌギに似ており、この地域の雑木林を構成する主要な樹木です。秋につく果実はドングリの中でも大型のものです。
時代 | 不明 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 上高末荒神社 |
所在地 | 井原市美星町上高末 |
分類 | 植物 |
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瀬戸内海のなかほどに位置する大飛島にある、沖に向かって突き出したような形の細長い砂浜で、学術的にはこれを
この砂嘴は、大飛島の東北端、字「
昭和の初期頃までは中央が高く盛り上がり、長大な姿を見せていた砂嘴も、隣接する大浦港を整備したことによる潮流の変化や海砂採取の影響から、次第に衰退しています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和43年6月15日 |
所在地 | 笠岡市大飛島字洲ノ南の海岸 |
分類 | 地質鉱物 |
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笠岡市立郷土館 |
高梁川東西用水取配水施設は、高梁川の下流に位置する農業用水施設です。小規模な取水施設を統合して、水利用の合理化と施設の大規模化が図られた近代農業用水施設のうち、大正期における最大規模のものとして重要なものです。
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高梁川東西用水取配水施設 | |
用水分水樋門 | |
用水取水桶門 | |
用水配水池 |
旧大原家住宅は、寛政7(1795)年に主屋の建築が着工されました。倉敷町屋の代表的な形式の主屋の後ろにはなまこ壁で仕上げられた蔵が建ち並び、倉敷の町並みの景観を特徴づけています。
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旧大原家住宅 |
江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行った野崎武左衛門の居宅で、低い丘陵を背景に、長屋門・御成門の門建築が配され、その奥に南北に連なる広大な敷地が画されています。
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旧野﨑家住宅 | |
野﨑 武左衛門 | |
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野﨑武左衛門翁旌徳碑ほか | |
野崎家旧宅 |
西爽亭は、天明年間(1781~1789)に建てられたと伝えられ、儒学者の菅茶山(かんちゃざん)に名づけられました。木造平屋建・本瓦葺きの座敷棟・御成門(おなりもん)・茶室・庭園で構成されています。
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荒戸山にある荒戸神社本殿は、室町時代の建築様式を伝える建物で、入母屋造、檜皮葺で向背のない屋根形態は神社の本殿としては全国的に少なく古い形態とされる。
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荒戸神社本殿 |
備中聖人・山田方谷が明治3年、新見市大佐小阪部に隠棲後、明治5年に外祖父母を葬る金剛寺境内に建立した継志祠堂で、外祖父母を祀る持仏堂でもある。
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JR伯備線方谷駅駅舎 | |
方谷橋 | |
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成羽川の支流、布瀬川上流にあり、吉備高原の台地を磐窟川が浸食した高さ100mに及ぶ石灰岩の断崖絶壁を中心とした渓谷である。
矢掛町横谷にある江戸時代の大庄屋屋敷で敷地面積約1400坪をほこる。中でも「主屋」「長屋門」は大庄屋屋敷の構えをよく残している。
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福武家住宅 主屋・長屋門 | |
福武家住宅(主屋・長屋門以外) | |
福武家住宅 主屋・長屋門 |
天平3年、行基菩薩により開基されたと伝えられる。境内には大樹「モッコク」があり、市の天然記念物に指定されている。
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モッコク |
その昔3つの流れ星がこの地に落ち、星の郷と呼ばれるようになったと伝えられる「星尾降神伝説」の残る神社。
明治20年(1887)に完成した石橋。眼鏡のようにアーチが2つ連なり、美しい景観を作り出している。
慶長11年(1606)に建立された県内最古の多宝塔で、内部には極彩色の絵画が描かれている。
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遍照寺多宝塔 附石碑 | |
遍照寺 | |
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「日本の原子物理学の父」と呼ばれる仁科芳雄博士が幼少期過ごした生家。江戸後期の庄屋建築の特徴を残している。
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大正・昭和期の日本の財政学者。政治界でも財政通として活躍し、ビルマ政府の最高顧問として財政再建にあたった。
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浅口市では、江川三郎八が設計した明治期から昭和初期に至る和風及び擬洋風建築の現存建物を見学できる唯一の場所である。
かもがた町家公園の中核となる町家「旧高戸家住宅」は、大和様式と備中様式を併せ持つ建築工法を取り入れた築後300年以上を経た県内最古の江戸初期の町家である。
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大正14年に建設され、当時の姿をとどめたJR伯備線の木造駅舎。平成20年には国登録有形文化財に登録されています。
総社の名前の由来となった神社・総社宮の参道近くに、一際目立つまちかど郷土館。明治43年に総社警察署として建てられ、総社市に唯一残る明治時代の洋風建築です。
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金光教教学研究所は、金光町大谷の国道2号金光隧道南側の木綿崎山丘陵に位置しています。3棟は、昭和5(1930)年に迎賓施設として建設され、渡り廊下を介してつながっており、格調高い面構えです。
客殿は、木造平屋建、入母屋造、銅板葺であります。重い屋根を支えるために木組み(トラス)構造が採用されています。近代の設計手法と伝統木造技術が高度に調和した昭和期和風建築の好例です。
客殿附属舎は、木造平屋建、入母屋造、銅板葺であり、正面に入母屋造の玄関があります。客殿と一体をなす上質なつくりで、客殿の玄関を兼ねています。
洋館は、木造二階建、寄棟造、スレート葺です。西南隅に塔屋を設け、正面に玄関ポーチを配置します。客殿とは相対し、和洋館併設のつくりです。
時代 | 昭和 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成30年11月2日 |
所有者・管理者 | 金光教 |
所在地 | 浅口市金光町大谷 |
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洞松寺は曹洞宗の禅寺で、室町時代初めに喜山性讃という名僧が開山しました。猿掛城主庄氏や毛利氏の帰依をうけ、最盛期には備中国を中心に、1200の末寺を従えた中本山として栄えました。現在の境内には町内最大規模の本堂をはじめ、山門・庫裏、坐禅堂、鐘楼などが今に伝わっています。
矢掛町指定重要文化財の山門以外の建物はすべて、国の登録有形文化財です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成23年7月25日 |
所有者・管理者 | 洞松寺 |
所在地 | 矢掛町横谷3796 |
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町内最大の山門で、天保10(1839)年に再建されました。獅子や獏、渦巻などの美しい装飾が随所に施され、窓や柱の形、貫の構造などに禅宗様式をよく表した重層門です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成13年12月3日 |
所有者・管理者 | 洞松寺 |
所在地 | 矢掛町横谷3796 |
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福武家住宅は約1,400坪(約4、500㎡)の敷地面積をほこり、「主屋」、「長屋門」は江戸時代の大庄屋屋敷の構えをよく残しています。
主屋、長屋門など主要な建物の建築年代は不明ですが、屋敷構えの格式の高さから、大庄屋になった江戸末期頃のものではないかと推測されています。
特に長屋門は小藩の門に匹敵する規模と意匠をもち、続く周囲の土塀には銃眼が設けられており、庭瀬藩板倉家の飛び地として矢掛地方支配の拠点施設だったとの意味も考えられます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成16年3月12日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 矢掛町横谷1809 |
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福武家住宅は安土桃山時代の大名・毛利氏の家臣・對馬守元重を祖とする旧家です。
代々庄屋職をつとめていましたが、天保7(1836)年に大庄屋となり、嘉永2(1849)年に庭瀬藩の徒士小姓になったと伝えられています。町指定文化財となっているのは、湯殿・厠・土蔵・水見櫓・土塀等敷地内の建造物です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年9月19日(平成4.4.1全指定) |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 矢掛町横谷1809 |
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福武家住宅 | |
福武家住宅 主屋・長屋門 |
寺伝によれば、永禄8(1565)年の建立と言われており、当時の建物の特徴を物語っています。堂の一部に改造はあるものの、全体として原型が保存されている数少ない室町時代の建築として貴重なものです。
時代 | 戦国 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和37年3月20日 |
所有者・管理者 | 小田寺 |
所在地 | 矢掛町小田819 |
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脇本陣髙草家は、文化12(1815)年に矢掛村庄屋となり、安政5(1858)年には大庄屋となった旧家で、「大髙草」と呼ばれました。 屋敷は間口約18間(約33m)、敷地面積約530坪(約1,730m²)で、本陣石井家に次ぐ規模となっています。 同じ宿場に本陣と脇本陣が対で現存しており、かつどちらも国の重要文化財に指定されているのは全国で矢掛宿のみです。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年6月20日(昭和57.6.11追加指定) |
所有者・管理者 | (財)矢掛脇本陣高草家住宅保存会 |
所在地 | 矢掛町矢掛1981 |
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矢掛の宿場まつり・大名行列 |
石井家は、江戸時代初期から山陽道矢掛宿の本陣職を務め、宝永5(1708)年以降、代々大庄屋を務めた旧家で、元禄頃から酒造業も営んでいました。
屋敷は旧山陽道に面し、間口約20間(36m)、敷地面積約960坪(約3、164㎡)で、本陣部分の座敷・御成門と石井家の生業であった酒屋部分の主屋・倉などからなり、矢掛宿では最も大きな町家です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和44年6月20日 (昭和58.6.2追加指定) |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 矢掛町矢掛3079 |
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レンガ造りの門柱は、主門とその両脇に付属する脇門の2対4基からなります。 校門の詳細な設置年代は不明ですが、写真で確認できる最も古い記録は昭和4(1929)年であり、それ以前の大正9(1920)年の写真では確認できないため、少なくともその間に設置されたと考えられます。設置から今日まで早島の子どもたちの成長を見守ってきた、当時の早島小学校の歴史を伝える上で貴重な建造物です。
時代 | 大正~昭和 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成28年3月29日 |
所有者・管理者 | 早島町教育委員会 |
所在地 | 早島町早島2180 |
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明治41(1908)年7月に建てられた洋風住宅。清澄家はもと新見藩士でしたが、明治37(1904)年、当主の若原丈次が夫人の郷里である早島町で眼科医を開業しました。のち、長女の万寿子が昭和4(1929)年に帰郷し、歯科医院を開きました。 建物の外壁は下見張りとし前面の景観は左右相称の洋風住宅です。内部の診療部分は純洋風としていますが、住居部分は和洋折衷です。 町内で残る唯一の明治の洋風建築として貴重な建物です。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 町指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成6年11月15日 |
所有者・管理者 | 早島町教育委員会 |
所在地 | 早島町早島344 |
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本門は、神社を守護する門守神を安置している神門で、文化5(1808)年に建立されました。その後、明治26(1893)年9月27日に再建され、入母屋造の枡形天井となっています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 岩倉八幡神社 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
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本門は、その名の通り木造仁王像一対が安置されている楼門です。その仁王像には元禄14(1701)年の銘があり、本門も同様の時期に建立された可能性があります。伝医山四王寺は、弘仁9(818)年平安時代の初め頃、玄賓僧都(734~818)によって開山され、慶長9(1604)年10月に寺領10石を下賜された古刹です。嘉永2(1849)年堂舎が焼失しましたが、仁王門と仁王像一対は難をのがれました。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 四王寺 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
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本堂は、曹洞宗観音寺の末寺として文久4(1864)年に建立したもので、二間四面の建物です。本尊の石造薬師如来座像は、文久3(1863)年に安置されたもので、像の背面に「目のかすみやがて晴行位□山これこそ日本一はたの寺」と刻まれており、殊に眼病平癒を祈る仏とされています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和54年5月16日 |
所有者・管理者 | 地区総持 |
所在地 | 新見市哲西町大野部 |
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本殿は、大同3(808)年に造営され、江戸時代末期に再建されたものです。社殿は本殿・拝殿の二棟で、本殿は三方千鳥破風造りで、蟇股内に十二支を彫刻し、色鮮やかな鶴を配しています。広大な社叢は県下でも屈指のものであり、鳥居から拝殿へ通じる参道200mには巨木杉並木が約300本を数え、100有余本は樹齢数百年を越えています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和39年8月30日 |
所有者・管理者 | 大佐神社 |
所在地 | 新見市大佐小阪部2085 |
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本門は、備中松山藩4代藩主の水谷勝宗の弟勝能小阪部陣屋の門です。明治時代の廃藩置県に際し、水谷家代々の菩提寺である本寺に移して、山門に替えたものです。またこの門は刑部大明神を天守閣に祀る姫路城城門と同形式です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和43年12月7日 |
所有者・管理者 | 圓通寺 |
所在地 | 新見市大佐永富358 |
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本堂の創建年代は定かではありませんが、飛騨工匠作と伝えられています。寛文3(1663)年、備中松山藩4代藩主の水谷勝宗(1623~1689)が三間四面の堂宇として再建したとされています。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 祥光寺 |
所在地 | 新見市哲西町矢田(祥光寺) |
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本堂は、寄棟造、茅葺で、桁行三間、梁間三間の三間堂です。柱は大きく面を取った角柱に舟肘木を乗せるだけの簡素な中世風の外観です。青龍寺は、真言宗醍醐派の古刹です。大同年間(806~810)、唐から帰朝した空海が諸国巡錫の折り、この地に足を留め、その山容と風光がかつて修業した長安の黒髪山東塔青龍寺に似ているとして、伽藍を建立し、真言密教の霊場としたのが本寺と伝えられています。その後、天正3(1575)年、毛利と三村の争乱で焼失し、万治年間(1658~1660)、備中松山藩3代藩主の水谷勝隆(1597~1664)が旧のままに復元したのが現在の堂です。
指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和44年9月25日 |
所有者・管理者 | 青龍寺 |
所在地 | 新見市新見2370 |
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本殿は、平入、三間社で入母屋造、檜皮葺です。入母屋造、檜皮葺で向拝のない屋根形態は神社の本殿としては全国的に少なく古い形態とされています。また基壇を作らず、石敷とした床下の工法は古式のものです。
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 昭和62年4月3日 |
所有者・管理者 | 荒戸神社 |
所在地 | 新見市哲多町田淵917 |
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本堂は、永禄2(1559)年、呰部丸山城主の庄兵部大輔勝資が本寺の荒廃を嘆いて再建したといわれています。さらに、慶長9(1604)年備中代官の小堀政一(遠州[1579~1647])が寺領10石を寄進して保護しました。ただし、建築様式から見ると、再建年代は17世紀中頃と考えられます。本堂は、密教本堂の平面を保っており、桁行五間・梁間四間、入母屋造、茅葺です。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和34年1月13日 |
所有者・管理者 | 三尾寺 |
所在地 | 新見市豊永赤馬 |
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JR伯備線は、昭和3(1928)年に全線が開通し、方谷駅も同時に建設されました。方谷駅駅舎は、シンプルな木造平屋構造であり、切妻型の方形プランである主屋を、片流れのプラットホーム屋根と切妻型の車寄が両側から挟みこみ、機能に対応した構造形式を呈しています。車寄が特徴的であり、切妻屋根は意図的に太く見えるようにデザインされたL字型のモルタル柱で支えられ、象徴的な門型による威厳のある「駅の顔」を表現しています。このモルタル柱は、表面を洗い出しで仕上げ、装飾を施すなど、車寄の建築に重きを置いていたことが想像できます。
駅名は中井町出身である山田方谷の名前からと言われていますが、当時は駅名に人名が採用されることはなく、地元の方々が「中井町西方の谷に位置する」という理由で「方谷駅」が良いという説明のもと、「方谷駅」が採用されたとの逸話も残されています。人名のついた駅としては初期のものにあたります。
時代 | 昭和 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和51年3月9日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市中井町西方9194-1 |
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山田方谷 | |
伯備線足見陸梁 | |
方谷庵 | |
方谷橋 | |
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西江家は、鎌倉時代は北面の武士(朝廷の護衛)をし、応仁の乱後京都から高梁市成羽町坂本に居住し、山城を守る武士となりました。戦国時代より毛利家の配下となり、関ヶ原の合戦後、帰農し幕領地における郡中惣代庄屋となります。居宅は代官御用所を兼ねたため、郷蔵・白州跡・式台・駅場舎・手習い場など役宅部分が現存しています。創建は宝永・正徳年間1704年頃といわれ、現在も当時と変わらない堅牢なつくりです。西江家6代目が島根県から一流の石州大工と石州瓦職人たちを結集し、20年かけて創りあげた建造物です。3段構えの石垣はまさしく城郭の構えです。西江家15代目が木道楽であったため、裏座敷は明治に建て替えられました。部材にこだわり、桜・欅・松・檜・黒柿・紅葉など高級木材を使い、ベンガラスス塗りを施しています。江戸時代における産業、人、文化など庶民の営みとともに幕府代官御用所としての歴史を今日に伝える大変貴重な歴史的建造物です。
また、正保4(1647)年西江家3代目がベンガラ製造に着手し、寛延3(1750)年には量産化に成功し、産業化させました。ベンガラは大名間の贈答品である伊万里や九谷などの上絵付け用顔料、漆器・塗料など汎用性のある赤色顔料として使用されました。パリの万博にも出展し、200年間、愛され続けた一流ブランドです。昭和46年に安価なベンガラにおされ、ベンガラ製造は途絶えました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成15年12月1日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市成羽町坂本1604 |
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「三間社流造」ですが、前一間が吹き通しとなっていて、流造形式の基本的な形式となっています。本殿周りに縁を設け、後ろを脇障子で隔てており、穴門山神社本殿に比べ、仏教建築に近い様式です。彫刻は派手で、江戸時代の様式が感じられます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和63年2月22日 |
所有者・管理者 | 領家惣社八幡神社 |
所在地 | 高梁市川上町領家2039 |
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この建物は、江戸時代の成羽藩勘定所で、山崎氏時代の中央役所の面影を伝えており、鬼瓦には山崎氏の家紋である「緋扇之内ニ四ツ目結」が見られ、昔の姿をよく留めています。勘定所は、年貢蔵米管理をはじめ、成羽領財政を支えた高瀬舟運行と運上金管理、領地の約7割を占める山林資源の経営管理、さらには連島や大坂中之島の飛び領支配などを所管しており、成羽領政の心臓部となる重要な役所でした。
享保15(1730)年の一匁銀札をはじめ、成羽領の古札もたくさん残っており、多量の藩札を印刷発行して幕末維新の財政難に対処した事を記録した村方文書も残っています。重層の頑丈な土壁で囲い、天井の上にのせた瓦葺きの大屋根など周到な耐火盗防災構造をもった建物で、成羽領政の史跡とともに、江戸時代の建造物として貴重です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年1月31日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 高梁市成羽町下原986 |
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広兼氏は、大野呂の庄屋で、同家2代元治の享和、文化の頃(1801~1818)小泉銅山とローハ製造(ベンガラ)を営み巨大な富を築きました。江戸時代末期に建てられた楼門づくりの城郭にまがうばかりの石垣は、当時の富豪を偲ばせています。
二階建の主屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣は文化7(1810)年の建築で、規模・構造とも雄大な城郭を思わせる構えです。離れは、大正の建築で、お茶室、化粧部屋、客間、風呂等を備えたお座敷であり、当主の結婚式に一度使用しただけで以後は使用されていないとのことです。
旧広兼家住宅の正面の尾根上に位置する天広神社は、広兼氏個人の神社として祀られていたものです。社務所もあり、境内には花木が植えられ、池・築山がつくられ、形の変わった石灯籠が数基置かれ、狛犬もあり、全体的には庭園風となっており衆楽園と呼ばれています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和59年11月15日 |
所有者・管理者 | 岡山県 |
所在地 | 高梁市成羽町中野2710 |
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鈴岳神社本殿の後ろの小高い所に三浦神社の社殿が建っています。八幡畝にあった八幡神社の社殿を、神社統合をした明治時代末に、現在地に移して三浦十二天を祀っています。
社殿は、八幡神社の由緒記によると貞享2(1685)年の再建とされ、桁行三間、梁間二間の三間社流造で、江戸時代初期の華麗な建築様式を随所に残しています。建物の意匠は美しく、虹梁の彫刻や懸魚、木鼻等に優れた技法が見られ、特に蟇股はその機能に適応した素晴らしい作りで、時代の特徴をよく示しています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和60年8月29日 |
所有者・管理者 | 鈴岳神社 |
所在地 | 高梁市有漢町有漢2958 |
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薬師院の入口にある仁王門は、江戸時代中期の建立とされ、伽藍の西端に位置する二層門です。
初層は門の両脇に阿形・吽形の仁王が立ち、二層には五大明王(不動・隆三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)が、山門ならびに境内の聖域を守護しています。
近年部分修理を実施したところ、寛文4(1664)年刻銘の瓦が確認されました。江戸時代の建築様式を良好にとどめた建築です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成16年7月20日 |
所有者・管理者 | 薬師院 |
所在地 | 高梁市上谷町4100 |
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薬師院本堂 | |
薬師院本堂 |
石火矢町にある武家屋敷で、江戸時代中期から後期にかけて、120~150石取りで、近習役や番頭役を務めた武士の住宅です。江戸時代後期の建築で、平屋建、西向きの正面の屋根は流れ向拝、南北の破風は入母屋造掛瓦の箕甲葺き、三ツ花懸魚を取り付けており、寺院を思わせる屋根です。玄関には幅2間の式台を設け、玄関の間は数寄屋風に朱色とし、正面には1間半の棚を設けています。式台上部には袖切をした水引紅梁に若葉を施し、蟇股には梅鉢の家紋を彫刻しています。内部は本床造り、海老束で支えた違い棚に天袋、禅宗風の花頭窓、柱はぜいたくな面皮柱など、数寄屋造の面影を残しています。
旧埴原家は板倉勝政の生母の実家であるため、備中松山の城下町の武家屋敷としては、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りとなっています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成15年7月25日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市石火矢町27 |
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明治37(1904)年、男子尋常高等小学校の本館として建築されました。木造二階建、総建坪613.8㎡で、施工者は地元大工の妹尾友太郎です。用材は臥牛山国有林のモミの大木を使用しています。無節で柾目の良材を入念に施工してあり、現在もほとんど狂いがありません。1階は職員室・生徒控室などがあり、2階の講堂は、豪壮な二重折上格天井になっており、明治の代表的な学校建築です。
小学校の移転ののちに、郷土資料館に転用され、高梁市内の民具など多数の資料を展示しています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和48年6月20日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市向町21 |
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臥牛亭は、備中松山藩主板倉勝静が御根小屋の一隅に建てた小亭(12.4㎡)です。勝静は、農耕の神を祀って五穀豊穣を祈り、時には自ら畑を耕して農民の労苦を偲び、眼下に広がる城下の町並みを眺めて、領民に思いを馳せたと伝えられています。明治6(1873)年の廃城令により、旧藩時代の建造物は全て撤去されるなか、山田方谷の計らいでこの亭は、対岸の蓮華寺境内に移築されました。旧主勝静を敬慕して、長くその遺徳を偲ぶものとして移築したとその碑銘にあります。
後年、崖崩れにより亭が傾いたので、八重籬神社境内に再度移築され、今日に至っています。平成22(2010)年に保存修理を行いました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和33年2月24日 |
所有者・管理者 | 八重籬神社 |
所在地 | 高梁市内山下120 |
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板倉勝静 | |
山田方谷 |
随神門は、寺院の仁王門にあたる邪悪なものが神様のいる聖域に入らないようにとの意味で建てられた門です。
穴門山神社の随神門は、正面から柱の間が三つに区切られ、そのうち中央の一つが通路となっている三間一戸の門となっています。
控柱が八本からなる八脚門様式と呼ばれる「三間一戸の八脚門」です。
現在の建物は、慶応4(1868)年に再建され、明治25(1892)年、大正10(1921)年、昭和48(1973)年と頻繁に屋根が葺き替えられています。
門の左右には随神(身)像が安置されています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和52年3月4日 |
所有者・管理者 | 穴門山神社 |
所在地 | 高梁市川上町高山市1035 |
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穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山の社叢 |
本門は、切妻造の妻の部分が進行方向(出入口と平行)にあり、妻は唐破風となっていて「向唐門」形式になっています。
正面一面、側面一面で、屋根は銅板葺に改められています。元禄12(1699)年の建立と伝えられていますが、現在の門は天保11(1840)年の再建によるもので、大正14(1925)年には屋根の葺き替えが行われています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和52年3月4日 |
所有者・管理者 | 穴門山神社 |
所在地 | 高梁市川上町高山市1035 |
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穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社随神門 | |
穴門山の社叢 | |
穴門山神社本殿・拝殿 附棟札 | |
穴門山神社随神門 |
穴門山神社は、平安時代前期の「延喜式神明帳」に記されているように、古代から多くの人々の信仰を集めていた神社です。
現在の建物は寛永9(1632)年に焼失した後、寛永14(1637)年に備中松山藩主池田出雲守長常が本殿・拝殿を再建し、その後宝暦3(1753)年に改修されたことが棟札から判明しています。また、境内には、水谷勝宗が大鳥居・石灯籠などを寄進したものが残されています。
本殿は、流造の屋根に唐破風の向拝で、それを支える向拝柱は4本で三間社流造となっており、本殿と幣殿、拝殿とを一つの屋根で結んでいます。軒回りや妻は彫刻装飾で飾られており、本殿破風の切妻部はかぶら懸魚で飾られています。桃山時代の建築様式を取り入れた装飾性の強い寺社建築です。
拝殿は、入母屋造で、正面は流れ向拝となっており、唐破風向拝柱は4本で三間社となっています。軒回りや妻の部分には、蛇腹支輪と蟇股を連ねた彫刻装飾が施されています。
拝殿の天井裏には棟札が残されていました。寛永14(1637)年、備中松山藩主池田出雲守長常が拝殿を再建するにあたり、大施主として寄進したことを証明する棟札など、6枚の棟札が指定されています。穴門山神社の建物の修理歴などを知ることができる貴重な資料です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成7年4月8日 |
所有者・管理者 | 穴門山神社 |
所在地 | 高梁市川上町高山市1035 |
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穴門山神社随神門 | |
穴門山神社本門 | |
穴門山神社随神門 | |
穴門山の社叢 |
旧吹屋小学校は、吉岡銅山とベンガラ生産が隆盛を極めた時期にあたる明治31(1898)年に三菱商会から本部敷地の寄附を受け、明治33(1900)年に東校舎・西校舎および東廊下・西廊下、明治42(1909)年に本館が完成しました。
校舎は中央の本館の両側に東校舎、西校舎を左右対称に配置しており、旧吹屋小学校の大きな特徴として、本館二階にある講堂の二重折上棹縁天井や正面演壇をはじめとした内部意匠、各校舎の天井裏に造作されたトラス構造を挙げることができます。天井には棹縁という和風の要素が用いられているが、全体としてはトラス構造を用いるなど、洋風の意匠を意図して建築されたことをうかがい知ることができます。こうした特徴は、本館の建築当時、岡山県の技術者であった江川三郎八による「江川式」と呼ばれるものに類似しており、江川三郎八によって設計されたと推測されています。
旧吹屋小学校は、明治33年の尋常高等小学校の開校以来、子どもたちの日々の生活を見守り続け、現役最古の木造校舎として使用されてきましたが、平成24(2012)年3月末をもって閉校しました。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成15年3月11日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋1290-1 |
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吹屋小学校 | |
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松連寺は、弘仁3(812)年の開山で、最初は奥灘の地(奥万田)にありました。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、総督に任命された岡山城主宇喜多秀家は、出陣の時、松連寺の住職宥海法印と十一面観音像を座船に招いて従軍させ、祈願させました。帰国後、宇喜多は釜山浦での大勝利を賞し、観音堂を建立させました。その観音堂に座船の天井と扉を数枚用い、寺領百石などを寄進しました。松連寺は、のちの備中松山藩主水谷勝隆の命により、現在地に移りました。そのとき、観音堂の格天井の格間64枚(船天井)を本堂に移築しました。格間に金箔を押し、57枚は太閤桐が描かれており、精巧で豪華な桃山の遺風を感じさせます。
船戸は、長さ155㎝、幅77㎝、欅造りで客殿と観音堂の間の扉として使用されています。
時代 | 戦国 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和34年3月27日 |
所有者・管理者 | 松連寺 |
所在地 | 高梁市上谷町4102 |
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瑠璃山薬師院泰立寺は寛和年中(985年頃)の創建で、真言宗善通寺派。本尊は薬師瑠璃光如来です。
薬師院本堂は、間口、奥行きともに3間の単層入母屋、向拝造りです。棟札に元和10(1624)年とあり、江戸時代初期の建築ですが、随所に雄大豪華な桃山時代の建築様式がうかがわれます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和34年3月27日 |
所有者・管理者 | 薬師院 |
所在地 | 高梁市上谷町4100 |
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「近世ベンガラ商家の典型」として国の重要文化財に指定されている旧片山家住宅ですが、玄米蔵・弁柄箱・道具蔵は市の重要文化財に指定されています。
玄米蔵は、食糧の保管貯蔵庫で、海鼠壁を塗り込め、美観と防災を兼ね備えた魅力的な土蔵です。この区域一帯の海鼠壁にある「隠し釘」の「錺金」は棟ごと、場所ごとにデザインが多種多様に作られています。
弁柄箱は本来、弁柄を詰める木箱(弁柄箱や運搬箱)を保管するための倉庫として造られたものですが、町工場の仕事が拡大するにつれ、弁柄箱の作成、弁柄工場から送られた弁柄粉を篩分ける作業など、弁柄箱にかかわる多様な仕事を行う場所でした。
道具蔵は、日常生活に使われた家具什器類をはじめ、正月行事用具、神事や祭礼の行事用道具など、当時の弁柄窯元の豪華ながら庶民的な生活をしのばせるものが多く収納されていました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年7月25日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋367 |
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旧片山家住宅は、伝統的建造物群保存地区である吹屋の中町に位置しています。中町は、町並みの中心部で最も広壮な構えを誇っており、ベンガラ窯元の本家、分家、問屋、薬屋、料理旅籠屋などが軒を連ねています。中でも旧片山家住宅は、宝暦9(1759)年の創業以来、200年余りにわたって、ベンガラ製造と販売を手がけた老舗です。その家屋は、ベンガラ屋としての店構えを残す主屋とともにベンガラ製造に関わる付属屋が敷地内に立ち並んでおり、「近世ベンガラ商家の典型」として評価され、平成18(2006)年に国の重要文化財に指定されました。
通りに面した主屋は、一階に弁柄格子、二階に海鼠壁と虫籠窓といった伝統的な意匠に加え、両開きの大戸や腰壁などに近代的な装いが見られます。塩田瓦で葺かれた屋根は、江戸時代後期から明治時代後期にかけて家業の隆盛に伴って増築を繰り返した結果、階段のように棟の高さが変化しています。内部は、通りに面した表を営業の場にあて、その奥は土間に大きな竈を築くなどして生活の場に用いられました。また、庭に面して建つ座敷は、石見(島根県西部)から招いた大工に銘木をふんだんに用いて建てさせた非常にぜいたくなつくりとなっています。国の重要文化財に指定されているのは、主屋、宝蔵、弁柄蔵、米蔵、仕事場及び部屋の5 棟です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年12月19日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市成羽町成羽あ367 |
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旧片山家住宅 |
有漢町上組大石地区の保月にある石幢は、市道脇の山際にあり、石塔婆は約150m 下った道脇に立っています。
石幢は、花崗岩の六角柱の上に六角の笠石と五輪塔を重ねた珍しい石造物です。本来は笠石の上に請花と宝珠がのりますが、五輪が流用されています。総高は264 ㎝で、正六角柱の径約50 ㎝、一辺25 ㎝前後で、上部がやや細くなっています。
第一面に7 つの仏が彫られ、造立の趣旨があり、各面に仏と銘文が刻まれています。初七日より十三年忌までの十二尊像を彫り、仏道修業の道標とするとの趣旨で、室町時代以後の十三仏信仰への過渡期を示す貴重な資料として注目されています。第六面に「願主沙彌西信結義西阿 嘉元四年十月廿四日 大工井野行恒 敬白」(1306)とあります。
石塔婆は釈迦、阿弥陀、地蔵の三尊が刻まれているので、三尊板碑とも呼ばれています。高さ314 ㎝、幅43 ㎝、厚さ30 ㎝という大きな花崗岩製の板碑です。三尊の下部に「心王念法不可破壊 嘉元三季乙巳十一月十三日 結衆二十八人敬白 大願主 漆 真時 大工 井野行恒」(1305)と彫られています。
時代 | 鎌倉 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和36年3月23日 |
所有者・管理者 | 臍帯寺 |
所在地 | 高梁市有漢町上有漢9167 |
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笠神の文字岩 |
備中松山城の建造物としては、天守、二重櫓と三の平櫓東土塀が現存しており、重要文化財に指定されています。天和元(1681)年に藩主水谷勝宗が修築に着手し、同3(1683)年に完成しました。建物は塗込土蔵造のいわゆる近世式城郭建築に改められましたが、城地は元弘元年(1331)に備中守護職高橋九郎左衛門が初めて築城した小松山城の縄 張をほとんどそのまま用いています。
古文書によると、天守は三重櫓と呼ばれており、外観は三重ですが、実際には二階建です。一階には囲炉裏があり、装束の間という城主だけが入る一段高い部屋があります。二階の正面には御社檀を設けて三振の宝剣(県指定重要文化財)を御神体として祀っていました。本来の構造は八の平櫓から廊下を通って入る連結式でしたが、昭和15(1940)年の大修理の際に、荒廃がひどく原型の復帰が困難なため、やむなく切離したもので、昔の姿とはやや異なっています。
二重櫓は、天守の北側に配置されており、天守とともに本丸を構成する重要な建築物です。昭和3(1928)年に有志の拠金によって修理、昭和34(1959)年の国による解体修理で完全に復原しました。
三の平櫓東土塀は、土を練って造った土の塊を積み重ね、白壁仕上げにしたものです。
なお、備中松山城は、天守の現存する山城としては全国で唯一のものです。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和16年5月8日 |
所有者・管理者 | 文部科学省 |
所在地 | 高梁市内山下1 |
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備中松山城御根小屋跡 |
現在の国分寺は、奈良時代に建てられ中世に廃寺となった備中国分寺を再建しようと、清水山惣持院住職増鉄和尚が、領主蒔田氏から再興の許可と国分寺の跡地を賜り、江戸時代・享保2(1717)年から19 年の歳月を費やして建立したものです。建設に費やした費用は、銀360 貫目、金に換算すると5,000~6,000 両にのぼったといわれています。領主蒔田氏の援助が大きかったためか、武家的な書院造風の簡素な建物となっています。
※庫裏 寺院の台所にあたる建物、あるいは住職および家族の住むところ。入母屋造りの二階建、本瓦葺となっています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和49年5月31日 |
所有者・管理者 | 国分寺 |
所在地 | 総社市上林 |
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備中国分寺 | |
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備中国分寺五重塔 |
日照山国分寺は、奈良時代に創建された備中国分寺の再建を目指した増鉄和尚により、江戸時代・享保2(1717)年から19 年の歳月を費やして建立されたものです。
吉備路のシンボルともいうべき五重塔は、国分寺の再興からおよそ100 年後の文政4(1821)年ごろより、証旭和尚によって建立が図られました。工事が完了したのは、天保14(1843) 年か弘化元(1844)年のことといわれています。県内唯一の五重塔で、初重から三重までがケヤキ材を、四重以上がマツ材を主に使用しています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和55年12月18日 |
所有者・管理者 | 国分寺 |
所在地 | 総社市上林 |
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宝福寺は、天台宗の寺として創建されましたが、鎌倉時代の中ごろに、臨済宗に改宗され、有力な禅宗寺院として栄えました。現在も禅の修行や、秋の紅葉の名所として、多くの人々が訪れています。
境内にある三重塔は、南北朝時代の永和2(1376)年に建てられたもので、県下では、弘安8(1285)年に建てられた美作市の長福寺の塔に次いで2 番目に古い塔です。宝福寺の中でも 、戦国時代の戦火を免れ残っている唯一の建物です。本瓦葺、丹塗りの三重塔で、各重のバランスも良い名塔です。
宝福寺には、総社市赤浜で生まれたとされる画聖雪舟が子供のころ修行をし、涙でネズミの絵を描いたという逸話があります。雪舟はこの三重塔を日々眺め、塔内にも足を踏み入れていたと思われます。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和2年4月25日 |
所有者・管理者 | 宝福寺 |
所在地 | 総社市井尻野 |
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宝福寺 |
梅荘は、塩田王として有名な野﨑武左衛門の孫である武吉郎が、日露戦勝記念として建てた別荘です。当初は野﨑家の海水浴用の休憩所として計画されました。本館を中心に北側に別館、西側に離れ、東側に女中部屋及び台所、北東側に蔵が配置されています。別館は明治初期頃の建物を移築したものと伝えられていますが、その他は明治40(1907)年にできたと考えられます。
京都から大工を呼び、煎茶に通じた文人画家であり築庭家であった久我小年が監督し2年余りをかけて完成したといわれています。庭に梅の木が多くあったことから「梅荘」と呼ばれました。現在は所有者が変わり、本館は飲食店として利用されています。
建築当時、文化人や地域の名士などを中心に煎茶の文化が発達していましたが、煎茶室をもつ本館や煎茶趣味の離れは近代における座敷の発達の特徴を示し、貴重なものとなっています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成27年 3月26日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市児島通生1200 |
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20世紀初頭、倉敷でも繊維産業が急速に発展し、女性労働者が増えるにつれて育児環境や子どもの発達への影響が悪化し始めます。このような社会問題を解決するために、倉敷さつき会が先頭に立ち、大原孫三郎や倉敷紡績からの援助も受けながら、大正14(1925)年に「若竹の園」保育園がつくられました。
園舎の設計は、教育者・建築家・芸術家として著名な西村伊作が行いました。西村は設計にあたり、バンガロー様式を採用して、小さな棟を複数配置する図面を描きました。結果、森の中に立ち、庭に小川の流れる「おとぎの国」の夢のお城のような園舎になり、数回の増改築を経ても核となる当初の部分がよく残っています。
西村は、与謝野鉄幹・晶子らとの交流を深める中で「文化学院」を創設し、文部省令に縛られない自由な教育を実践しました。倉敷文化協会に招かれて「文化生活の実行」と題する講演を行ったことがきっかけで、倉敷との縁が生まれます。そして、倉敷教会や祐安の洋館群も手がけることになりました。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成21年 4月28日 |
所有者・管理者 | 財団法人若竹の園 |
所在地 | 倉敷市中央1丁目6-12 |
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大原孫三郎 | |
倉敷の礎を築いた 大原孫三郎 | |
倉敷紡績記念館 | |
倉紡記念館 |
明治39(1906)年に設立されて誓願寺向かいの民家を借りて会堂にしていた倉敷教会が、明治44(1911)年の今橋北西・惣堂社の跡地に建設した会堂を経て、大正12(1923)年に新築・移転した教会の建物です。
木造一部コンクリート造(木骨コンクリート造)三階建、カラーベスト葺で、建築当時の様相を極めて良好に残しています。
設計者は、東京・神田に文化学院を創設した教育者であり、建築家・芸術家としての一面も有する西村伊作です。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成21年 1月 8日 |
所有者・管理者 | 日本基督教団倉敷教会 |
所在地 | 倉敷市鶴形1丁目5-15 |
校地のほぼ中央に建つ武道場で、南北は約28m、東西は約11mあります。 木造平屋建て、入母屋造り瓦葺きで、東向きの正面には、切妻造り玄関と千鳥破風が設けられています。 現在も柔道場・剣道場として使用されていますが、保存の状態が良い、現役の近代和風の学校建築物です。
時代 | 昭和 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成19年10月2日 |
所有者・管理者 | 岡山県 |
所在地 | 倉敷市藤戸町天城269 |
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明治期の貴族院議員・野崎武吉郎(1848~1925)が、塩田王と呼ばれた祖父・武左衛門(1789~1864)のために建てたオベリスク型(方尖塔)の記念碑です。約8m四方の基壇の上に上下2組の台座を設置し、その上に長さ約12mの塔を立ち上げたもので、児島沖の六口島産の花崗岩を使用しています。
日本でも珍しい古代エジプト趣味の建造物で、フランス留学経験のある土木技師・山田寅吉が設計しました。県指定史跡「野崎家旧宅」の南西約400mに位置する約1000平方メートルの小庭園内にあります。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成16年6月9日 |
所有者・管理者 | (公財)竜王会館 |
所在地 | 倉敷市児島味野 |
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この旧倉敷天文台スライディングルーフ観測室は、大正15(1926)年に原澄治(倉敷市名誉市民)の資力と京都帝国大学教授山本一清の支援により、日本最初の民間天文台として建てられたもので、内部には当時、我が国では最大級となる英国ホルランド社製の口径32cmの天体望遠鏡(倉敷市指定重要文化財)が設置され、広く一般に開放されてきました。
また、長年倉敷天文台長を務められ、生涯に彗星12個、新星11個を発見した世界的な天文家・本田實(倉敷市名誉市民)も、この観測室で星の観測を行いました。
観測室の規模は、東西4.4m、南北5.3mで、1.1mのレンガ造りの基礎の上に、桁高2.2mの木造下見張りの軸部が乗っています。屋根は切妻、鉄板張りで、室内の歯車のついたハンドルを回転させることにより、屋根が破風の角度に沿って東西方向に滑り降りるように開くという非常に珍しい構造をもっており、科学史上においても貴重な建物であることから、平成13(2001)年8月28日に国の登録有形文化財に登録されました。
倉敷市では、本田實生誕100年となる平成25(2013)年に、この観測室を公益財団法人倉敷天文台から譲り受け、創立当時に近い姿で、それまであった中央二丁目19-10から、ライフパーク倉敷に移築・復元を行いました。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成13年8月28日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市福田町古新田940 |
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本田實 | |
旧倉敷天文台スライディングルーフ観測室 | |
原澄治・本田實記念館 |
非常に精巧な花莚「錦莞莚」の発明で知られる磯崎眠亀(1834~1908)の住宅兼作業場として、明治7(1874)年に建築されたものです。保存・修理を経て昭和63(1988)年に「倉敷市立磯崎眠亀記念館」として開館されました。
基本的には、通り土間を持つ二列型の町屋の平面をしていますが、機能・意匠の両面において発明家らしい眠亀のアイデアが随所に見られます。
最大の特徴は、建物の昇り降り用に、階段でなくスロープを配置した点にあります。これは、物資の搬入・搬出を素早く、そして楽に行おうとするものです。また、土間の吹き抜け部分には滑車が設けられ、ここから物資を出入することも可能なように工夫されています。他にも、式台形式の玄関の戸は、菱形の桟が入り、回転と横滑りによって開閉する珍しい形式です。二階の窓には、外に向けて突き出す独特の雨戸がつけられています。
平成12(2000)年11月6日、国の文化財登録原簿に登録され、登録有形文化財になりました。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成12年10月18日 |
所有者・管理者 | 倉敷市教育委員会 |
所在地 | 倉敷市茶屋町195 |
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木造平屋建ての洋風建築の建物で、中央部分と、そこから東西に延びる両翼部分から成る建物です。
中央部分には正面に玄関、その奥に八角形の展示室(旧遊戯室)があります。両翼部分は北側に開放廊下が通り、南面に収蔵室・作業室(いずれも旧保育室)が配置されています。
この建物の最大の特徴は、玄関を入ってその奥にある八角形の平面をした展示室に表れています。内部に支柱を使わず広い空間を確保することは、当時としては斬新な試みであり、幼児教育実践の場としての機能性を満たしたことは、高く評価されています。また、こうした様式をとどめる園舎は、この建物が現存する唯一のものといわれており、建築様式からも特徴あるものになっています。
内部の意匠について、天井は中央部が折り上げになった花弁状になっています。そこから八角形の平面の形に沿って放射状に大きく八分割され、さらにそれぞれが二つに分けられています。これらに巧みに板が張られていることも含め、非常に特色のあるものになっています。
この他にも、中央部分の屋根が、日本瓦葺きの屋根の頂部に金属板葺きの屋根が乗る二段構成になっている点や、正面南面に三角形の屋根が付いていたり、背面北側は屋根が放射状に広がっていたりするなど、変化に富んだ屋根構造をしている点も、この建物の大きな特徴の一つになっています。
外壁は下から縦板張り、横板張り、白漆喰塗の構成で、しっかりとした分節がなされ、引き締まった意匠になっています。また、正面玄関や開放廊下にアーチが用いられることによって、園舎としての柔らかみが醸し出されています。さらに、正面玄関の上には、巾着をかたどったユニークな棟飾りや桜の花の文様が置かれるなど、園舎として子どもたちに親しまれるような工夫も凝らされています。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成12年10月18日 |
所有者・管理者 | 倉敷市教育委員会 |
所在地 | 倉敷市西中新田669 |
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旧主屋に付属する座敷棟で、木造平屋建・本瓦葺きの建物です。天明年間(1781~1789)に建てられたと伝えられ、備後国神辺(現在の広島県福山市神辺町)出身の儒学者である菅茶山によって「西爽亭」と名付けられました。
西爽亭を構成する座敷棟・御成門・茶室および庭園の中で、建築上特に優れているのが、御成門と座敷棟にある式台玄関です。通りに面する御成門は、本瓦葺きの薬医門形式で、屋根の四隅に意匠の凝った鬼瓦を乗せています。式台玄関は幅が2間あり、入母屋の屋根で、凸型に緩やかに傾斜したむくりのある唐破風様の妻飾がついています。
式台玄関を入ると、「取次の間」「次の間」「上の間」と続きます。「次の間」「上の間」は、内部の仕上げこそ格別華美というわけではありませんが、天井が比較的高く、ゆったりとした数寄屋風の書院になっています。さらに奥へ進むと湯殿・小便所・大便所・手洗いが配置されており、江戸時代の上級武士の生活の様子がうかがわれます。
屋敷地の南に建つ茶室は、台目3畳と中板からなる特異な平面をもつ部分と、庭の傾斜した部分に懸造状に建てられた台目二畳の煎茶席で構成されており、美しい意匠をとどめています。
このような建築物群は、豊富な庭園の石組みと相まって、築造された天明期の風趣を漂わせています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成12年10月18日 |
所有者・管理者 | 倉敷市教育委員会 |
所在地 | 倉敷市玉島3丁目8-25 |
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児島の塩田王・野崎武左衛門の孫、野崎武吉郎は明治23(1890)年から3期16年にわたって貴族院議員をつとめ、中央知名人としばしば交友を深めていました。この頃、味野には児島郡役所があり、人々が多く行き交っていました。中央知名人の迎賓館的施設として、また、往来する人々の接待や宿泊、集会の場として建造されたのが、この建物です。この建築事業には、日清戦争後の失業対策という意味も兼ねられていました。
主屋は入母屋造の式台玄関を構え、百畳敷の大広間を有する大規模で複雑な建築です。なまこ壁の土蔵は宴会用の備品類を収納した道具蔵で、居宅は屋敷地の維持管理人の住宅です。車寄と車夫詰所は当時の地方の交通事情の一端を伺い知る貴重な建物です。
敷地内にある2つの茶室は、野﨑武吉郎の還暦記念に建てられたもので、外葭葺きで田舎屋風に仕立てられています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成12年4月28日 |
所有者・管理者 | ナイカイ塩業株式会社 |
所在地 | 倉敷市児島味野1-8-3 |
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第一合同銀行の倉敷支店として、大正11(1922)年に竣工したルネサンス風の建物です。総社市出身の薬師寺主計が設計しました。彼は大原美術館や有隣荘など、大原家関連の建物の多くに関わった建築家です。
鉄筋コンクリート造り(一部木造)の2階建てで、屋根は寄棟、小屋組はトラス組です。外壁は御影石洗い出しで仕上げられ、腰壁は御影石貼りになっています。正面に6本、側面に3本の円柱をあしらい、屋根は銅板一文字葺きで、前後の屋根上には3つの屋根窓が設けられています。営業室は2階まで吹き抜けになっており、壁と天井は洗練されたデザインの漆喰レリーフで飾られています。
当初の姿から増改築・修理工事を経ておりますが、外観・内部ともに保存状態が良好な建物です。
※現在は営業されていません。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成10年12月11日 |
所有者・管理者 | 株式会社中国銀行 |
所在地 | 倉敷市本町3-1 |
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観光文化施設「倉敷アイビースクエア」の一角にあるこの建物は、明治39(1906)年に倉敷紡績が5度目の工場増設を行った時、製品倉庫として建てられたものです。煉瓦造り(一部木造)の平屋建物で、屋根は寄棟桟瓦葺、小屋組はトラス組です。
建物入口には擬石洗い出しのアーチが設けられており、意匠化した要石には、倉敷紡績のマークを見つけることが出来ます。
昭和47~56(1972~1981)年にかけて、大原美術館の分館として利用するために改装されましたが、保存状態が良く、往時の姿をとどめています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成10年12月11日 |
所有者・管理者 | 倉敷紡績株式会社 |
所在地 | 倉敷市本町7-1 |
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倉敷紡績創業の明治21(1888)年に、原綿貯蔵用の倉庫として建てられたものです。当初は2棟別々の建物でしたが、明治30年前後の工場増設の際に棟続きに増築され、現在のコの字型平面形になりました。
木造煉瓦造の平屋建物で、屋根は寄棟桟瓦葺です。外壁は白漆喰塗で仕上げられており、和風の外観になっていますが、内部はトラス組の小屋組など、西洋の技術が取り入れられています。
昭和44(1969)年、観光文化施設「倉敷アイビースクエア」を構成する建物の一つとして改装されました。倉敷紡績の歴史を伝える展示施設に生まれ変わり、現在に至っています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成10年12月11日 |
所有者・管理者 | 倉敷紡績株式会社 |
所在地 | 倉敷市本町7-1 |
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村山家住宅は、明治24(1891)年に高田氏(西高田)の邸宅として建築された、木造二階建ての洋風建物です。
西高田は幕末以来、塩業で財をなした高田三家のひとつで、明治中期には紡績所の創設や経営にも携わっていました。
昭和10(1935)年からは、医院を開業した村山氏の診療所として使用されることになり、昭和36(1961)年まで外科医院として利用されました。その後は村山氏の居宅として、建築当初の形態をほぼとどめて現在に至っています。
建物の外観は、寄棟造・桟瓦葺の屋根部と白漆喰仕上げの壁体及び花崗岩の基礎石から構成されています。2階の全面は、吹き抜けのバルコニーに6本の円柱が建ち並ぶコロニアル様式になっています。1・2階の扉口上部には半円形のアーチが置かれ、両開きの窓には鎧戸が設置されています。
このほかにも、軒蛇腹、バルコニーの手すり等の各部に、美しい洋風装飾の工夫が施されています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国登録重要文化財 |
指定年月日 | 平成9年6月12日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市児島下の町2-1527-2 |
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大正6(1917)年に倉敷町役場として建てられた擬洋風の建物です。屋根は寄棟、小屋組はトラス組になっています。北東隅の塔屋の二重屋根は銅板葺で、その他は桟瓦葺です。外壁は下見板張、白ペンキ塗で仕上げられています。
昭和3(1929)年の市制施行により建物が手狭になったため、市役所機能が移転しました。残されたこの建物は、倉敷市公益質屋、倉敷市農業共済組合事務所、倉庫などに転用され、荒れるままになっていました。
昭和43(1968)年に市民の中から保存の声が上がり、昭和46(1971)年の保存修理、昭和60~62(1985~1987)年の解体修理を経て、現在は「倉敷館」の名で観光案内所として利用されています。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成28年10月17日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市中央1丁目4-8 |
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楠戸家は、「はしまや」の屋号を持ち、明治2年の創業以来、今日も呉服店として営業が続けられています。主屋をはじめ米蔵・炭蔵・道具蔵・塀が平成8(1996)年に登録文化財になっていますが、主屋のうち店舗部・玄関部・中座敷部は、平成14(2002)年2月20日に倉敷市指定重要文化財になりました。
現在の店構えは明治中期に整えられたとされています。主屋の平面は町屋の完成形のひとつである「表屋造」で、明治期の町屋らしい合理性の高いものになっています。主屋2階のしっくいを塗り込めた「虫籠窓」は、当時の近畿地方の町屋の手法が取り入れられており、楠戸家住宅の大きな特徴になっています。また、海鼠壁(なまこかべ)の蔵や屋根付きの板塀なども含め、明治時代の町屋の屋敷構えとして高い水準を示しています。
古禄の町屋「井上家住宅」、新禄の町屋「大橋家住宅」や「旧大原家住宅」の時代のあとを受けて、楠戸家住宅は明治時代中期を代表する町屋として、倉敷の町屋の歴史を現代に伝えています。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財(主屋)、国登録重要文化財(米蔵ほか) |
指定年月日 | 平成14年2月20日(主屋)、平成8年12月20日(米蔵ほか) |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市東町1-20 |
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神社の創建沿革については、詳しくわかってはいませんが、流行病を免れるため、村の氏神様として建てられ、天形星社を称した時期を経て、明治3(1870)年に元の天石門別保布羅神社の社名に復したものと伝えられています。 本殿は、三段に整地した社地の上段に石積基壇を設け、 西を正面にして建てられています。桁行1間、梁間1間の一間社流造、檜皮葺の白木の建物で、屋根には千木、鰹魚木と呼ばれる飾りを配し、妻部分など細部の様式は曽原にある清田八幡神社本殿によく似ています。
また、棟札によると元禄11(1698)年の改築とされていますが、この時期備前藩では、 元禄10(1697)年の吉備津彦神社の改築をはじめ、神社行政への新たな取り組みを始めており、 こうした流れを受けたものと考えられます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和58年4月26日 |
所有者・管理者 | 天石門別保布羅神社 |
所在地 | 倉敷市福田町広江726 |
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この建築は日本式木造灯明台で、味野浜と赤崎浜境の入江の埠頭にあり、文久3(1863)年に塩釜明神の御神燈として、また、浜へ出入りする船の夜間照明のための灯台として建てられました。
この地は野崎武左衛門が創始した塩田地帯の東端に当たり、かつては野崎浜と呼ばれ、塩の積出しをする船着場になっていました。
灯明台は桁行1間、梁間1間で、宝形造、本瓦葺の屋根には露盤の上に宝珠が据えられています。高さは約9.7mで、灯室の周囲には欄干を巡らし、その下から四面に裾開きに焼板を張り、基礎部分には花崗岩の切石を用いています。
こうした木造高灯籠形式のものは全国的にも少なく、西洋式灯台に変わる以前の灯台を知ることができる資料として、貴重なものです。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和49年10月19日 |
所有者・管理者 | (公財)竜王会館 |
所在地 | 倉敷市児島味野4048 |
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院記によると、かつて、この地には、西岡山西安寺という大寺があり12カ院を擁して栄えたが、大火によって一山の堂塔を焼失したと伝えられています。元和元(1615)年勢誉法印により再興され、元禄12(1699)年には名を行願院と改め、本寺の地所へ移築したとされ、現在は2カ院が残っています。
この仁王門は、桁行3間、梁間2間の欅の円柱を用いた三間一戸の八脚門の建物で、屋根は切妻造、本瓦葺となっています。また左右に脇間のある様式で、両脇間は前後にわかれ、仁王像は後室に祀られています。
昭和52年度に行われた保存修理の際に墨書が発見され、慶安元年~4(1648~51)年 にかけて建造されたことがわかり、またこの保存修理に伴い、本堂南方の現在の位置に移されました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和43年 7月19日 |
所有者・管理者 | 行願院 |
所在地 | 倉敷市西岡1789 |
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貞観元(859)年 の開基と伝えられる宝島寺は、寂厳の住んでいた寺としてもよく知られています。
慶長年間(1596~1614)に火災にあいますが、この仁王門は、そのとき、難をのがれた唯一の建物として今日まで伝えられているものです。
桁行3間、梁間2間の欅の円柱を用いた三間一戸の八脚門で、屋根は切妻造、本瓦葺となっています。また、左右に脇間のある様式で、両脇間は前後にわかれ、仁王像は後室に祀られています。
昭和58(1983)年度に保存修理が行われ、鮮やかな丹塗りの建物に復原されましたが、屋根瓦や妻の部分などの細部には装飾がほとんどみられず、全体的には簡素な造りとなっています。
また創建年代については室町時代中期頃と推定されていますが、この保存修理の際に発見された墨書から、享保4(1717)年に大修理が行われたこともわかりました。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和40年3月25日 |
所有者・管理者 | 寶島寺 |
所在地 | 倉敷市連島町矢柄5633 |
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この三重塔は、総高21.5m、方三間、本瓦葺で、隅木の先に銅製の風鐸を吊り、屋上には青銅製の相輪を立てています。
軒は、初重・二重を二軒繁垂木、三重を二軒扇垂木としており、軒の美しさには目をひかれます。組物は和様二手先で、各重には高欄が巡らされています。柱には欅材の円柱が用いられ、心柱は二重でとめられており、初重内部には四天柱が立ち、内陣、外陣に分けられ、床は拭板敷、天井は格天井となっています。
江戸時代末期の再建とされていますが、彩色のない白木造の塔は清楚で美しく、古い様式を継承した優れた三重塔です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和49年 5月31日 |
所有者・管理者 | 尊瀧院他四ケ院 |
所在地 | 倉敷市林 |
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由加神社本殿は、江戸時代、麓に門前町が栄えた由加山の一角に巨石を背にして立つ小建築です。神仏分離令までは由加大権現を祀った社殿でしたが、明治5(1872)年に由加神社となりました。
本殿は桁行3間、間1間の三間社で、正面に3間の向拝が取り付き、背面を除く3間に擬宝珠高欄付きの縁があります。屋根は大正の改修時に銅板葺に改められていますが、入母屋造の屋根二棟をひとつの屋根にまとめた比翼入母屋造といわれる形式で妻入として比翼の破風の美しさを正面にみせています。
身舎は円柱を使い、正面には桟敷を入れ、両側面は板壁で金箔を貼り、内部は内陣と外陣に分けられ、航海安全の神が祀られています。また、壁や柱などの細部に施された装飾彫刻や極彩色からは、創建当時の輝きとともに江戸前期の様式を伺うことができます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和36年7月25日 |
所有者・管理者 | 由加神社 |
所在地 | 倉敷市児島由加2852 |
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社伝によるとこの神社は、もと、粒江の清滝山中にありましたが、承久元(1219)年にやや南にあたる現在地に移転したとされています。現在の社殿は、寛永19(1642)年に児島郡内の17カ村の氏子によって再建されたもので、総鎮守といわれる児島の古社です。本殿は、桁行3間、梁間2間の単層で、屋根は入母屋造、檜皮葺となっており、周囲には擬宝珠高欄付の縁が巡らされています。妻飾りは二重虹梁大瓶束式で、破風下に鰭つきかぶら懸魚をつり、前面の3間の向拝は、中央の1間を軒唐破風としており、その上に千鳥破風が付けられ、内部は前一間半を外陣とし、奥半間は扉で仕切って内陣としています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和35年 8月23日 |
所有者・管理者 | 清田八幡神社 |
所在地 | 倉敷市曽原1124 |
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蓮台寺は、寺伝によると、天平5(733)年行基によって開かれたと伝えられています。その後、興廃を繰り返し、応永年間(1394~1428)に増吽により再興されました。
客殿は、桁行8間、梁間5間、本瓦葺裳階付入母屋造の堂々たる建造物で、寛政から文化年間の再建とされ、平成4(1992)~6(1994)年にかけて行われた保存修理工事の際には、享和元(1801)年の上棟棟札が発見されています。その内部は6室から成り、上々段制を採用した武家特有の形式を示す書院造となっています。
孔雀の間、柳の間など各室の襖や貼付壁には、室の名称となっている花鳥図や山水図の画題が四条派画人である柴田義董などの手によって描かれており、県内でも有数の障壁画群として広く一般に公開されています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年 4月 1日 |
所有者・管理者 | 蓮台寺 |
所在地 | 倉敷市児島由加2855 |
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高梁川東西用水取配水施設は、高梁川の下流に位置する農業用水施設です。
治水を目的とした高梁川改修工事の一環として実施され、樋門は内務省大阪土木出張所の設計により大正13(1924)年に、事務所は同15(1926)年に竣工しました。
樋門はいずれも鉄筋コンクリート造で、酒津取水樋門は表面全体に花崗岩の切石を積む荘重な外観、南配水樋門は15連からなる大規模な構造物です。
高梁川東西用水取配水施設は、近世以来の小規模な取水施設を統合して、水利用の合理化と施設の大規模化が図られた近代農業用水施設のうち、大正期における最大規模のものとして重要なものです。
また、大正期に全国的に導入が進められた鉄筋コンクリート造樋門の現存例としても貴重であり、農業土木技術史上価値が高いものです。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成28年7月25日 |
所有者・管理者 | 高梁川東西用水組合 |
所在地 | 倉敷市酒津2826 |
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花崗岩製で、基礎・塔身・笠・相輪の各部ともにそろっています。基礎は四面ともに無地のままで、正面に年号と勧進聖人覚圓起立之の刻銘があり、塔身の四面に如来と菩薩の名が刻んであります。
昭和3(1314)年の造立で、素朴ながら雄大で、どっしりとして重々しく、鎌倉時代の世相をそのまま表しています。
時代 | 鎌倉 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和40年5月29日 |
所有者・管理者 | 地区有 |
所在地 | 倉敷市真備町辻田 |
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この宝塔は、当時尊瀧院におられた桜井宮覚仁法親王と冷泉宮頼仁親王が、隠岐で亡くなった父君、後鳥羽上皇の一周忌供養のために仁治元(1240)年に建てたものと伝えられています。
総高約3.8m、 花崗岩製の大宝塔で、方形の壇上積基壇上には格狭間のある基礎を置いています。塔身は円筒、首部・高欄は一石で作られており、高欄には天女が刻まれています。
軸部には正面に座像が刻まれていますが、印相は定かでなく、背面には梵字があったといわれています。笠の形式は通常ですが、軒口の造りや軒反りには、鎌倉時代の特色がよく示されています。また、軒端の四隅には風鐸等をかけるための小孔があいています。
石塔様式などから仁治ごろの造塔はほぼ確かであるとされ、見事な壇上積基壇の中央に立つ宝塔からは、堂々とした姿が伺えます。
時代 | 鎌倉 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年 6月28日 |
所有者・管理者 | 五流尊瀧院 |
所在地 | 倉敷市林952 |
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五流尊瀧院の採燈護摩 | |
熊野神社本殿(第一~六殿) 6棟 |
本荘八幡宮は、大宝元(701)年に建てられたと伝えられている古い神社で、水島灘を見渡す宮山の上にあります。
石鳥居は神社の境内に入る出入口として立てられるのが普通であり、この鳥居も元は三ノ鳥居として社前の参道に立っていました。その後、保存のために社殿の裏、瑞垣の中に移され現在に至っています。
鳥居は本来簡単な構造ですが、わずかな形態の差異によって様々に分類されています。二本の柱の上にのせる横木を笠木、柱の途中を結合するものを貫と呼び、笠木の下に島木を入れ、島木と貫の間に額束を挟んだ形式を明神鳥居といいます。
八幡宮のこの鳥居は、高さ2.3m、 花崗岩製の明神鳥居で、笠木と島木は一石で作られ穏やかな真反りを示しています。向かって左柱に「応永廿八年辛丑(1421)十一月吉日」、右柱に 「願主塩生村住人松井紀義泰辰生年三十二二(「二二」は「四」の意)」の刻銘があり、室町時代初期の様式を典型的に示しており、全国における当代石鳥居の基準作として知られています。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和31年 6月28日 |
所有者・管理者 | 本荘八幡宮 |
所在地 | 倉敷市児島通生22 |
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江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い、「塩田王」となった野崎武左衛門(1789~1864)の居宅で、低い丘陵を背景に長屋門、御成門の門建築が配され、その奥に南北に連なる広大な敷地があります。
中央に表書院、主屋を置き、その北側には内蔵、大蔵、書類蔵、道具蔵、岡蔵、夜具蔵が建ち並んでいます。
桁行約26mの堂々とした構えの長屋門を入ると、 踏石を伝って主屋・表書院へ導かれます。表書院は南東面に縁座敷が巡らされ、淡雅なゆったりとした内部空間が広がっており、その前面には3棟の茶室のほか、 奇石・巨石を組み、松やツツジ、苔を巧みに配した美しい枯山水の庭園が広がっています。
武左衛門の精神が反映された建築群は旧状がよく保存されており、庭園や塩業資料の展示などを含めて広く一般に公開されています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年12月19日 |
所有者・管理者 | (公財)竜王会館 |
所在地 | 倉敷市児島味野1-11 |
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井上家住宅は、倉敷川畔の重要伝統的建造物群保存地区の中でも代表的な大型の町屋の一つで、古くから倉敷の中心通りである本町通り(往還)に面して建っています。
小屋組の登り梁形式で束を併用しているなど、非常に古いかたちを採用しています。また、南面二階外壁の7つの倉敷窓には火災に備えて土扉が付いています。倉敷では少なくとも江戸時代後半には大火が無く、こうした古い町屋の形式が残っているのは井上家だけとなっています。
平成24~34年度まで全解体して保存修理を行っており、今回の修理で発見された墨書から、主屋は享保6(1721)年に上棟されたことがわかり、倉敷美観地区内では最古の町屋であることが判明しました。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成14年 5月23日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市本町1-35 |
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大橋家は、江戸後期の倉敷において、塩田・新田開発によって財をなした大地主で、大原家と共に「新禄」と呼ばれる新興勢力となっていました。
住宅の屋敷構えは大原家とは大きく違っており、旧往来に面して長屋門を有し、主屋が通りに直接面しておらず、前庭が隔て門の奥側に配置されている点に特色があります。
建造物の特徴としては、旧大原家住宅同様、主屋は本瓦葺、厨子二階建てで、1階に倉敷格子、2階に倉敷窓を備え、米蔵・内蔵は土蔵造りで『なまこ壁』を備えており、非常に美しい姿を見せています。
往時の新禄層の屋敷構えをよく伝えており、倉敷町屋の典型を示すものとして主屋や長屋門・米蔵・内蔵の4棟が国の指定を受けています。平成3(1991)年~7(1995)年にかけて、3年4カ月を要した建物の全解体を含む保存修理工事が行われ、往時の輝きを取り戻しました。これによって附指定の「普請覚」のほか、棟札・墨書等の資料から寛政8(1796)年より寛政11(1799)年にかけて主要部分が建築され、その後、文化4(1807)年, 嘉永4(1851)年の2度にわたって大改造が行われたことがわかっています。
そして、最も屋敷構えの整った嘉永4年の姿に復元されて一般に公開されており、格式の高さと地主の繁栄ぶりを伺い知ることができます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和53年 1月21日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 倉敷市阿知3丁目21-31 |
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倉敷は、江戸初期以来、幕府が直接治める地でした。倉敷川の水運を利用して経済力が高まり、江戸後期には「新禄」と呼ばれる新興勢力が台頭し、それまでの「古禄」と呼ばれる勢力に代って次第に富を蓄え、社会的地位を確立してきました。
こうした新禄層の屋敷のうち、旧大原家住宅と大橋家住宅の2つの町屋が、往時の面影を最もよく留める町屋として国の重要文化財に指定されています。屋敷構えは互いに全く異なるものの、主屋等の建造物はどちらも18世紀末における倉敷町屋の代表的な形式を示しています。
旧大原家住宅は、寛政7(1795)年に主屋が建てられ、その後座敷部分が増築され、その先には広い庭が続いています。また、主屋の後ろには蔵が建ち並び、 防火の役目も果たしています。
主屋は本瓦葺、厨子二階建てで、屋根は一見入母屋造に見えますが、実際には切妻造りで妻側に付庇を設けた庇付き切妻屋根となっています。また倉敷窓、倉敷格子といった倉敷独特の工夫も備えています。蔵は土蔵造りで、外壁は腰に瓦を張りつけ、目地を白しっくいで盛りあげる『なまこ壁』で仕上げられ、そのコントラストは非常に美しく、倉敷の町並みの景観を特徴づけています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和46年3月11日 |
所有者・管理者 | 株式会社三楽 |
所在地 | 倉敷市中央1丁目2-1 |
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遍照院は、真言宗の伽藍で、寺伝によると、寛和元(985)年 智空上人の開基と伝えられています。
三重塔は、従来、永享年間(1429~41)の再建と伝えられていましたが、昭和41~42年にかけて行われた解体修理の際、応永23(1416)年の再建墨書が発見され、室町時代前期の再建であったことが判明しました。
この塔は、方三間、総高約21m、本瓦葺で屋根の逓減が整然となされていて屋上に青銅製の相輪をたてています。柱は総円柱で、軒は各層とも二軒繁垂木、組物は和様の三手先となっており、各重とも中央間に板唐戸、脇間に連子窓を備えています。また、初重の縁には高欄はついていませんが、二・三重は組高欄としています。 木鼻の絵様、板彫式蟇股の意匠などに、室町時代前期の建築様式の特色がよくうかがわれ、均衡のとれたその形態は塔としての品位を示し、端正で美しく、国内有数の三重塔と言えます。
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 大正14年4月24日 |
所有者・管理者 | 遍照院 |
所在地 | 倉敷市西阿知町464 |
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一列に南面して並んだ社殿は、向かって左から第三・第一・第二殿、そして第四・第五・第六殿といいます。6棟からなる本殿のうち、第二殿が国の重要文化財、第一・三~六殿の5棟が県の重要文化財に指定されています。 熊野神社は、古くは熊野十二社権現と呼ばれ、社伝によると、大宝元年(701) に紀伊の熊野より勧請し、その後、応仁元年(1467)に兵火によって全焼したと伝えられています。
明応元 (1492)年に再建されましたが、第二殿は本殿のなかでは最も古く、6棟のうちほぼ中央に位置しています。
その後、明治になり神仏分離令によって「熊野神社」として祀られるようになりました。
建築様式は、正面1間、奥行2間の隅木入春日造で、正面に1間の向拝が取りつき、屋根は檜皮葺で、棟に千木と堅魚木をのせています。また、全体に彩色が施されており、柱・垂木・虹梁・破風などを丹塗りとし、木口に黄土を塗り、板壁や裏板はゴフン胡粉で白塗りされています。
比較的小さな本殿ですが、室町時代中期の建築様式をよく示しており、破風部分の曲面と二重に仕組まれた垂木配列や正面の吹寄格子が美しく調和しています。
また、県の重要文化財である5棟は、いずれも正保4 (1647)年に岡山藩主池田光政によって再建されたものと伝えられています。
第一殿は春日造、第三殿は入母屋造、第四~六殿は流造とし、屋根は全て檜皮葺で、彩色を施さず白木造となっています。第一殿は、第二殿と類似する姿や組物の形態をもっており、また、第六殿は熊野権現の鎮座する地を守る地主神を祀った特殊なもので、紀州熊野の本宮にも同様なものがみられます。
時代 | 室町時代(第二殿)、江戸時代(第一・三~六殿) |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財(第二殿)、県指定重要文化財(第一・三~六殿) |
指定年月日 | 大正10年4月30日(第二殿)、昭和43年4月19日(第一・三~六殿) |
所有者・管理者 | 熊野神社 |
所在地 | 倉敷市林684 |
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真鍋家住宅は、明治から大正時代にかけて建てられた主屋、旧郵便局、乾倉、倉庫及び納屋、表門の合計5棟の建物で構成されています。保存状態が良く、島の住宅建築を知るうえで貴重な建物です。
時代 | 明治~大正 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年3月27日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 笠岡市真鍋島4026 |
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菅原神社は、福山4代目藩主の水野勝種が、延宝2(1674)年に吉浜村の氏神として造ったと言われています。現在の本殿は、建築様式からすると18世紀中頃に再建された可能性があります。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和50年1月27日 |
所有者・管理者 | 菅原神社 |
所在地 | 笠岡市吉浜1661 |
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稲富稲荷神社は、村上隆重が古城山に城を築いた時に、城内の鎮守としてまつったのが始まりといわれています。拝殿は鮮やかな朱塗りが印象的な建物で、内部の天井には見事な花鳥や動物の絵が描かれています。拝殿は文政2(1819)年、本殿は弘化2(1845)年に建てられたことが、棟札から分かっています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和50年1月27日 |
所有者・管理者 | 稲富稲荷神社 |
所在地 | 笠岡市笠岡2363 |
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甲弩神社の拝殿は、笠岡市内でも最古級の拝殿建築と考えられています。屋根の内部には、宝永7(1710)年に塩田長右衛門が棟梁として再建されたことが墨書されています。また、寛永14(1637)年から大正15(1926)年までの棟札が残っており、建物の建立、再建、修繕の歴史をたどることができます。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和38年2月20日 |
所有者・管理者 | 甲弩神社 |
所在地 | 笠岡市甲弩789 |
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神護寺の本堂は、笠岡市内に残る最も古い木造建築です。棟木には、戦国時代の永禄11(1568)年に小田髙清の命で、藤原乗久が建築したことが書かれています。いつ、誰が建てたのか明らかな室町時代の建築として高く評価されています。
時代 | 戦国 |
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指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成13年3月23日 |
所有者・管理者 | 神護寺 |
所在地 | 笠岡市甲弩816 |
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遍照寺の多宝塔は、慶長11(1606)年に建てられた県内で一番古い多宝塔です。内部の壁や柱、天井には絵師の釣雪によって極彩色の絵画が描かれています。また、多宝塔のそばには、塔が完成した時に、それを祝って法華経を読んだことを記した石碑が立っています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 昭和50年6月23日 |
所有者・管理者 | 遍照寺 |
所在地 | 笠岡市中央町16-2 |
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このお堂は、天正年間(1570年代)、柳本八郎左衛門が、毛利家の家臣としてこの地方の領主となり、その曾孫甚左衛門正勝が、寛文6(1666)年に寄進した。井原市で確認されている最古の建造物となる。
単層入母屋造りのお堂で梁行5.4m、桁行5.4m。ケヤキ、ツガ、クサマキを使用している。扉や梁などには、花や人物像の彩色された精巧な彫刻が施され、また、床が鴬張りになっている。天井は小組格子天井、本尊の上には折上小組格子天井、中央には本尊の釈迦如来坐像を安置するための唐様の須弥壇が置かれ、唐獅子の彫刻が施されている。棟札には、「大工 大阪 田中仁左衛門元吉、木下仁左衛門吉次、柳十衛門忠次」と書かれている。
善福寺は、足利尊氏が南北朝の争乱の際に立ち寄ったと伝えられるところで、足利義満が応永3年(1396)に祈願所として建立した寺である。現在も足利義満の宝篋印塔である鹿苑院殿石塔婆が境内にある。
指定文化財種別 | 県指定重要文化財 |
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指定年月日 | 平成14年3月12日 |
所有者・管理者 | 善福寺 |
所在地 | 井原市井原町 |
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正伝寺は、元亀2(1571)年に建立された浄土真宗本願寺派光清寺の末寺で、明治30(1897)年に廃寺となり、旧境内には石垣やこの門が残っているにすぎません。明治期から昭和期にかけてこの跡地に学校が建ち、この門は校門として使用され、龍宮門の愛称で親しまれています。
山門は、いわゆる龍宮門形式です。重層で、桁や垂木は丹塗りが施されており、上層部は桁行2間、梁行1間です。屋根は入母屋造りで本瓦葺、棟の両端に鳥衾をもった獅子口を乗せ、破風には懸魚が付きます。下層の内部は木造で、これに木の骨組みを設け、漆喰を上から塗って外壁を造っています。外壁の基部は、斜格子状のなまこ壁です。
この門は、その後幾多の修補が加えられていますが、池田家文庫「備中鴨方領入会絵図」にも記載されており、当地域を代表する江戸時代の貴重な建物です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成24年2月22日 |
所有者・管理者 | 浅口市 |
所在地 | 浅口市鴨方町鴨方398-1 |
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金光教徒社東棟・中央棟・西棟は、金光町大谷地区の金光教本部前に面して建っています。
東棟は、大正10(1921)年建設で、木造二階建、寄棟造、スレート葺、切石積基礎に外壁下見張です。中央に入口を配する左右対称の外観が特徴であり、軒線中央部を僅かに切り上げ、洋風意匠の事務所建築となっています。
中央棟は、昭和2(1927)年建設で、木造二階建、寄棟造、スレート葺です。外壁は、モルタルを塗装して石積に見せる特異な外観です。 西棟は、大正5(1916)年建設で、金光教徒新聞社の社屋として建てられました。木造二階建、寄棟造、スレート葺で、中央部と西側下見、軒を板張りとするなどの意匠でまとめています。
時代 | 大正~昭和 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成29年10月27日 |
所有者・管理者 | 金光教 |
所在地 | 浅口市金光町大谷325-3他 |
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姫井家は、江戸時代より代々医者を輩出した旧家で、鴨方藩の御殿医も務めました。主屋は、木造平屋建、一部二階建、入母屋造及び寄棟造り、桟瓦葺であります。主屋の正面中央に式台玄関及び土間玄関を並べています。座敷には面皮材を多用するなど数寄屋趣味がうかがえ、欄間には漢詩を彫るなど文人との付き合いが深かったことが分かります。建築年代は、江戸時代後期と考えられ、大正3 (1914)年に改築し、洋風の外観の診察室を増築しています。
長屋門は、木造二階建、切妻造、桟瓦葺で、外観は漆喰塗りで格子窓を並べ、風格ある屋敷景観を形成しています。建築年代は、明治前期頃とみられます。姫井家住宅は、近代における地方の町医者が、住宅を使ってどのように医院を営んでいたかを知る上で貴重な建造物です。
時代 | 江戸~明治 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成27年3月26日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 浅口市鴨方町鴨方1342 |
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金光学園中学高等学校記念講堂は、明治37(1904)年、現金光教本部の一角にあった旧金光中学校校地に建てられた講堂で、昭和31(1956)年に現在地に移築されました。
構造は、木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺で、建築面積約238㎡です。屋根には半円形の屋根窓を設け、軒下には雲形の持送で装飾しています。外壁は下半を板張り、上部を漆喰塗とし、壁に「X」字状の木組みを表しています。内部の天井は二重折上格天井で、これは旧吹屋小学校にもみられる構造です。和風(寺社建築)と洋風の意匠を巧みに融和させたデザインに特徴があり、明治期の学校建築の様式や技術を知る上で貴重な建造物です。
時代 | 明治 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成26年10月7日 |
所有者・管理者 | 学校法人 金光学園 |
所在地 | 浅口市金光町占見新田1350-6 |
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定金家住宅主屋は、大正6(1911)年、金光教の門前町の一角に建ち、歯科医院兼住宅として使用されました。東を正面とした木造2階建ての洋館です。正面中央の玄関を中心に左右対称になっており、玄関のある中央部と左右の旧歯科待合室、居間部分から構成されています。
屋根は、切妻で桟瓦葺きで、外壁は、柱や梁形を装飾的にみせるスティックスタイルであり、木部と塗り壁部分が塗り分けられています。角の柱と窓枠にはフルーティングが施されています。中央部二階の屋根は、軒を切ってアーチを掛け、両脇に小尖塔を立てることにより正面性を強調しています。二階の窓上部には櫛形ペディメント、一階の玄関の庇には三角ペディメントを付けています。
洗練された西洋建築様式をよく継承しながら、一部に大正期的な意匠を取り入れた、美しい外観をもった貴重な建築物です。
時代 | 大正 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成18年3月27日 |
所有者・管理者 | 個人 |
所在地 | 浅口市金光町大谷229-14 |
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丸本家住宅及び丸本酒造は、遙照山山系の竹林寺山の南麓に位置しています。周辺には、棚田の広がる農村の美しい情景があります。この麓から湧き出る清水を利用した酒造業が盛んな場所です。丸本家は、幕末の慶応年間創業と伝わる老舗の酒造元で、建物は、明治期から昭和初期の建築で、現役の酒蔵です。
登録された文化財は、住宅では座敷屋、塀であり、酒醸造場では、店舗、脇門・塀及び石段、釜場 、西蔵、取合廊下、東蔵、東囲蔵、南蔵、井戸及び石垣です。酒蔵の外観は、白と黒のコントラストが美しく、蔵の一部は、洋風小屋組み(トラス構造)となっています。
丸本酒造は、主屋と酒蔵が一体となって、酒醸造家の住宅の風情を構成している貴重な産業の文化財です。
時代 | 明治~昭和 |
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指定文化財種別 | 国指定重要文化財 |
指定年月日 | 平成15年12月1日 |
所有者・管理者 | 丸本酒造(株) |
所在地 | 浅口市鴨方町本庄2485 |
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昭和3(1928)年10月に伯備線が全通した。これで初めて岡山・鳥取両県が鉄道で直接結ばれることになった。ここに両県民の宿願であった、いわゆる陰陽連絡鉄道が完成をみたのである。その計画は早くからあったが、明治25(1892)年に制定された「鉄道敷設法」には3本の比較線が示された。その内の西方線(倉敷―境)が、伯備線の前身である。その後、備中地域の人々が、犬養毅率いる国民党を支持して猛烈な建設運動を展開した経緯もある。一方、高梁川には古くから高瀬舟が就航していた。鉄道は、その速度、積載量、安全性などにおいて、高瀬舟の競争相手ではなかった。鉄道建設が進むにつれて、高瀬舟は次第にその姿を消すことになった。写真では、帆を上げて川上ヘ向かう一艘の高瀬舟、岸には弧を描いたレールが見える。黒煙を吹き上げる汽車が、今にも姿を現しそうな歴史的な一枚の写真である。
時代 | 昭和3(1928)年10月 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.10、新見市足見「伯備線建設概要」 |
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大正10(1921)年頃の高梁の町並みを撮影。高梁川西岸からサーカットカメラを用いて撮影されたパノラマ写真と思われる。備中松山の城下町の構成は他の城下町と同様、武家町、商家町、寺院群に大別される。町は山城のある臥牛山南麓にある「御根小屋」(藩庁と藩主の居館を兼ねる)を中心に主に南方にしかも高梁川に沿って広がっている。武家町は町名を「町」とせず「丁」と表現する町が多かった。また、武家町の大半は6万5千石の所領と、相応の家臣団をもった池田家によって取り立てられた。商家町は江戸時代の初期から段階的に広がり、17世紀後半の水谷氏の跨代に南町が建設され、城下町の範囲がほぼ確定された。写真には方谷橋が見えるが、現在は、方谷橋も木造橋から鉄骨の橋となり、護岸の石垣はすべてコンクリート護岸となり国道180号線が通るようになった。
時代 | 大正10(1921)年頃 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.13 |
高梁の町並み(明治40年ごろ) |
写真は昭和36(1961)年の倉敷駅前。写真左手が倉敷駅。左に伸びる道を行くと駅前に出る(現在は駅南側のロータリー)。写真の上が東。下が西。バスとトラックの走るこの車道が、現在の国道429号線。しかし昭和36(1961)年当時には、センターラインもない。写真の右斜め上に走る道が、商店街の現栄天街と倉敷センター街。写真の右斜め上の建物は、現在もある中国銀行倉敷駅前支店。その前の車が停まっている舗装されていない場所は、当時の中国銀行の駐車場。写真の右に延びる車道を行くと、現市役所方面ヘ行く。この当時は、この道はまだ細く、今のように片側2車線になっていない。写真の右斜め下、二人連れが歩いて出てきているのは、商店街の現倉敷一番街である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.15 |
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明治40(1907)年頃の写真で、小田郡笠岡町の本道通り筋。商店街の通りは、江戸時代から浜街道として東西を結ぶ主要な道であり、これに面して商家が軒を連ねていた。県西部から広島県東部一帯にわたる顧客を集めていたという。明治20年代頃の笠岡町の中心商家街が本島町通り筋であった。昭和37(1962)年の笠岡市商店街診断報告書によると、笠岡の商店街は、昭和以前創業の商店が47%、しかも明治時代創業というのが全体の33%であった。大正に入ると、最寄りの品だけでなく買いまわり品を扱う商店が増えて小売商の幅が広がっており、商店街が周辺の備中地南西部からの集客力を強め、港町だけに歓楽的施設もあった。明治43(1910)年には備後水力電力側により電灯が笠岡・金浦につき、商家の販売力を高めていった。
時代 | 明治40(1907)年頃 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.14 |
高梁市の市街地的一角、石火矢町の町並み。石火矢町は、江戸時代備中松山藩主池田長幸によって武家町として建設された町である。「石火矢」とは石または鉄・鉛などを飛ばして用いた火砲のことで、近世初期に西洋から伝来した大砲をさす。しかし、ここに居住した武士が必ず火砲に関わったわけではない。江戸時代の後半にこの地域を治めた板倉氏の家臣団は家格によって1番から5番まで格付けされた屋敷に居住したが、石火矢町には2番屋敷が置かれた。現在、公開されている武家屋敷館折井邸はその典型例である。また、同じく公開されている埴原邸は4代藩主板倉勝政の生母志茂の実家であったため、式台などの意匠が2番屋敷以上の格式で設置されており、見所の一つとなっている。現在は岡山県のふるさと村に指定されており、武家屋敷の折井邸、及び埴原邸が公開されている。また、武家町のたたずまいを見せる土塀や武者窓などもみることができる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.12 |
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銅山町として発達し、ベンガラの生産によって栄えた吹屋の町並み。石州瓦とベンガラ塗りの柱や壁の赤褐色が特徴の現在の町並みと、明治30(1887)年頃の吹屋の姿。吹屋銅山の起源については平安時代初期807(大同2)年説があるが、一般には室町時代(南北朝時代)が有力視されている。江戸時代の銅山経営は大塚家を中心とした地元資本の村稼ぎの時代と泉屋、代官所などの外からの資本による経営の繰り返しであった。町に直接富をもたらしたのは江戸時代後期から始められたベンガラの生産と考えられている。明治6(1873)年三菱の岩崎弥太郎が、請負権を買収してからは飛躍的な生産量となったが、昭和47(1972)年に閉山し、銅山としての歴史を完全に閉じた。現在、吹屋の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区とふるさと村の県指定を受けており、江戸時代末期から明治時代の建物が並び、かつて栄えた銅山町の風情を今に伝えている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.12 |
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倉敷市本町の阿智神社参道を望む風景。現在、倉敷の顔となっている「美観地区」。この情緒ある町並みの保存には、古くから先覚者たちが尽力し、昭和30年代後半から、住民・行政が一体となった保存活動の取り組みへと発展していった。昭和44(1969)年、市の伝統美観保存計画の策定、同53(1978)年、市の伝統的建造物群保存地区保存条例の制定、そして同54(1979)年国の重要伝統的建造物群保存地区として指定。保存地区に指定されてから後の方が、住民には苦労が多いことだと思う。しかし、今もにぎわう街中にあって、容易に百年前の写真と同じ場所を見つけることができ、はるか昔に思いを馳せることができることは、倉敷市民のみならず岡山県民の大きな誇りである。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.10 |
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現倉敷美観地区の倉敷考古館と中橋を撮影した大正初期と平成21(2009)年の様子である。倉敷考古館は昭和25(1950)に開館。倉敷で江戸時代から商家を営んでいた小山家の土蔵を利用したものである。太鼓状のカーブを描く石造りの橋は、中橋。この中橋は、明治10(1877)年に木造から現在の石造へと架け替えられた。大正初期の写真では川岸に電柱が見える。倉敷に電灯がついたのは明治43(1910)年。撮影の少し前のことである。また当時、岸に植えられているのは桜であるが、現在は柳に植え替えられている。中橋の向こうには舟が見える。倉敷川は児島湾を経て瀬戸内海につながる物流の大動脈として、江戸時代から倉敷の発展を支えてきた。倉敷川は海につながる汐入川であり、物資の運搬を担う舟の入出する舟入川であったのだ。しかし、昭和34(1959)年の児島湾堤防締切により倉敷川は淡水化し、通船もとだえ、物流の川としての役目を終えた。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.10 |
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矢掛の商店街は、江戸時代の宿場が時代の経過の中で発展し、誕生したといえる。元来、矢掛の宿場ではそれぞれの町家が旅籠としての機能を持ちつつも、平常は商売を営んでおり、江戸時代中頃の町絵図にも、たたみや、たばこや、とうふやなど多彩な商家が記録に残されている。また、矢掛は町の南側を流れる小田川を利用した高瀬舟の川湊としての機能も持っていた。かつては陸と河川の交通の要衝として、人と物資が行きかい、賑わいをみせていたことが想像される。現存する古い町家は江戸期のものだけでなく、明治・大正・昭和初期に建てられたものも多く、伝統的な和風建築の中に近代化による洋風建築の技術と意匠を取り入れた斬新な建物もある。時代の変遷の中で技術の進歩とともに町がどのように発展してきたのかを物語る貴重な資料だといえよう。
時代 | 江戸時代 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.13 |
広兼家は、小泉銅山とベンガラの原料となるローハの製造で財を成しました。広兼邸は、江戸末期に建てられた楼門づくりで、城郭にも劣らない堂々たる石垣は、今もそのままに当時の繁栄ぶりを伝えており、市の重要文化財に指定されています。
ホームページ | ページを開く |
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電話番号 | 0866-29-2205 |
開館時間 | 4月~11月10:00~17:00、12月~3月10:00~16:00 |
料金 | 大人400円・小中学生200円 |
所在地 | 高梁市成羽町中野2710 |
参考文献 | 流域パスポート |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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現在、現役最古の木造校舎として知られる吹屋小学校と、その明治40年代頃の様子。欧屋小学校の発足は名称の変遷などはあるが明治6(1873)年とされ、学制の制定と三菱が吹屋の吉岡銅山を買収した年とほぼ時を同じくしている。明治31(1898)年、吉岡鉱山から当時の吹屋村ヘ吉岡鉱山本部跡地を吹屋村高等小学校校舎敷地として寄附され、現存の校舎はその場所に建てられた。校舎は同33(1900)年10月に東西校舎と東西廊下が竣工した。4年後には東校舎北東部の旧吹屋女学校校舎が完成し、本館は同42(1909)年11月に落成した。以来、100年余りの間、この地域の人々の学び舎として続いてきた。近年、近代化遺産の評価が高まるにつれ、欧匡小学校も注目されてきたが、平成23(2011)年度の卒業生を送り出したのち、閉校となる予定である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.18 |
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旧吹屋小学校校舎 | |
吹屋の町並み | |
吹屋ふるさと村 |
平成19(2007)年度に国道2号笠岡バイパスが暫定的に供用開始となった。笠岡市は国土交通省と協力して、笠岡バイパスの側道沿いに県内で16箇所目の「道の駅」建設を決定し、平成23(2011)年8月4日に「笠岡ベイファーム」がグランドオープンした。オープン当日には多くの来場者が訪れ、盛大なものとなった。その後も、早朝から多くの人たちで賑わっている。笠岡湾干拓地内の100万本の「ひまわり」や道の駅の隣にある3haの農地の「コスモス」も祝福してくれている。「笠岡ベイファーム」の名称は、平成22(2010)年秋に名称募集を行って、応募総数527通の中から決定した。笠岡ベイファームは、笠岡湾干拓地をアピールして笠岡を情報発信していくとともに、笠岡の農産品・笠岡諸島の水産物や土産物などを販売する直売所やレストラン等の施設を備えており、道路利用者への情報や休憩サービスを提供している。笠岡の農業や観光産業の振興を進める新たな拠点となっている。
所在地 | 笠岡市カブト南町245-5 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
浅口市北部、標高400m近い遙照山山系の阿部山を水源とする杉谷川周辺では、江戸時代の文政年間に農家の副業として、素麺生産が採用された。鴨方が麺の産地として発達した理由は、二毛作として栽培されていた小麦、瀬戸内海沿岸で生産されていた塩、そして湿度が低く晴天の日が多い気候という好条件に恵まれていたためであろう。江戸時代の末期になると播州(兵庫県)から水車石臼製粉技術が伝播。最盛期の明治末期には、水車小屋が杉谷川沿いに60力所に並び稼働していた。素麺作りは、12月から3月まで行われ、生地を仕込んでから麺に仕上げるまで、約30時間休む間もなく作業が続く。写真は、屋外での門干し作業。機(はた)とよぶ乾燥用の木枠に麺を掛け、2本の箸を操って、2本の間隔が2m程度になるまで延ばし麺線を作っていく。麺作りは、「麺生地は生き物」といわれるように天候条件により塩加減や熟成時間等を考慮する職人の技巧を垣間見ることができる当地域の伝統文化である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
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備中和紙は、主原料である楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の樹皮繊維を黄蜀葵(とろろあおい)ののりの中に溶かし、一枚一枚漉いて作る。かつては日常の用に使われていたが、現在は、楮紙はもちろん仮名書道用の鳥の子紙(雁皮紙)などのほか植物染料による渋い色調の染め紙も製造している。また、昭和55(1980)年の東大寺昭和大納経の用紙に指定されるなど、書に適した紙として書家の間で好評を得ている。和紙を作る技術は、奈良時代から伝わったと言われている。明治時代になると洋紙におされ生産は激減し、「清川内紙(ないごうちがみ)」という和紙だけが備中町の成羽川沿いで細々と漉かれていた。昭和39(1964)年の新成羽川ダム建設により産地がなくなったが、復活を願う人々の努力でもあり、丹下哲夫氏が生産の場所を倉敷に移し「備中和紙」として再び生産するようになった。昭和57(1982)年3月には、岡山県伝統的工芸品として指定されている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
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岡山県で藺草が大量に生産され、畳表が流通商品となった歴史は、江戸時代前期の児島湾干拓による広大な新田開発の時代に遡る。海を干拓した土地には塩分が残るが、塩分に強い藺草と綿は、この新しい大地に力強く根を張った。明治29(1896)年の「郡市別藺草作付面積」の記録によると、県下で都宇郡が最も多く、次いで御野郡、窪屋郡の順であり、県南の干拓地を中心に広大な藺草が広がっていたことが分かる。また、藺草の栽培とともに、畳表の家内工業が発達し、家ごとに畳表の機を織る音が聞こえていた。江戸時代、早島で織られた畳表は「早島表」の名で全国に知られた。藺草の栽培は大変な重労働で、繁忙期には県内外からの労働者も多く雇われ、町に人が溢れたという。しかし、藺草の栽培も昭和40年代頃から衰退し、今では県下でもほとんど藺草田は見られない。早島町では、平成13(2001)年に「ゆどころ保存会」が結成され、長く続いた藺草栽培の歴史を今に伝えている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
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向山から、倉敷紡績(現倉敷アイビースクエア)を望む風景。写真の奥、中央に見える特徴的な山は、酒津八幡山。現倉敷アイビースクエアは、ツタに覆われた赤レンガの壁が特徴の近代化産業遺産。昭和48(1973)年に、倉敷紡績所旧工場が修繕・再生されたものである。倉敷紡績所は、明治22(1889)年に倉敷代官所跡に建設されたものである。明治の創業以降、昭和20(1945)年まで、倉敷の発展を担う中心であった。紡績所建設前のこの場所には、倉敷代官所が存在していた。倉敷代官所は寛永19(1642)年から慶応2(1866)年の倉敷浅尾騒動で灰贐と化すまで、この地に設置され、備中(倉敷)、美作(久世)、讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となっていた。今は、代官所跡の記念碑と濠の遺構が、倉敷アイビースクエア構内に残るだけである。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.16 |
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倉紡記念館 |
たたらとは千年以上の歴史を持つ日本古来の製鉄方法である。たたらは川の砂鉄と木炭を燃焼させて鉄を得るもので、森林資材の豊富な中国山地から日本海一帯で盛んに作られており、高梁川流域でも新見市から総社市に至る各地でたたら跡が散見される。因みに、「真金吹く」は「吉備」の枕詞で製鉄の精錬の工程で飛び散る火花の様を言い表わしているとされる。中世において、新見市は「新見庄」として栄えた京都東寺(教王護国寺)の荘園で、良質な砂鉄が採取されていたことから、鉄を年貢として納めていたという記録が東寺百合文書(国宝)に残っている。その鉄を作る製法を現代によみがえらせるべく、「中世たたら製鉄の再現」を平成11(1999)年から行っており、同19(2007)年からは「たたら体験学習事業」として市民参加型の体験実習を実施している。写真は、燃え盛っている炉内に砂鉄を入れる場面である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.15 |
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江戸時代、備中南部の主要な道を「備中国絵図」に見ることができる。絵図には、中国地方を縦貫し東海道につながる大動脈の山陽道と、庭瀬から鴨方・笠岡に至る鴨方往来が描かれている。この二つの道と交差する南北線として、撫川から南に早島を経て備前児島ヘ至り四国へと続く道が、後に金比羅往来と呼ばれる道筋である。金比羅往来は、中・四国間の重要な連絡路であるとともに、金比羅参詣や四国八十八ヵ所巡りの旅人で賑わう信仰の道でもあった。金比羅往来は、この南北線とともに岡山城下から妹尾を経て早島に至る東西線があり、早島は東西、南北の金比羅往来の交わる交通の要衝であった。特に町の中心部を通る道は、児島湾干拓の先がけとなった宇喜多堤の跡といわれている。多くの旅人が行き交う金比羅往来には道標が立てられ、要所要所に旅籠や茶店が並び、賑わったという。町内には、今でも当時の往来が偲ばれる道標や灯籠が随所に残されている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.15 |
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旧制矢掛中学校は、県下で四番目の県立の中学校として明治35(1902)年に開校した。当時、備中南部の地に県立中学校の設置を望む声が高まり、候補地をめぐり紆余曲折を経た末の開校だった。その後、昭和23(1948)年に岡山県立高等学校設置条例により、岡山県立矢掛第一高等学校と改称し、同24(1949)年には矢掛第二高等学校(旧岡山県立矢掛高等女学校)と統合し、矢掛高等学校が誕生。さらに、平成18(2006)年に県立矢掛商業高等学校と統合し、現在の矢掛高等学校となった。開校以来、矢掛町を中心に周辺地域の高等教育の拠点となり、約2万人の卒業生を輩出している。この写真の正門は設立当初のもので、今も校内に移築保管されている。学校を囲む石垣と白壁は今も健在で風に揺れる柳の葉とのコントラストが、ふるさとの情景として瞼に焼き付いている方も多いのではないだろうか。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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桜渓塾は旧川上郡九名村出身の儒学者阪谷朗廬(さかたにろうろ)が、嘉永4(1851)年に後月郡築瀬村(現井原市芳井町築瀬)ヘ開いた塾。阪谷朗廬は大阪の大塩平八郎や江戸の昌谷精渓(さかやせいけい)、古賀洞庵(こがとうあん)らに学んだ、優れた儒学者であったが、26歳で病気の母の元ヘ帰郷、その後結婚し桜渓塾を開いた。しかしその後、朗廬の名声を伝え聞いた一橋領の友山勝次代官は、教諭所(後の郷学興譲館)を設けるために彼を招聘し朗廬は後に初代輿譲館長となった。朗廬は嘉永6(1853)年より興譲館ヘ移り住むと、明治元(1868)年に広島藩ヘ招聘されるまで教育に尽力した。明治時代に入ると代々の館長・校長は朗慮の遺徳を称えるとともに、輿譲館の歴史・伝統を重んじるようになり、学校発祥の地である桜渓塾保存の機運も高まった。大正2(1913)年には、写真中にみられる石碑建立や草廬補修が行われた。本来の塾は石碑建立の場所にあったといわれている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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興譲館(動画) | |
芳井歴史民俗資料館 | |
天守の残る唯一の山城備中松山城 | |
興譲館 |
旧制高梁中学校校舎を写した絵葉書。
旧制高梁中学校は、明治28(1895)年高梁市向町の旧藩主板倉氏の菩提寺安正寺に岡山県高梁尋常中学校が創立されたことに始まる。同33(1900)年、安正寺から備中松山城御根小屋へ校舎を移転した。このとき本館は洋風建築のものとして注目される。写真に見える建造物がそれである。
昭和24(1949)年、私立順正女学校と合併により新制岡山県立高梁高等学校となるまでの間、男子の教育はこの高梁中学校で行われた。備中松山城御根小屋に建築された校舎は高梁の近代建築の代表的なものであった。
現在、洋風建築で学校の象徴でもあった本館は同47(1972)年に解体され、見ることはできない。しかし、高梁高等学校は今も同じ場所にあり、生きた教育の舞台として多くの生徒が学んでいる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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備中松山城御根小屋跡 | |
私立順正高等女学校 |
順正女学校の校舎風景を写した絵葉書。明治12(1879)年、初めて高梁にキリスト教が紹介され、同15(1882)年に高梁キリスト教会が創立する前年、金森通倫や新島襄の影響を受けた福西志計子、木村静子によって女子教育専門の機関として「私立裁縫所」が紺屋川南岸の向町に設立された。近代女子教育機関としては岡山県最古のもので、同18(1885)年には順正女学校と改称し、初代校長にはキリスト教伝導に尽力した柴原宗助が就いた。同29(1896)年、伊吹岩五郎校長のとき紺屋川北岸の伊賀町に拡張移転した。昭和24(1949)年、旧制高梁中学校と合併により新制岡山県立高梁高等学校となるまでの間、この地域の女子教育の中心の役割を果たした。現在、岡山県指定史跡「順正寮跡」として、建造物も残され、旧順正女学校跡地にはその名を冠した学校法人順正学園がある。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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旧制高梁中学絞 |
天守の現存する国内唯一の山城です。天守は、臥牛山の山頂付近の標高約430mに築城されており、国の重要文化財に指定されています。秋から冬にかけては霧が発生し、雲海に浮かぶことから、「天空の山城」とも呼ばれています。
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電話番号 | 0866-22-1487 |
開館時間 | 4月~9月 9:00~17:30、10月~3月 9:00~16:30(最終入城30分前まで) |
料金 | 大人500円・小中学生200円 |
所在地 | 高梁市内山下1 |
参考文献 | 流域パスポート |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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備中松山城御根小屋跡 |
大正6(1917)年頃の写真で正確には「笠岡尋常小学校」、「笠岡女子尋常高等小学校」の時代である。中央に子どもたちが座っているのは当時あった井戸である。左の柵の外は同6(1917)年にできた笠岡区裁判所であると思われる。また、正面の建物は、かつて小田県庁舎として使われていた建物である。小田県庁舎が建っていた位置に昭和17(1942)年に建設された中央の赤い屋根の貫閲講堂、その右側には同31(1956)年新設した3階建ての鉄筋校舎があり、左側には同34(1959)年に新築した校舎がある。左にあった笠岡区裁判所の建物・井戸は、現在の運動場となっている。現在の笠岡小学校は、明治6(1873)年3月「敬業小学校」として発足し、同9(1876)に現在の小田県庁跡に移転。以後、通学区域は変わっていないが、時代、制度の移り変わりに従って学校の名称や規模もいくたびか変わりながら現在に至っている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.20 |
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明治40(1907)年頃の写真で、小田郡役所は同11(1878)年9月20日に設置された。当初は威徳寺の建物を流用して庁舎としていたが、同31(1898)年3月7日に発生した大火災で焼失後、同33(1900)年に八幡平に新築されたのがこの新庁舎である。郡役所は大正15(1926)年7月1日までおかれていた。現在は廃寮となっている笠岡高等学校等の女子寮として使用されていた建物であり、当時の面影を残すのは石垣のみとなっている。明治23(1890)年5月17日に群制が公布され、それまで行政区画にすぎなかった郡が不完全ながら実態を備えることとなり、群には郡会及び郡参事会が置かれ、地主を中心とする有産者が郡行政及び町村監督行政への参政権を得ることとなった。郡議員は笠岡地方で見る限りはかなり庶民的であり、議長は郡長がなっていた。制度的には自治体としては限界があり、郡長は政府の官僚的統治の最先端として中央集権政策遂行の中枢的役割を果たした。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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明治22(1889)年町村制施行で発足した里見村と新庄村が、同38(1905)年に合併して里見村となった。昭和25(1950)年6月1日には町制施行によって里庄町となり、平成22(2010)年には町制60周年を迎え、現在に至っている。人口は、町制施行を行った昭和25(1950)年6月1日において、7,469人で、水島と福山の工業地帯の中間に位置する地理的条件や国道2号線、山陽本線が通るなど交通条件に恵まれていたことから、工場立地が進むとともに、ベッドタウンが形成され、人口も増加に転じている。平成2(199O)年には1万583人と1万人を超え、同22(2010)年現在、人口は1万1,076人、世帯数は4,087世帯である。旧庁舎は、昭和3(1928)年に建築されたもので現庁舎は同51(1976)年4月に完成した。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.19 |
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舟本は早島の河川交通の発着ではここ舟本から汐入川の水運を生かし、特産の畳表のほか、多くの物資を運んでいた。また、薪などの消費物資も児島湾を経由して運ばれてきた。この港の維持管理は村中総出で行い、安政3(1856)年には、昔の例にならい、みなとの破損修理のため村と役所と商人が共同で出資して川岸10間ほどを石垣に整備したとの記録がある。舟本荒神社は、延宝年間(1673~1681年)に前潟新田の開墾が完成したことに伴い、国家安全五穀豊穣祈願のために、千光寺(町内市場)境内の荒神社より分体奉祀されたものである。現在の舟本は、汐入川沿いに走る南北の県道と、岡山・倉敷に抜ける東西の道との交差点として、通行の多い箇所である。交差点には、金比羅平往来の道しるべがひっそりと佇み、今は道を行き交う人や車の流れを見つめている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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弁才天の地名は、厳島神社の祭神である弁財天に由来する。弁才天は、舟本と並ぶ早島の川港で、河川交通の拠点であった。厳島神社境内には、それを物語るように、天保年間に四国三豊郡和田村(現香川県観音寺市)から灰の購入にきた灰船の船頭たちが寄進した灯寵が今も残されている。また弁才天は四国への金比羅往来の沿線にあり、多くの旅人が行き来したところで、金比羅への道を示す道標も今に残る。江戸時代後期の金比羅往来は、ここ弁才天を起点に南下し、茶屋町・天城へと続いた。厳島神社境内には、ごつごつとした巨石が多く残されている。この巨石群は、川港の歴史をさらに遡り、この辺りがまだ海であった頃、打ち寄せる波が山肌を削ったものとされる。巨石群の上に鎮座する弁才天、厳島神社は、明治時代に諒まれた「早島十景」に「弁天の浮き見堂」として紹介され、今でも土地の歴史と昔の風景を静かに伝えてくれる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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写真では、中央に遍照寺の仁王門、左端には枝垂れいちょう、右端には多宝塔がある。遍照寺は笠岡駅前土地区画整理事業によって昭和52(1977)年、西の浜の埋立地へ移転した。現在は「いちょう公園」となり、多宝塔と枝垂れいちょうの木だけが元の場所に残っている。慶長11(1606)年に建てられた岡山県下の多宝塔建築の中で最も古い国指定重要文化財の「遍照寺多宝塔」は、内部の天井・壁・柱などに装飾文様・絵画が極彩色で描かれている。枝垂れいちょうは、多宝港建立記念として植樹されたといわれる。枝がすべて垂れ下がっているところから「枝垂れいちょう」と呼ばれるが、これは学術上の品種名ではない。本樹は、雌株で秋にはたくさんの銀杏が採れる。また、遍照寺の仁王門に吊られている青銅製の梵鐘は、室町時代に鋳造されたものである。銘文が刻まれており、それによると、永年4(1432)年現在の早島町鶴崎神社の鐘として鋳造されたことが分かる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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葉書のセットである。発行者は酒津婦人会であり、完成を祝う地元の様子がうかがわれる。絵葉書に「延命山眞如院」と表記されているこの寺は、現在「韶法山済興寺」と号し、酒津配水池の北にある。都窪郡誌には「当院は河川改修のため大正6(1917)年東酒津字荒神谷に移転せり」とあり、中洲町誌には「古来酒津本村にありしが河川改修のため同4(1915)年東酒津字城の内に移転せり」とある。いずれにしても高梁川の河川改修のため移転したものと伝わる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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井山宝福寺は、総社市赤浜で生まれた画聖・雪舟が幼い頃に修行をし、涙でネズミの絵を描いたという有名な逸話で知られる臨済宗東福寺派の寺院。京都にある本山東福寺との結びつきが強く、地方の中でも有力な律宗寺院である。もともとは天台宗の寺院だったが、鎌倉時代中頃に臨済宗に改宗された。境内にある三重塔は、南北朝時代の永和2(1376)年に建てられ、県内では2番目の古塔である。これは戦国時代の戦火を免れた貴重な建物で国指定重要文化財である。その他の建物は消失してしまったと考えられるが、歴代の住職などの努力により見事に復興された。仏殿や方丈などの七堂伽藍を備えた境内は禅宗特有の趣を感じさせ、座禅体験をすることができる。特に、秋の紅葉シーズンには数多くの観光客で賑い、訪れる人々の心に感動を与えてくれる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.21 |
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福山城は総社市南部の福山(302m)山上に存在した山城。城跡は、鎌倉末期から室町初期にかけての南北朝動乱期を描いた軍事物語『太平記』に記された「福山合戦」の舞台となった場所として有名で国指定の史跡。1336(建武3)年、京都の戦いで敗れた足利尊氏は九州に逃れ、勢力を盛り返しながら再び都を目指し攻め上がった。この時、後醍醐天皇方の新田義貞軍の武将大井田氏経はこれを阻止するために福山城を占拠し、新田軍1500騎と30万の足利軍が、三日三晩にわたる激しい攻防を展開したと伝えられている。標高302mの福山は、古代より山岳仏教の寺院・福山寺があり、山頂部には平坦化された寺域と礎石がみられる。福山城はこの寺を改変して砦にしたため、にわかづくりの門の跡、土塁、井戸跡のほか、寺院の古瓦片や窯跡が残されている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.20 |
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「謎の古代山城」として全国の歴史ファンの注目を集める鬼ノ城は、吉備高原の南の端に位置する標高約400mにある総社市の鬼城山(きのじょうざん)の8~9合目にかけて築かれた古代山城で、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の温羅(うら)退治の伝説の舞台としても有名で国指定の史跡。城の南側が深い谷と急斜面からなり、自然の地形を利用した難攻不落の堅固な要塞である。また、眼下には古代吉備文化の中枢地たる総社平野はもちろん、瀬戸内海や遠く四国山脈までを望むことができる。周囲を城壁が約2.8kmにわたって鉢巻状に巡り、城壁は一段一列に並べて置かれた列石の上に土を少しずつ入れてつき固めた版築土塁と高い石垣で築かれている。城内は約30haに及ぶ広大なもので水門が6ヶ所、城門が4ヶ所、食糧貯蔵庫と考えられる礎石建物跡などが確認されている。平成13(2001)年度から整備が開始され、古代山城としては初めて門と城壁が復元された。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.20 |
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埋蔵文化財学習の館 |
6月、サツキ、ツツジの咲く名勝頼久寺庭園を撮影したもの。頼久寺は南北朝時代(1336~1392)のはじめ、足利尊氏、直義兄弟が全国に建立した安国寺の一つといわれる。暦応2(1339)年に開かれ、臨済宗永源寺派の祖寂室元光を開山としている。一時、寺は衰退したものの、戦国時代のはじめ備中松山城主であった上野頼久(?~1521)が荒廃していた安国寺を再興した。これにより寺号が安国頼久禅寺と改められ、現在まで続いている。備中松山は上野氏の後、庄氏、三村氏、毛利氏などに治められたが、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの直後から小堀正次(1540~1604)が備中国奉行として支配を行い、正次の死後、子の政一(遠州)が継いだ。遠州は作庭、茶の湯、築城などにその才能を発揮した。この頃、備中松山城は荒廃しており、仮の居館として頼久寺が使われ、頼久寺庭園はこのとき遠州によって作庭されたと考えられている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.20 |
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明治24(1891)年に私鉄山陽鉄道が笠岡まで開通すると、同年に玉島駅(現新倉敷駅)鴨方駅が開業した。その中間に位置する金光では、金光教の春・秋季大祭時には全国から参拝者があり、その利便性から大祭時には金神(こうじん)仮駅が設置された。また浅口群域は麦稈真田や酒蔵業・素麺業などの諸産業の発展が目覚ましく、金光でも常設駅の要望が高まり、明治34(1901)年金神駅が開業した。駅周辺は田畑に固まれたのどかな風景であったが、駅が開業されると、運送合資会社・銀行・土産物屋・旅館等が立ち並び、駅前の町並みも整備された。また駅前を中心に電燈が灯るなど静かな街も近代化が進んでいった。大正6(1917)年駅舎は大改修され、同8(1919)年金神駅から金光駅へと改称された。この写真は改修前の金神駅のものであるが、駅前に建物が並び、にぎやかに変遷してしく姿があらわれている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.24 |
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まちかど郷土館は、明治43年に建築された旧総社警察署の建物で、総社市内で現存する唯一の明治洋風建築です。館内には、備中売薬や阿曽の鋳物、い草や畳など、総社で盛んだった産業の資料を展示しています。
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電話番号 | 0866-93-9211 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 総社市総社二丁目17-33 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合、その翌日)、年末年始 |
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総社跡 | |
総社宮 |
総社の地名の由来となったといわれる社。総社は、国中の神社を巡拝する慣わしの不便をはぶくため、平安時代末期に国府の近くに造られるようになったものであり、この備中の総社は324社の神々を一つに配ったもの。前庭の三島式庭園は、古代様式をそのまま今に伝え、長い回廊の美しい影が水面に映し出されている。また、拝殿には多くの絵馬が奉納されており、円山応挙や大原呑舟などといった絵画史に残る有名な画家によって描かれた絵馬も奉納されている。その他、直径2.5mの茅でできた輪を3回くぐりぬけ、厄除けを願う「輪くぐり祭」や、総社宮に伝わる力石(約180kgの横綱力石)をどれだけ長く持ち上げることができるかを競う「力石総社」などの行事が行われている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.23 |
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総社跡 |
奈良時代の天平13(741)年に、聖武天皇が仏の力によって外敵や災害、疫病などの災いから国を守るため、全国に僧寺や尼寺を建てるように詔を出した。その命により建てられた尼寺の一つが、この備中国分尼寺である。備中国分尼寺跡は、備中国分寺の東方、約700mのなだらかな丘陵地にあり、国分寺とは異なり、短期間で廃棄されたものと考えられる。現在では、アカマツ林の中に残る建物の柱を支えた大きな礎石や、築地土塀の痕跡を残すのみであるが、当時の寺域は東西約108m、南北約216mと推定されている。建物は境内の中心線上に南門、中門、金堂、講堂が一直線に配置され、中でも金堂は残っている礎石からかなり大きな建物であったと想像できる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.23 |
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備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) | |
備中国分寺 | |
こうもり塚古墳 | |
備中国分寺五重塔 | |
備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) |
備中国分寺は、総社市南部のアカマツに包まれた美しい丘陵地帝のほぼ中央部に位置し、聖武天皇の発願によって全国に建立された国分寺の一つである。当時の境内は、東西約160m、南北約178mと推定されるが、建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在ある建物は江戸時代に再建されたものである。また、境内にそびえる吉備路のシンボルともいうべき五重搭は、県内唯一の五重塔で、国の重要文化財に指定されている。この五重塔は国分寺の再興からおよそ100年後の文政4(1821)年頃より建立が図られ、工事が完了したのは天保14(1843)年か弘化元(1844)年のことといわれている。総高約34.3mの大規模な塔で、木造本瓦葺、青銅製の相輸をたてている。3層まではケヤキ材、4・5層は松材を主に使用しており、心柱が塔の中央を礎石の上から相輪まで達している。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.23 |
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備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) | |
古代吉備文化発祥の地総社市 | |
備中国分尼寺跡 | |
こうもり塚古墳 | |
備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) |
総社市(旧山手村)にある旧山陽道を北に望む低い丘陵上に築かれた古墳で一辺36m×38m、高さ約5mの吉備地方では最大規模の方墳。墳丘の外表構造については、斜面を覆う葺石や、段の有無も明らかではないが、墳丘に立てられた埴輸が少数ながら採集されている。埴輸の形状から5世紀後半に造られた古墳であると考えられるが、内部の埋葬施設の構造については全く明らかになっていない。その名の由来は、戦前、古墳の西側に土俵を設け、宮の祭りの際に奉納相撲が行われていたことからきているという説が伝えられている。また、この古墳の上には、県指定天然記念物で、樹齢約450年を誇る樹形の非常に美しいクロマツが枝を大きく広げ、そびえている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.22 |
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備中国分寺と国分尼寺跡の中間の丘陵にある前方後円墳で、またの名を「くろひめ嫁古墳」ともいわれていた古墳。6世紀に築造され、全長は約100m、奈良の石舞台古墳と同規模の巨大な横穴式石室を持つ。この横穴式石室は、全長19.4mで巨大な石を組み合わせて造られており、全国で第4位の規模を誇る。玉砂利を敷き詰めた石室には、貝殻石灰岩で造られた家形石棺や、土を焼いて作った陶棺、そして木の棺が安置されていた。盗掘の被害を受けてきたが、須恵器や土師器などの土器のほか、大刀や馬具をはじめとした鉄器などが多数出土している。また、この古墳は、かつて仁徳天皇に愛された吉備のくろひめの墓とされ、「くろひめ塚古墳」と呼ばれていた。しかし、6世紀後半に造られたもので、仁徳天曇の時代とは100年以上も隔たりがあり、また、石室内にこうもりがたくさんいたことから「こうもり塚古墳」と改められた。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.22 |
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備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) | |
備中国分寺 | |
備中国分尼寺跡 |
備中国分寺から西方約1kmの田園地帯にある作山古墳は、全長286m、高さ約24mの3段からなる前方後円墳で、その規模は県内では岡山市の造山古墳に次いで2番目、全国でも第9位と巨大なものである。形状や構造、埴輪などの特徴から、造山古墳に次いで5世紀中ごろに築造された吉備の大首長の墓と考えられている。丘陵を3段に整形加工した斜面と平らな面からなる墳丘は、現在は草と木で覆われているが、築造当時は平らな面に5千本以上の埴輪が立て並べられ、斜面には石が敷き詰められていた。また、造山古墳と同じく天皇の墓とされていないため、中に立ち入ることができる古墳の中では全国でも最大級のものであるという特徴がある。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.22 |
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備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) | |
備中国分寺 | |
古代吉備文化発祥の地総社市 | |
備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) | |
備中国分寺五重塔 |
井倉洞は新見市中心部から約6km南に位置する草間地区にあり、びょうぶ獄(ごく)の石灰岩の絶壁に開口する全長1200mの鍾乳洞で洞口は小さく高さ2m、幅2mである。井倉上の穴から吸い込まれた水の吐出穴がある。洞内は石灰岩の節理に沿う溶食作用の結果によりできた割れ目が発達し、洞穴(天然の石灰洞)は、前半部は南北方向に、後半部は北北東方向に延びている。洞内には、地軸の滝・音の滝など落差50mにも達する観光洞としては珍しい滝がある。顕著な二次生成物(せいせいぶつ)には、つらら石・流れ石・力―テン・石筍(せきじゅん)・石柱などがある。観光客の便のため、回遊式の人口洞が獅子穴まで通じている。県下の観光洞の中でも最も交通の便がよく、満奇洞・羅生門とともに新見市観光のシンボルとなっている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.3 |
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阿哲台(井倉洞) |
三室地区は新見市神郷町油野に位置し、三室ダムに隣接する。三室川沿いの峡谷には約1,000本のシャクナゲが群生しており、市指定重要文化財の天然記念物に指定されている。シャクナゲは高山植物で春から初夏にかけて開花する気品と風格がある花木であり、特に三室一帯に群生するものはツクシ系ホンシャクナゲと言われるものである。花は薄紅色をしており、花茎は4cm内外になり、5月上旬の開花時には実に壮観で油野川の渓谷の美しさとあいまって、辺りは一大桃源郷の観を呈する。またシャクナゲ最盛期の5月GW頃には、三室峡シャクナゲまつりが開催され、シャクナゲ観賞以外にも、ヤマメ魚つりや神郷太鼓、国指定重要無形文化財の備中神楽、餅投げなどのイベントや特産品販売が行われる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.3 |
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鳴滝は、千屋ダムに流れ込む別所川右岸に隣接する新見市菅生に位置し、岡山県備作山地県立自然公園特別地域にある。静かな日はおよそ2km離れた麓の集落まで大きな滝の音が聞こえることから「鳴滝」という名前が付けられた。この滝は、その昔、赤い着物を着た仙人が赤い牛を洗っていたという言い伝えから「牛洗(ぎゅうせん)の滝」とも呼ばれている。およそ30mの滝は三段になっていて、中国山地から流れる豊富な清流は、気にこの滝を落ちて地響きがするような音を周りにこだまさせている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.3 |
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標高962mの剣山は、岡山県新見市干屋と鳥取県日野市にまたがる県境の山である。高さは小ぶりだが形がよい。美しい三角錐の山から流れる水が高梁川の源流の一つで、やがて時には激しく、時には悠々と瀬戸内海へと流れ込む。登山ルートは、明地トンネル入り口手前にある「剣山登山口」から三日月山と剣山ヘ登るコース、旧明地峠にある「新見美しい森ビジターセンター」から階段道を急登りするコースの二つである。入山すると水源地保護の杉林が続き、いたる所から湧き水が噴き出している。どちらのコースも初心者向きでよく整備されたコースである。九合目の休憩所からは、鳥取県大山をはじめとする北面の山々、日本海弓ヶ浜の大展望が得られる。山頂は狭いが、まさに360度の大パノラマが限下に展開している。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.3 |
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大正14(1925)年に峻工した高梁川改修工事によって東高梁川が廃川となった。昭和16(1941)年、瀬戸内海に面した半農半漁の廃川地に三菱重工業名古屋航空機製作所岡山工場が誘致され、水島臨海工業地得の歴史が始まった。昭和18(1943)年、航空機製造工場までの鉄道が敷設された。戦後、鉄道を管轄したのは倉敷市交通局だが、同45(1970)年からは水島臨海鉄道会社が経営を続けている。昭和59(1984)年、岡山臨港鉄道大元~岡山港間廃止。玉島臨海線は、同36(1961)年に起工し橋梁工事などを終えたが、同51(1976)年に計画自体が撤回となった。我が国に現存する臨海鉄道は10路線。だが、旅客と貨物を運行するのは、茨城県の鹿島臨海鉄道と水島臨海鉄道2路線だけである。水島臨海鉄道は、蒸気機関車が活躍していた頃から「ピーポー」の愛称で親しまれてきた。長大貨物列車を従え、東水島駅から西岡山駅までを疾走するディーゼル機関車の姿は、勇壮な現代版ピーポと呼ぶに相応しい。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.27 |
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明治43(1910)年4月21日「軽便(けいべん)鉄道法」が公布された。この法律第57号に準じて敷設された鉄道を軽便鉄道と呼ぶ。ところが、現在、ケイベンは狭軌(きょうき)鉄道の軌間(きかん)3呎(フィート)6吋(インチ)(約106.7cm)よりも狭い鉄道を指して呼ぶことが多い。岡山県内では、明治末期から大正期にかけて西大寺鉄道、下津井電鉄、井原笠岡鉄道、三蟠(さんばん)鉄道など、軌間が狭軌幅に満たない鉄道が運行を開始した。井原笠岡軽便鉄道は、大正2(1913)年にまず笠岡~井原間を開業。同10(1921)年北川~矢掛間、同14(1925)年には井原~高屋間を開業。そして、昭和15(1940)年に神高鉄道高屋~神辺間を買収して全線開業を果たした。蒸気機関車はドイツやベルギーから、レールはドイツから輸入。軌間2呎6吋(約76cm)で同46(1971)年3月まで井笠の地を走り続けた。現在、新山駅は井笠鉄道記念館として整備され、コッぺル社製の蒸気機関車や車両、我が国唯一の軽便規格の転車台などを保存・展示している。また、矢掛駅の支柱と梁には、ブルバッハ社製のレールが使われている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.27 |
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我が国の蒸気機関車庫には矩形と扇形の2種類が存在した。明治4(1871)年、横浜駅に矩形、新橋駅には扇形庫が建設された。現存最古の扇形庫は同18(l885)年に建造された北海道の手宮機関車庫、国の重要文化財に指定されている。ところが、手宮以降に建設された機関車庫は矩形が中心。姫路駅に煉瓦造の第2機関車庫が竣功した同36(1903)年頃から扇形庫が増え始めた。岡山県では、大正10(1921)年岡山駅、昭和3(1928)年新見駅、同11(1936)年津山駅にコンクリート造扇形庫が建てられた。新見駅の扇形庫は、同13(1938)年に7線からは14線構造に増築されたが、同47(1974)年の無煙化の後、同55(1980)年に解体された。新見機関区の全盛期は同41(1966)年頃。配属蒸気機関車38両、職員約400名を数えたという。現存扇形庫では京都の梅小路機関車庫が最大で、重要文化財の指定を受けている。二番目の規模を誇るのが旧津山扇形機関車庫で、昭和7(1932)年に大成された「扇形機関車庫設計標準図」に準じて建設された。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.26 |
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写真は、笠岡駅に停車中の山陽本線71号機関車である。炭水車に71の数字と貨車に山陽鉄道の山じるしマークがみえる。機関車は明治30(1897)年頃、アメリカから購入したものである。国有化後の羽田(同42)年まで「71号」として使われており、その間の撮影である。JR笠岡駅舎は同24(1891)年建設、大正15(1926)年に一部改築、昭和34(1959)年に大改築された。改築にあたり笠岡市は、笠岡駅舎を市発展の大きな拠点(本市の表玄関)と考えていたので、多額の鉄道利用債を引き受け協力した。その2年後の同36(1961)年10月1日に、倉敷~三原間が電化開通した。笠岡駅では、小学生たちが小旗を振って記念電車を迎えた。電化開通と同時に電気機関車が導入された。それまで蒸気機関車に牽引された客車で煤煙に悩まされていた乗客は、快適な旅を楽しむことができるようになった。さらに、輸送力スピードアップにより、通勤通学や行楽などにも便利になってきた。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.25 |
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弥高山は、弥高い(いやたかい)という意昧から名付けられ、また山の姿から別名「飯山(いいのやま)」ともいう。吉備高原の西、広島県境に位置し、標高654m。他の山々よりひときわ高く、山頂からは360度のパノラマが開け、四季折々の吉備の山並みが見られる。霧やスモッグのかからないときには、北は伯雷(ほうき)大山、南は水島・福山の工業地帯から、はるか瀬戸の島々、四国の連山までもが眺望できる。生い立ちは、地質学でいう第4紀更新世までさかのぼる。更新世とは、ほ乳類が栄え、人類が出現して、氷期と間氷期を繰り返していた時代である。約17haの公園内には、それぞれの四季で楽しませてくれる自然がたくさんある。春には10万本のツツジが満開、梅雨時期にはアジサイが咲き誇る。夏には緑の中でキャンプやバーベキューができ、秋には紅葉・雲海が見ごろになり、冬には雪景色を見ることができる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.4 |
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昭和6・7(1931・32)年頃、高梁市下町西側を流れる高梁川の河岸の風景である。中世以来高梁川では、船を利用した輸送が行われていた。江戸時代前期の備中松山藩主水谷(みずのや)氏の時、大規模な高梁川航路の整備が行われ、高瀬船は高瀬通し・玉島港とともに備中国の重要な輸送手段として大いに利用された。高梁は「松山河岸(かし)」として重要な集積地となった。写真では河岸に石垣が築かれ、邸宅の土台と、その下に伸びる船頭道を見ることが出来る・かつては高瀬船が往来し、接岸した高瀬船から直接積荷を商家の蔵に搬入することができた。また、川の沖に向かって伸びる石組みは「猿尾」と呼ばれ、船着場とともに防波堤の役割も果たしていた。昭和3(1928)年、伯備線の全線開通とともに、高瀬船はその役割を完全に終えた。現在では、国道180号線の拡張により、写真で見られる往時の姿は失われ、堅固なコンクリート護岸に変貌している。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展 |
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高梁川 | |
高瀬舟 |
羅生門は新見市中心部から約9km南東に位置する草間地区にある。標高400m前後の草間台のドリーネにできた石灰岩の巨大なアーチで、第1門から第4門までアーチがつながり、末端は羅生門第1洞と呼ばれる吸い込み穴となる。成因は古い鍾乳洞が崩落し、一部分が残存してアーチとなった鍾乳洞の最後の姿である。夏に訪れるともやや冷気を感じることができ、まさに「羅生門」の名に相応しい光景を見ることができる。チョウジガマズミ・ヤマトレンギョウなどの石灰岩植物のみならず、洞口から吹き出す低温多湿な自然状態から、高山性や北方系の貴重な蘚苔類や地衣類が隔離分布している。蘚苔類では、サガリヒツジゴケ・イギイチョウゴケ・セイナンヒラゴケ、昆虫ではガロアムシなどの洞穴昆虫が生息しており、また7月初めになるとドリーネ内外で黄金色の光を点滅させるヒメボタルが見られる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.4 |
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羅生門 |
満奇洞は新見市中心部から約9km東に位置する豊永赤馬地区にあり、阿哲台では最も早く開発された鍾乳洞で、昭和時代初期にはすでに他県にまで知られていた。洞穴は平面に発達した迷路に富む閉塞・断層裂か型の吐出(としゅつ)穴であり、総延長450m、最大幅25mである。最大のプールは夢の宮殿・竜宮と呼ばれ、無数のつらら石・カーテン・洞穴さんごが発達し見事な景観をもたらしている。プールの最大水深は約1mで、この水は洞内の炭釜・千枚目付近で地下に吸い込まれ、そのため洞口付近は流水がなく鍾乳石は乾燥し風化しつつある。鍾乳管(しょうにゅうかん)・つらら石・畦石(あぜいし)・カーテン・石筍(せきじゅん)・石柱が発達し、また小さな洞穴サンゴ曲石なども無数に存在しており、鍾乳石の宝庫とも呼ばれる。「満奇洞」の名は地名の「槇(まき)」にちなんで、歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻が命名したものである。「まきの洞夢にわが見る世の如く玉より成れる殿づくりかな」(鉄幹)「満奇の洞千畳敷の蝋の火のあかりに見たる顔を忘れじ」(晶子)
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.4 |
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満奇洞(動画) |
井原市西江原町才児(さいちご)の道祖渓は、全国的にも珍しい輝緑岩の台地が削られてできた渓谷である。幾つもの渓流と奇岩の間を流れる清流が、周囲の老木とあいまって映える景勝地である。現在も四季を通じて滝水が枯れることはない。「道祖渓」の名称がつけられたのは昭和初期である。渓谷近くには、高僧実峰良秀(じっぽうりょうしゅう)が嘉慶元(1387)年に聞いた永祥越寺があり、良秀の徳を慕って道祖渓の化身で、ある稚児が現れたとの伝説が残る。これによりこの地周辺は才児と命名されたといわれる。道祖漢は、昭和30(1955)年に県指定の名勝地となった。写真は、同10(1935)年に製造された「山陽ノ景勝中備道祖渓」の絵葉書の中の1枚で、「断魚の渓流」と呼ばれる滝を写したもの。絵葉書は10枚1組で、あったようで、他に「稚児滝ノ景」の絵葉書が残る。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.5 |
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鬼が獄は、小田川の支流美川(みやまがわ)の鬼ケ岳ダムから上流4kmにわたる渓谷である。奇岩と渓流が織りなす自然景観を楽しめる景勝地で、植生はアカマツや広葉樹林を主として、早春に花咲くアテツマンサク、初夏のウンゼンツツジ、秋に紅葉するカエデなどが美しい。渓流にはゲンジボタルやカジカガエルが生息する。昭和3(1928)年に、上流にあるラジウムを含む鉱泉が「鬼ヶ獄温泉」として整備され、多くの文人たちが訪れた。大正10(1921)年初夏には若山牧水が、昭和4(1929)年秋には与謝野晶子が夫・鉄幹と娘・藤子と共にこの地を訪れた。西条八十も湯治客の一人であった。晶子は美山川の渓谷を鏡川と名付け「みやび男とたおやめのため流れたる宇土の渓間の鏡川かな」という歌を残した。景勝地として知名度があがり、昭和5(1930)年に鬼ヶ獄は国の名勝地に指定された。鬼ヶ岳ダムができたため、現在は多くの渓流が川底に沈んでいる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.5 |
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天神峡は、天神社・黒丸社の社叢を中心とした景勝地で小田川に添って約1kmにわたって広がっている。春は若葉や山桜が美しく、夏は渓流での水泳キャンプが楽しめる。特に秋の紅葉のすばらしさがよく知られている。京都の嵐山に似ていることから「小嵐峡」とも呼ばれる。天神峡の名称は、天神社に由来する。昭和31(1956)年より県指定の名勝地となった。また高梁川上流県立自然公園のーつである。現在の天神峡は、紅葉の美しさを引き立てる朱塗りの紅葉(もみじ)橋を一緒に収めたアングルがよく撮られており、橋は天神峡のシンボルとなっている。写真は昔の天神峡で、紅葉橋に架け替えられる前の天神橋が写っている。天神橋は木橋で、昭和2(1927)年に竣工した。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.5 |
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名勝豪渓は高梁川に注ぐ樋谷(まきだに)川の上流にある渓谷。この渓谷には江戸時代末期、備前吉永出身の漢詩人で医者でもあった武元登々庵(たけもととうとうあん)書の「天柱」の二文字を刻んだ天柱峰をはじめとして、剣峰(けんがみね)、雲悌山(うんていやま)、盒子岩(えぼしいわ)などの花筒岩の切り立ったがけや石柱が槙谷川の渓流の両岸に林立している。これらの岩石美と清流、新緑紅葉の調和が壮大な自然美を創り出す景勝地で、特に秋の紅葉シーズンには、大勢の観光客でにぎわっている。また、昭和4(1929)年にここを訪れた与謝野晶子をはじめ、多くの画人、詩人らによってこれまでにその自然美が表現されている。大正12(1923)年には国の名勝地に指定された。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.4 |
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明治43(1910)年末に始まった高梁川の大改修は、大正14(1925)年春に完成をみた。東西の高梁川を一本化することで治水対策とし、両岸で11に分かれていた取水樋門を倉敷市酒津の笠井堰・取水樋門、配水池に統ーすることで、農業用水の公平な配分を可能にした。高梁川の大改修と新しい水利施設の完成を祝う完工式は大正14(1925)年5月20日、配水池西の東西用水組合事務所前で盛大に開催された。式典には内務大臣や岡山県知事をはじめ600人が参加したが、これに先立ち東西用水組合は配水池の周辺に桜、楓、松など6千本あまりを植樹し、用水工事竣工記念碑を建てた。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.7 |
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高梁川東西用水取配水施設 | |
用水分水樋門 | |
用水取水桶門 | |
用水配水池 |
高梁川(松山川・大川ともいう)は、母なる川であると同時に、氾濫を繰り返す暴れ川でもあった。嘉永3(1850)年6月には大雨が続き東高梁川が氾濫、遠く茶屋町・早島町までが六尺(約l80cm)も水没するという大災害となった。当時の高梁川が度々氾濫を起こす理由としては、酒津あたりで東高梁川と西高梁川の2本に分かれていたこと、上流部の砂鉄採取のためのカンナ流しにより土砂が堆積して天井川化していたこと、などである。繰り返す水害に悩む下流部の住民にとって高梁川の治水は悲願であった。明治13(1880)年7月の大水害の後には窪屋・浅口・賀陽・下道各郡内の有志が民間自力改修のための運動を起こし、岡山県は同19(1886)年9月の水害の後、川の流量を調整する工事を行った。しかし、これらは大きな効果をあげることはできず根本的な解決は、内務省による同40(1907)年春の高梁川改修の基本計画、同43(1910)年末の工事着手まで待たねばならなかった。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.7 |
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倉敷市酒津から相ざし清音黒田にかけての高橋川沿いの道は、かつて「鑵子(かんす)の弦」と呼ばれる断崖絶壁の難所であった。鑵子とは湯釜や茶釜のことで、弦は釜を吊るすつるのこと。眼下に急流を見る、細く曲がりくねって見通しの悪い道を称したのであろう。この道が地元篤志家により整備され、車馬の通行が容易になったのは、明治7(1874)年頃とされる。現在は主要道の一つ、県道24号線となっている。古写真にはすでに伯備線の軌道が見える。伯備線の倉敷駅から宍粟駅(現・豪渓駅)が開通したのは、大正14(1925)年のこと。伯備線はこれに前後して延伸整備され、昭和3(1928)年に全線が開通した。こうした道路の整備や鉄道網の発達は、物流の形態を大きく変えることになり、江戸初期以降、備中の物流を支えた高瀬舟は次第にその姿を決していった。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.6 |
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現在の酒津・清音古地あたりで東西2本に分かれていたかつての高梁川は、氾濫を繰り返す暴れ川であった。明治前半だけでも、同2年、13年、19年、25年と大きな水害が相次ぎ、明治26(1893)年には台風による水害のため、死者のみでも309人を数える大災害となった。こうした水害の原因の一つは、大量の土砂が川床に堆積しているためであり、その土砂は上流部で行われていた砂鉄採取(力ンナ流し)による山を崩した土砂であった。土砂の堆積により天井川化した高梁川の治水対策は、河川の改修によるしかなかったのである。東西2本の高梁川を一本化するという大工事は、明治43(1910)年末から始まり、大正14(1925)年春に完成をみた。この大改修以降、高梁川の下流部では室戸台風を除き、大規模な水害はほとんど起こっていない。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.6 |
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東高梁川跡 | |
高瀬舟 |
明治末まで高梁川は酒津付近で東西2本に分かれて瀬戸内海に注いでいた。治水・取水のため、明治43(1910)年末から着工された高梁川の大改修工事は、東高梁川を消滅させ、西高梁川の一部を締め切って柳井原貯水池を造り、なおかつ川を西高梁川に一本化するという壮大な工事であった。この改修工事は、第一次世界大戦による諸物価の高騰や改修計画の変更等で予定を大幅に遅らせることとなった。そして、改修工事が完成したのは大正14(1925)年春のことで、当初474万円余りだった工事費は、792万円余りに増大していた。かつての東高梁川は、改修工事により新しい高梁川が酒津八幡山の南を回って流れ始めた大正12(1923)年1月で事実上廃川となった。同15(1926)年7月には内務省が「公用廃止」を告示して東高梁川は廃川地となった。昭和16(1941)年には、旧河口付近に三菱重工の航空機工場が設けられ、今日の水島工業地帯の先駆けとなった。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.6 |
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高梁川 | |
高瀬舟 |
通称「井原富士」は、現井原市井原町の舞鶴山の別称。舞鶴山は、南北に細長く尾根が続いているが、北側の麓から眺めると左右対称になだらかなすそ野が広がることから「富士」の名がつけられた。近くには横手山城が築かれ、戦国時代には毛利氏旗下の武将が守ったが、江戸時代初めに廃城になったといわれる。写真は麓の小田川河原の舞鶴公園辺りから井原富士を見上げた写真。この辺りから下流に向かって、小田川沿いには桜堤が広がっており、大正・昭和時代には井原の一大名所となっていた。手前に架かる橋は小田川にかかる新橋。当時の井原町の新町と向町を結び、行き交う人々で、賑わった。写真は、小田川を写した風景写真。写真と一緒に写されたようだが具体的な場所は特定できない。小田川に土砂がかなり溜まり、水流が細くなっている様子がうかがえる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.5 |
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淀平井堰は、現在の昭和橋のあたりより取水される用水である。井原市井原町を縦断した後、七日市・出部・笹賀町でも用水として利用された。写真は大正末年頃のものといわれる。場所は現在昭和橋が架かっているあたりである。上流より下ってきた小田川の水を堰き止め、向かって左端に引水される様子が分かる。左下隅には大きな水門らしき設備の一部が見えている。水門側ヘ流れなかった水が再び小田川ヘ合流する地点で、2人の男性が魚釣りをしており、かたわらに魚籠(ぴく)が置かれている。ここから取水された水は、井森神社や丸田妙見の横を流れ、幾筋かに分岐しながら井原町の田畑だけでなく、七日市や出部ヘ流れ込んだ。現在、井原町では市街地化が進んだため水路の多くが暗渠となり、上部は歩道として整備された。また、水路の一部は、現在の井原小学校運動場を横断して流れている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.8 |
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宇戸川は、井原市芳井町吉井で小田川に合流する支流である。種・花滝から流れ出て宇戸川の谷底地域を下った後に、1km程の平たん地を流れ小田川と合流する。写真は、昭和9(1934)年9月20日~21日の室戸台風で被害を受けた合流地点手前の市街地辺りの様子である。台風が去った後も宇戸川の水量は増しており、道路には崩壊や亀裂がみえる。対岸に多くの人が集まり、手前に倒れた電信柱が写っている。こういったことから、人が集まっている地点に元は橋が架かっていたが流され、住宅地も浸水するなど大きな被害を受けたことがわかる。室戸台風の襲来に際しては、現在の「男川橋」が流され、消防組頭の今井三郎が殉職したといった記録がある。こういったことから、写真は合流地点手前から宇戸川を振り返り、「男川橋」があった辺りを中心に撮影したものだろう。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.8 |
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備後の油木や備中北部から井原市を通過して笠岡市へ至る道は、昔から「笠岡往来」「東城往来」と呼ばれた交通の要路であった。この道が井原市井原町内で小田川を渡る箇所に架けられた橋が新橋である。新橋は、明治36(1903)年に架設されたが、後に洪水で流され、木橋の板面を丸太で作り、上を土で、ならした土橋となっていた。写真は、大正9(1920)年の大洪水により流出した新橋の様子である。川を挟んで手前が向町、対岸が新町であるが、新町側の橋脚が流れ、橋が落ちていた。対岸にも橋の上にも多くの人が集まっている。被害の状況を報告し合っているのだろうか。大正12(1923)年に架け替えられた新橋は以前より嵩上げされたトラス構造の鉄橋に生まれ変わった。橋名柱の揮毫は興譲館中学校長の山下秋堂である。渡橋式には多くの人々が参加した。対岸(向町)には山岡舞鶴楼の三階建ての建物が見える。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.8 |
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昭和9(1934)年9月21日、日本に来襲した室戸台風によって堤防が決壊した高梁川と増水した紺屋川の様子を写したもの。室戸台風は高知県室戸岬から四国を経て、瀬戸内海、京阪神、北陸、東北に猛威を振いながら進み、大阪をはじめ各地に甚大な被害をもたらした。高梁では、備中広瀬駅付近で大きな被害が出たのをはじめ、中井町、高倉町、川面町、落合町、玉川町でも被害は甚大であった。高梁の市街地では記録的な雨量や堤防の決壊により家屋の76%以上が浸水した。高梁市内にある高梁川の橋梁で田井橋、方谷橋、落合橋、玉川橋はいずれも流された。写真(上)は紺屋川と伯備線が交差している場所で紺屋川に架かる橋を越えて増水している。人々が家屋の外に出て作業をしているところから、台風が去った直後の撮影かもしれない。現在、紺屋川河岸は石垣で整備され、桜の名所の紺屋川通りは「日本の道100選」にも選ばれている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.7 |
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大正14(1925)年に大改修を終えた高梁川は、かつて両岸に点在していた11の取水樋門を倉敷市酒津の取水樋門に統一した。当時の県知事の名を冠した「笠井堰」で高梁川本流から配水池ヘ農業用水を取り込み、分水樋門で現倉敷市、早島町の各地に用水を配分している。(写真左から)西岸用水、西部用水、南部用水、備前樋用水、倉敷用水と5つの用水に分水するのが、写真の分水樋門「東西用水酒津」である。当時の技術の粋を集めたこの樋門は、土木学会選奨土木遺産(2003年)、疎水百選(2006年)、近代化産業遺産(2008年)に選ぱれている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.7 |
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昭和43(1968)年に完成した高梁川水系の成羽川上流に中国電力株式会社によって建設された新成羽川ダムの姿。新成羽川ダムは重力式アーチダムで最上流にある新成羽川ダム(高さ103m)をはじめ、重力式コンクリートダムの田原ダム(高さ41m)、その下流の黒鳥ダム(高さ15.5m)の3ダムの総称でもある。本来、水力発電専用のダムで、それぞれに新成羽川発電所(最大出力30万3千kW)、田原発電所(最大出力2万2千kW)、黒鳥発電所(最大出力2千kW)が稼動している。また、水島臨海工業地帯をはじめ、児島、笠岡地域への工業用水を供給する役割も持つ多目的ダムである。かつて水没地域には約100戸の世帯があり、和紙の製造と漆掻きの生業も営まれていたが、丹下哲夫氏は下流の倉敷市ヘ移住し、「備中和紙」(No.67)を制作している。新成羽川ダムの貯水によってできた人造湖は備中湖と呼ばれており、「笠神の文字岩」(No.33)も現在は水没して湖底にある。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.8 |
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笠神の文字岩 |
酒津の配水池は、明治43(1910)年末から大正14(1925)年春までの高梁川大改修工事の一環として、改修後の農業用水の公平かつ効率的な配分のため造られた。配水池の北からは八ケ郷用水、南からは分水樋門を通じて西岸用水・西部用水・南部用水・備前樋用水・倉敷用水の5つの用水が分岐している。これらは現倉敷市、早島町の田畑を潤す貴重な役目を担っている。昭和30年代、この配水池は、春の花見時期には伯備線に臨時駅「酒津駅」ができるほどの桜の名所であり、夏は子どもたちの遊水池になり、また貸しボートが水面に浮かぶ憩いの場所であった、との思い出を語ってくれる人も多い。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.7 |
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明治43(1910)年末から始まった高梁川の改修工事は、大正14(1925)年春に完成をみた。足掛け15年の大工事であった。新たに一本化された高梁川では、個々分立していた11の取水樋門(一の口樋、八ケ郷樋、倉敷樋、備前樋、龍の口樋、福田古新田樋、福田樋、片山樋、船穂一の口樋、船穂三の堰樋、弁才天一の口樋)を統一し、農業用水を公平に配分することを目的に、倉敷市酒津に笠井堰・取水樋門と配水池を造った。これに先駆け大正5(1916)年には、市町村(都窪郡中洲村、中庄村、庄村、豊洲村、茶屋町、早島町、倉敷町、大高村、帯江村、万寿村、菅生村、浅口郡河内村、連島町、船穂村、長尾村、玉島町富田村、児島郡福田村、粒江村)による「高梁川東西用水組合」が設立された。そして、同12(1923)年の新設樋の利用開始以降、現在に至るまで安定した農業用水を、かつての19町村である現倉敷市、早島町に供給している。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.7 |
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温羅(うら)伝説の舞台でもある鬼城山の山裾を西から東南に流れる砂川に、自然を生かして整備された河川公園。もともと総社市の砂川周辺は、水と緑に恵まれた土地でそこに水や森に親しめる施設が平成7(1995)年に設けられた。橋や歩道を整え、バンガロー風の炊事棟やシャワー、トイレが完備されたキャンプ場のほか、ウォータースライダーなどの親水施設もあり、幅広い世代に人気を得ている。特に、夏休みのシーズンなどには、公園内はキャンプやバーベキューなどを楽しむ人や、ウォータースライダーで無邪気に遊ぶ子どもたちでにぎわう。また、夏だけでなく、初夏にはショウブ、秋には公圏内にある観光柿園での柿狩りなど、どの季節でも自然変満喫することができ、四季を通じて楽しむことができる公園である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.4 |
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栄橋は旧山陽道沿いにあり、昭和29(1954)年の町村合併前の矢掛町西町と小林村、川面村の境に位置し、橋の名の由来も一説にはここからきていると考えられている。栄橋は小田川・墨田川・美山川の3本の河川の合流地点にあり、自然堤防が発達した地形を利用して、江戸時代末期に木橋が架けられた。平常時には川の流水量が少なく、橋が架けられる以前は「高通徒渡(たかとおりかちわた)し」(高通は旧川面村の地名)と呼ばれ、人々は徒歩で)川を渡っていた。そのため、大水ともなれば川を渡ることができず、旧矢掛本陣石井家には、長州女中衆が川止めにあった記録が残されている。その後、常時通行できる木橋が明治・大正・昭和初期まで利用されていたが、洪水で度々流失したため、昭和14(1939)年に鉄筋のトラス橋の栄橋が架橋された。さらに小田川沿いの矢掛バイパスが同46(1971)年に開通する際には、新たな橋がこの路線沿いに設けられ、これが現在自動車の通行している新栄橋である。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.11 |
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大正3(1914)年頃に高梁市本町から高梁市落合町近似を結ぶために高梁川にかけられた方谷橋を撮影。橋の名称は漢学者で備中松山藩士の山田方谷(1805~1877)に由来する。近似側には方谷林公園も設置されている。江戸時代、備中松山城下を流れる高梁川には橋が架けられていなかった。川を渡るためには舟を利用しており、方谷橋の位置に舟渡しがあったことが江戸時代の城下図で確認することができる。大正3(1914)年に木造の橋が建造されたが、昭和9(1934)年の室戸台風来襲による水害で流出した。現在の方谷橋は昭和12(1937)年に完成したランガー形式のアーチ橋である。現存する戦前に造られたランガ一橋は全国で10基、そのうち、2基が高梁川で見ることができる(もう一つは高梁市川面町田井の田井橋)。高梁市内の近代化遺産の一つとしても評価を受けている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.11 |
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汐入川は延宝7(l679)年に拓かれた前潟新田の悪水用の排水路として開削され、元禄11(1698)年に古川に変わる新しい船入川として改修整備された。汐入川は、沿線の広大な農地から悪水を排水し、湿田化を防ぐ重要な役割を果たしながら、倉敷川を経て早島と彦崎港を結ぶ運河として発達することとなる。起点にあたる舟本・弁才天にはそれぞれ船着場が整備され、年貢米や特産の畳表が盛んに積み出された。川の両岸は良質の藺(い)草の産地であり、西側の高須賀、早高、帯高は三高藺草として全国的に知られていた。晩春から初夏にかけて、麦の黄と濃緑の藺草が広がる中を、川岸のヨシを押し分けながら帆船が悠々と入ってくる様は、まるで活動写真の名場面を見るようであったと、明治に記された記録(「ある老人の思い出」佐藤悦太郎)はそう語っている。明治以降も、宇野線が開通するまで汐入川の運河としての役割は変わることはなく、金比羅や西大寺の会陽見物に出かける人もみなこの汐入川の船便を利用していたという。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.11 |
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倉敷考古館と中橋 |
写真は、明治末期~大正半ばの「天神祭り」の光景。この祭りは神輿が船に乗せられ玉島湾の沖に行き、海上で神事を行うことに特徴がある(海上渡御祭)。伝説によれば天神祭りの縁起は、美濃部という寺子屋師匠が学問の神・菅原道真公を祀ったことに由来するといわれる。その天神様・道真公を祀る菅原神社は、写真奥の小山の羽黒神社の境内にある。祭りの日、神社で神奉式を行った後、神輿は船(御座船)に乗り海に出る。かつては羽黒神社の参道下から、幔幕、竹、しめ縄、提灯を飾った和船二隻を並べた御座船が神輿を乗せていた。その後、和船は発動機船に変わり、二隻の船は一隻になった。羽黒神社参道下の雁木(石階段)から人の力で行っていた神輿の上げ下ろしも、クレーンを使うようになった。また水門で締め切られため、今は200m下った公園前から神輿は海に出る。周囲の風景と棟式は変わったのかもしれないが、天神祭りは今も続いている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.10 |
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高梁市内の下町西側の高梁川を上る高瀬舟を撮影したもの。舟前方の橋は方谷橋である。高梁川の舟運は、中世以来、備中国の南北をつなぐ交通手段であった。室町時代の天文年間(1532~1555)には河口から高梁(旧名は松山)までが整備され、その後、慶長年間(1596~1614)には新見市井高までが開通した。井高や高梁には米蔵や鉄蔵が置かれ、年貢米や鉄をはじめとする諸物資の輸送も盛んになり、瀬戸内の海運と連携して発展した。17世紀中期の備中松山藩主水谷勝隆(1597~1664)はさらに大規模な河川改修を行った。慶安4(1651)年までに段階的に改修が進み、新見まで達した。これにより、備北(岡山県北西部)の年貢米、鉄などの物資輸送が向上した。寛文11(1616)年、2代藩主水谷勝宗は新田開発に伴い、高梁川下流の船穂村(倉敷市船穂町)から玉島港を結ぷ長さ約9kmの「高瀬通し」を整備し、延宝年間(1673~1680)に完成して、高梁川河川交通の飛躍的発展が見られた。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.10 |
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東高梁川跡 | |
高梁川 |
総社市井尻野に位置する湛井堰(高梁川合同堰)は、それまでの湛井纏と上原井領堰(かんばらいりょうぜき)の合同堰として昭和40(1965)年に完成したものでここから引いた水は、十二箇郷用水(じゅうにかごうようすい)、上原井領用水、高梁川東西用水を流れ、約1万2千haの農地を灌漑している。湛井堰の起源は古く、平安時代にまでさかのぼるといわれている。平安時代の終わりごろ、妹尾郷(現在の岡山市南区妹尾)の荘園領主、妹尾兼康(かねやす)によって築かれたと伝えられる。湛井堰から取り入れられた高梁川の水はまず総社市をはじめ、岡山市、倉敷市に及ぶ広い範囲を流れる十二箇郷用水に取り入れられたため、高梁川西部や下流の地域ではしばしば水不足に悩まされ、水をめぐっての争いがたえなかった。しかし、この合同堰の完成と用水路の改修により、それらの問題も解決され、現在はより広い範囲の地域で農業に役立っている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.8 |
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町家2棟、土蔵3棟を忠実に修復した江戸時代の歴史的建築物と伝統植物園を合わせもつ公園です。園内には県内で最も古い築後300年以上を誇る町家「旧高戸家住宅」(県指定重要文化財)があり、2006年に「日本の歴史公園100選」に認定されました。
ホームページ | ページを開く |
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電話番号 | 0865-45-8040 |
開館時間 | 9:00~17:00(入館16:30まで) |
料金 | 一般100円 小・中学生50円 |
所在地 | 浅口市鴨方町鴨方240 |
参考文献 | 流域パスポート |
休館日 | 月・火曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌日、年末年始 |
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町家跡(旧高戸家) | |
旧高戸家住宅 |
やかげポケット水族館は、平成13(2001)年にやかげ郷土美術館の一角にオープンした。高梁川の支流の一つである小田川等に生息する淡水魚を大小12基の水槽に展示している。小田川の本流を模して造られた大きなパノラマ水槽では、鯉やフナなどがゆったりと泳ぐ、様子を観察することができ、小さい水槽には絶滅危慎種に指定されているスイゲンゼ二タナゴをはじめとする貴重な魚も展示されている。近年、水質の悪化や環境破壊により、身近に観察することができなくなった魚を自の前で見ることができるということで、近隣の小学生や親子連れ、淡水魚の愛好家などが頻繁に訪れている(水族館のみの見学は無料)。また、この水族館は、県立矢掛高等学校の生徒がボランティアで水槽の清掃や水替え、魚の補給等の管理に当たっており、次世代を担う若者たちが、環境について学ぶ大切な場にもなっている。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.6 |
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やかげ郷土美術館 |
矢掛町の宇内地区では、毎年初夏(6月上旬)にホタルが乱舞する。この時期に合わせて、「宇内ホタル観賞旬間」が設けられ、毎年岡山県内外から多くの観光客が訪れている。宇内地区は首からゲンジボタルの群生息地として知られていたが、昭和50年代から農薬の使用や家庭雑排水の河川への流入などにより、ホタルが減少傾向になった。このため、地元住民が、昔から親しまれてきたホタルを守り育てるため、昭和59(1984)年3月に自治会、消防団、婦人会、子ども会等で構成する「宇内ホタルを守り育てる会」を結成し、保護育成の一環として、同年からホタルの養殖をスタートした。昭和60(1985)年には保護活動の拠点として星田川の清流沿いに「宇内ホタル公園」同63(1988)年には「ホタル養殖施設」が完成し、毎年10万匹の幼虫を放流している。また、環境保全活動として河JIの清掃も定期的に行われている。このような住民たちの努力により守り育てられているホタルは毎年多くの人を魅了している。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.5 |
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水辺の楽校とは、国土交通省が子どもたちの水辺での遊びや、自然体験を豊かにしてもらおうという目的で進めているプロジェクトである。「そうじゃ水辺の楽校」は、平成13(2001)年1月にそのプロジェクトに登録され、約2年の歳月をかけて整備された。場所は総社大橋から下流約印刷までの間の高梁川右岸側の河川敷、広さは約35haで、水辺の楽校としては全国屈指の規模を誇る。中心は、ワンドと呼ばれる入り江のようなものや、カヌー用の水路とデッキ、遊水路、芝生広場、木橋などがある上流部である。カヌー水路は幅が約6mから10m、美しいS字曲線の約350mの距離で、たくさんの子どもたちが力ヌーを楽しんでいる。また、水辺の楽校内の約9割は元の自然がそのまま残り、総延長約5kmに及ぶ散策道の途中では、心なごむ景色を楽しむことができる。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.5 |
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小田川流域の矢掛町から倉敷市真備町にわたる一帯は古来より吉備真備(きびのまび)ゆかりの地として知られている。矢掛町では真備公の遺徳を偲んで、昭和63(1988)年、吉備公館址に隣接する丘に吉備真備公園を新たに整備した。吉備真備は、高梁川以西を拠点とした下道氏(しもつみちし)の出自で、奈良時代(約1300年前)に活躍した歴史上実在の人物。下道氏とは古代豪族吉備一族の中で最も栄えた氏族で、公園西方の丘陵地から真備の父である下道関勝(しもつみちのくにかつ)の母の遺骨を納めた骨蔵器(こつぞうき)が発見され、この地が下道氏の墓所であることが明らかになった。公園周辺には、吉備真備の産湯(うぶゆ)の井戸などがいい伝えられ、また、真備が唐の都から持ち帰った文物の一つである囲碁に因み、この地を「囲碁発祥の地」として顕彰している。この公園は地元町民の協力で美しく保たれ、平成19(2007)年には日本の歴史公園100選にも選ばれている。また、公園の一画には、美味しいうどんが食べられる館祉亭もある。ぜひ散策にお越し願いたい。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.22 |
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吉備公ゆかりの地 下道氏の墓 | |
阿藤伯海旧居 |
郷土出身の横内正弘氏(故人)から寄贈を受けた美術品をもとに、現在、所蔵品数は1,200点余り。文人画家・富岡鉄斎をはじめ、近・現代の日本画、郷土ゆかりの洋画家らの作品を収蔵。また1年を通じて子どもから大人まで楽しめる展覧会を開催しています。
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電話番号 | 0867-72-7851 |
開館時間 | 9:30~17:00 |
料金 | 展覧会によって異なる |
所在地 | 新見市西方361 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、展示替期間中、年末年始 |
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岩石や化石、植物、昆虫、動物の標本など約12,000点の資料を展示して、岡山県の自然をわかりやすく説明しています。見るだけでなく直接触れることができる展示もあります。また、学芸員による講座や、野外での自然観察会なども実施しています。
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電話番号 | 086-425-6037 |
開館時間 | 9:00~17:15(入館は16:45まで) |
料金 | 大学生50円 一般150円(高校生以下、65歳以上無料) |
所在地 | 倉敷市中央2-6-1 |
休館日 | 月曜日(祝日または振替休日の場合は翌日)、年末年始 |
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高梁市備中町の農村文化の歴史を中心に保存展示する民俗資料館です。昔懐かしい農耕機具等とともに、彫刻家・宮本隆の作品も展示しています。
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電話番号 | 0866-21-1516 |
開館時間 | 10:00~15:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 高梁市備中町布賀3535 |
休館日 | 月・火・水曜日、年末年始 |
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高梁市成羽町出身の画家・児島虎次郎を顕彰するために開館した美術館です。様々なジャンルの企画・特別展を開催しています。建築家・安藤忠雄氏による建物も見所の一つです。
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電話番号 | 0866-42-4455 |
開館時間 | 9:30~17:00(16:30まで受付) |
料金 | 展覧会によって異なる |
所在地 | 高梁市成羽町下原1068-3 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、展示替期間中、年末年始 |
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成羽美術館 |
明治37年に建築された、旧高梁尋常高等小学校の本館を活用した資料館で、建物は市の重要文化財に指定されています。江戸後期から昭和期にかけての生活用具や農耕機具などを展示しています。
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電話番号 | 0866-22-1479 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 大人400円・小中学生200円 |
所在地 | 高梁市向町21 |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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高梁市郷土資料館 |
高梁市についての歴史や、ゆかりのある文化芸術の資料を集めている美術館です。常設展で高梁について紹介するほか、特別展などを開催し、さまざまな歴史や美術を紹介しています。
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電話番号 | 0866-21-0180 |
開館時間 | 9:00~17:00(16:30まで受付) |
料金 | 大人400円・小中学生200円(特別展等は別途料金の場合あり) |
所在地 | 高梁市原田北町1203-1 |
休館日 | 火曜日(祝日の場合は翌日)12月28日~1月4日 |
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板倉勝静 | |
三島中洲 | |
川田甕江 |
倉敷市の名誉市民の画家、池田遙邨の作品をはじめ、岡山ゆかりの作家の作品が1万点以上あります。むかし市役所として使われていた建物(国の登録有形文化財)は、世界的建築家・丹下健三の設計で、今でも多くの人が見学に来ます。
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電話番号 | 086-425-6034 |
開館時間 | 9:00~17:15(入館は16:45まで) |
料金 | 小・中学生50円・高校生・大学生100円・一般210円(特別展は別途設定) |
所在地 | 倉敷市中央2-6-1 |
休館日 | 月曜日(祝日または振替休日の時は、その翌日)、年末年始 |
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満谷国四郎 | |
池田遥邨 |
早島町の伝統的産業であるい草とい草製品に関する資料や道具を見ながら、その歴史を学ぶことができます。※見学ご希望の際は事前にお問い合わせください。
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電話番号 | 086-482-1511 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 早島町前潟237 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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日本で唯一の現代縄文アートの美術館。「最も新しい縄文芸術と縄文の心を体感できる美術館」です。縄文造形家の猪風来・村上原野の縄文焼き作品や陶オブジェなど約300点、縄文と古陶(法曽焼)の技法を融合した「縄文法曽陶」作品も展示するほか、陶芸教室や縄文野焼き祭りを開催しています。
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電話番号 | 0867-75-2444 |
開館時間 | 9:30~17:00 |
料金 | 小・中学生は無料 高校生200円 一般400円 |
所在地 | 新見市法曽609 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日、12月~2月は月・火曜日)、年末年始 |
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「生きている化石」カブトガニについて、化石や標本を中心に展示・解説しています。水槽では、カブトガニの成体や幼生を見ることができます。シアターでは、映像でカブトガニや生物の進化を解りやすく解説しています。館外には、恐竜公園(無料)があります。
ホームページ | ページを開く |
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電話番号 | 0865-67-2477 |
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
料金 | 小・中学生210円 高校生310円 一般520円(65歳以上無料) |
所在地 | 笠岡市横島1946-2 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日 ※3月25日~4月10日、4月27日~5月10日、7月15日~8月31日の期間は無休。)、祝日の翌日、年末年始 |
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カブトガニ博物館 | |
カブトガニ繁殖地 |
宇宙を身近に体感することができる博物館です。晴天時には刻々と変化する太陽表面を観測できるほか、季節ごとに替わるプラネタリウム番組や4次元デジタル宇宙シアターを楽しめます。また、隣接する国立天文台や京都大学せいめい望遠鏡の紹介もしています。
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電話番号 | 0865-44-2465 |
開館時間 | 9:00~16:30 |
料金 | 一般(高校生を含む)100円・小中学生50円(プラネタリウムは別途一般300円・高校生200円・中学生150円・小学生100円) |
所在地 | 浅口市鴨方町本庄3037-5 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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天文のまちあさくち |
一般公開用では中国地方最大級の101cm望遠鏡と、光害防止条例に守られた星空環境によって、誰でも気軽に美しい星空と天体の姿を観察できる公開天文台です。午後の昼間は望遠鏡で一等星の観察のほか、4次元デジタル宇宙シアター「4D2U」の上映を行います。
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電話番号 | 0866-87-4222 |
開館時間 | 昼13:45~16:00 夜18:00~22:00(金土日月曜日)/ 昼9:30~16:00(火水曜日) |
料金 | 小学生以上300円 65歳以上240円 団体等割引有 |
所在地 | 井原市美星町大倉1723-70 |
休館日 | 木曜日、祝日の翌日、年末年始 |
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星の郷・美星 |
海とともに暮らし、発展してきた玉島の街の歴史や民俗に関する資料や情報を集めた展示室です。亀山焼や麦稈真田などの実物をはじめ、玉島風景図巻や乙島祭りに関する映像、千石船の1/10模型など郷土の歴史や民俗を知るうえで欠かせない資料の数々が並んでいます。
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電話番号 | 086-526-1400 |
開館時間 | 9:00~22:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市玉島阿賀崎1-10-1(玉島市民交流センター内) |
休館日 | 5・8・11・2月の第4月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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科学に関する展示物やプラネタリウムがあり、体験を通して楽しみながら科学に親しむことができます。
【科学展示室】体験を通して科学を学べる展示が約100点
【プラネタリウム】プラネタリウムや全天周映画で宇宙の不思議を体験
【各種科学講座】科学実験・工作教室や天体観望会等(開催日や上映時間に注意してね)
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電話番号 | 086-454-0300 |
開館時間 | 9:00~17:15(入館は16:45まで) |
料金 | 【小・中学生】展示室100円 プラネタリウム250円 全天周映画250円/【高校生】展示室100円 プラネタリウム350円 全天周映画410円/【大人(65歳以上無料)】展示室410円 プラネタリウム500円 全天周映画500円 (プラネタリウム座席数:160席) |
所在地 | 倉敷市福田町古新田940 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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高梁市備中町出身の書家・川上景年の業績を顕彰する記念館です。700点に上る所蔵作品の中から毎年展示替えを行い、常時約20点の作品を展示しています。
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電話番号 | 0866-21-1516 |
開館時間 | 10:00~15:00 |
料金 | 大人300円・小人150円 |
所在地 | 高梁市備中町布賀3543-3 |
休館日 | 月・火・水曜日、年末年始 |
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片山家はベンガラ製造と販売で財を成しました。旧片山家住宅は、江戸時代後期に建築され、ベンガラ屋としての店構えを残す主屋とベンガラ製造に関わる付属屋が敷地内に立ち並んでおり、「近世弁柄商家の典型」として国の重要文化財に指定されています。
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電話番号 | 0866-29-2205 |
開館時間 | 4月~11月10:00~17:00 12月~3月10:00~16:00 |
料金 | 大人500円・小中学生250円(吹屋ふるさと村郷土館と共通) |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋367 |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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旧片山家住宅 附家相図 | |
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ベンガラ館 | |
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湿地面積3.6haの湿原には、オグラセンノウなどの希少植物や、寒地性植物のリュウキンカなどのほか、我が国固有の植物などが380種以上自生し、「西の尾瀬」とも言われています。これらの植物は「鯉ヶ窪湿生植物群落」として国指定天然記念物に指定されています。
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電話番号 | 0867-94-2347 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 湿原保護協力金200円 |
所在地 | 新見市哲西町矢田4113-101 |
休館日 | 11月~4月中旬 |
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外観は商家の蔵をイメージし、館内には旧新見藩主関家にまつわる資料を展示しています。「御殿町づくり」事業のシンボル施設として建てられました。
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電話番号 | 0867-72-6660 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 新見市新見858 |
休館日 | 日曜日、土曜日、年末年始 |
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近代新見地域の商業の中心地として栄えた中町界隈にあって、その中核的な商家の一つです。明治時代末期の建物で、新見初の百貨店として呉服をはじめ色々な商品を扱っていました。現在は、邸内でイベントを行うなど交流拠点施設として利用されています。
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開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 新見市新見851 |
休館日 | 火曜日、年末年始、祝日 |
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幕末の陽明学者、藩政政治家、また教育者として活躍した山田方谷の偉業を讃えるため、残存する書籍又は資料等を展示しています。
方谷の生き方にふさわしい「誠実・勤勉・清貧・謙譲」などの心を学ぶことができます。
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電話番号 | 0867-98-4059 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 18歳以上300円(身体障害者手帳等をお持ちの方:無料) |
所在地 | 新見市大佐小南323-3 |
休館日 | 月・火曜日(祝日の場合は翌日)、12月28日~1月4日 |
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方谷庵 | |
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方谷の里ふれあいセンター |
高梁市出身の歌人で、書と画を加えた三芸による独自の芸術を作り出した清水比庵の作品を展示しています。
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電話番号 | 0866-22-1040 |
開館時間 | 9:00~18:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 高梁市原田北町1212 |
休館日 | 火曜日(祝日の場合は翌日)、12月31日~1月3日 |
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清水比庵記念室 |
戸川家陣屋跡の書物蔵を改修した館内には、旗本戸川家の代々受け継がれてきた歴史資料や、昔の民具などが展示されています。町指定史跡の陣屋跡には、石橋や堀の一部も残されています。
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電話番号 | 086-482-1511 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 早島町早島1292 |
休館日 | 月曜日~土曜日(日曜・祝日のみ開館)、年末年始 |
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花ござや中継表の手織り技術の保存と敬称を図るため、毎週火曜日と金曜日の午後「花ござ手織り技術保存会」により、手織りの実演が行われています。また、ミニ機による手織り体験もできます。※要予約
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電話番号 | 086-482-1511 |
開館時間 | 13:30~15:30 |
料金 | 無料 |
所在地 | 早島町前潟240 |
休館日 | 月・水・木・土・日曜日、年末年始 |
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城下町の町人地区にあたる高梁市本町に位置し、高瀬舟の船主、醤油製造販売で財を成した高梁屈指の豪商・池上家の邸宅です。現在は無料休憩所として公開されています。
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電話番号 | 0866-21-0217 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 高梁市本町94 |
休館日 | 12月28日~1月3日 |
石火矢町ふるさと村の中にある現存する武家屋敷です。旧折井家は、江戸時代後期に、160石取りで、馬回り役を務めた武士の旧宅であり、漆喰壁の格式が漂っています。庭に面して資料館があり、備中松山藩ゆかりの甲冑などが展示されています。
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電話番号 | 0866-22-1480 |
開館時間 | 4月~9月 10:00~17:00 10月~3月 10:00~16:00 ※変更の可能性あり |
料金 | 大人500円・小中学生250円(武家屋敷旧埴原家と共通) |
所在地 | 高梁市石火矢町23-2 |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
石火矢町ふるさと村の中にある現存する武家屋敷です。旧埴原家は、江戸時代中期から後期にかけて、120~150石取りで、近習役や番頭役を務めた武士の旧宅であり、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい建築であり、市の重要文化財に指定されています。
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電話番号 | 0866-23-1330 |
開館時間 | 4月~9月 10:00~17:00 10月~3月 10:00~16:00 ※変更の可能性あり |
料金 | 大人500円・小中学生250円(武家屋敷旧折井家と共通) |
所在地 | 高梁市石火矢町27 |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
センターの位置する高梁市中井町は、幕末の備中松山藩の藩政改革を行うとともに教育者として知られる山田方谷の生誕地であり、方谷ゆかりの資料を展示しています。またセンターの近くには、方谷のお墓があり、方谷園として整備されています。
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電話番号 | 086-628-2001 |
開館時間 | 平日8:30~17:00 日曜日9:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 高梁市中井町西方3158 |
休館日 | 土曜日・祝日・年末年始 |
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山田方谷記念館 |
国内外の漫画約12万冊を収蔵する漫画専門の美術館です。話題の最新刊も随時入荷。猫マンガコーナーや岡山出身漫画家コーナーが人気。展示エリアでは、漫画家の原画展示もあります。
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電話番号 | 0866-48-3664 |
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
料金 | 一般500円・高大学生400円・小中学生300円 |
所在地 | 高梁市川上町地頭1834-1 |
休館日 | 金曜日(祝日の場合は前日)、年末年始 |
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大山康晴十五世名人は西阿知町に生まれ、5才のころから将棋をおぼえ、12才で将棋の道に入り、人一倍の努力により将棋界のナンバーワンになり、通算124回も優勝しました。優勝カップや写真を展示しています。和室では、小・中学生の将棋教室などが行われています。
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電話番号 | 086-434-0003 |
開館時間 | 9:00~17:15 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市中央1-18-1 |
休館日 | 水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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ごみ減量とリサイクルの推進を呼びかけていくために平成16年に造られました。館内にはリサイクルに関する展示物がたくさんあります。館外には廃食用油をリサイクルしてバイオディーゼル燃料(BDF)を作る設備があります。
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電話番号 | 086-470-6681 |
開館時間 | 9:00~17:15 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市児島小川町3697-4 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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このビジターセンターは、鷲羽山を訪れる人々が、瀬戸内海国立公園の自然を楽しむとともに、自然のしくみや、自然と人とのかかわりを正しく理解できるよう、いろいろな展示がされています。(鷲羽山の自然と歴史を学ぶコーナー、瀬戸大橋コーナーなど)
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電話番号 | 086-479-8660 |
開館時間 | 4月~9月 9:00~17:00、10月~3月 9:00~16:30 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市下津井田之浦1-2 |
休館日 | 12月29日~1月3日 |
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薄田泣菫は、明治30年から40年にかけてすばらしい詩を数多く発表し、大正時代以降は随筆の分野で多くの読者を魅了しました。泣菫が生活していたこの家には、彼の詩集・原稿(複製)などが展示されています。
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電話番号 | 086-446-4830 |
開館時間 | 9:00~16:30 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市連島町連島1284 |
休館日 | 月曜日、年末年始 |
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農具などを中心とした地域の民俗資料を保存・展示しています。ひと昔前の農家の生活や農耕の様子を知ることが出来ます。
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電話番号 | 086-455-9253 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市福田町古新田1209-1 |
休館日 | 月・木・金曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館)12月28日~1月4日、その他 |
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倉敷市内で発見された、大昔の石器・土器・貝塚、弥生時代(約2,000年前)の復元住居などを展示しています。このほかに、専門職員の作業風景の見学や、考古学に関するパズルなどを楽しむことができます。また、夏休みには、古代のものづくり体験講座も開催しています。
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電話番号 | 086-454-0600 |
開館時間 | 9:00~17:15 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市福田町古新田940 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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建物は大正4年に倉敷幼稚園の園舎として建てられました。当時としては、珍しい八角形の遊戯室のある建物を残すため、この地に資料館として生まれかわりました。幕末から現代までの教科書や、学校で昔使われた道具などを展示しています。
電話番号 | 086-422-7239 |
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開館時間 | 9:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市西中新田669 |
休館日 | 月曜日(祝日の時は開館し、翌日が休館) |
磯崎眠亀は天保5(1834)年、茶屋町に生まれました。発明の才に富んだ彼は様々な発明をしましたが、その1つが郷土特産のい草を使った錦莞莚(花莚)です。明治時代に数多く輸出され、海外で大好評でした。国の登録有形文化財である現在の記念館(旧住宅兼研究所)にも奇抜な発想がしのばれます。記念館と錦莞莚は、平成29年に日本遺産になりました。
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電話番号 | 086-428-8515 |
開館時間 | 9:00~16:30 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市茶屋町195 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、その他 |
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本陣と脇本陣が残り、宿場町として栄えた町並みと調和する町家風美術館。シンボルの水見やぐらからは町並みが一望でき、町木の赤松による梁組が美しいロビーは心和む空間となっています。矢掛町出身の書家・田中塊堂と洋画家・佐藤一章をはじめ、郷土出身作家の作品を中心に展示しています。
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電話番号 | 0866-82-2110 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 一般200円 中・高生100円 小学生50円 |
所在地 | 矢掛町矢掛3118-1 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、展示替え期間 |
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江戸時代真備地区を治めていた岡田藩の古文書を公開しています。当時の藩の様子や村人のくらし、災害を防ぐ工夫など先人の足跡にふれることができる施設です。また、真備地区ゆかりの推理作家、横溝正史の資料を展示する「横溝正史コーナー」も設けています。
電話番号 | 086-698-8433 |
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開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市真備町岡田610 |
休館日 | 月・木・金曜日、年末年始、その他 |
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真備ふるさと歴史館 |
推理小説作家としてたいへん有名な横溝正史とその一家は昭和20年はじめ、東京から当時の岡田村・桜に疎開してきました。横溝正史はこの地で足かけ4年過ごし、その間に日本初の本格推理小説を書きたいと構想を温めました。名作「本陣殺人事件」と金田一耕助はこの家で誕生しました。
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電話番号 | 086-698-8558 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
所在地 | 倉敷市真備町岡田1546 |
休館日 | 月・木・金曜日、年末年始 |
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奈良時代、遣唐使として活躍し、日本の文化の発展のために力を尽くした吉備真備の業績をたたえ、まきび公園内に昭和63年に開館しました。建物は、四隅がぐんと反り上がった屋根を朱塗りの柱が支える構造で、中国情緒を漂わせています。展示室では、写真やパネルなどで吉備真備に関する歴史を紹介しています。
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電話番号 | 086-698-7621 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市真備町箭田3652-1 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、その他 |
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吉備公ゆかりの地 |
西爽亭と呼ばれ親しまれている旧柚木家住宅は、江戸時代中期に建てられた建物です。西爽亭は、かつて備中松山藩に仕え、庄屋を務めた柚木家の住宅で、御成門・湯殿・便所等が残されており、当時の様子を知ることができます。
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電話番号 | 086-522-0151 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市玉島3丁目8-25 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、その他 |
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玉島にゆかりのある日本画家・池田遙邨と洋画家・坂田一男の業績を紹介する展示室です。ここでは二人の生涯をパネル解説で、主な作品や作家の言葉をモニター映像で見ることができます。また、愛用していた筆やパレットなどの貴重な資料も展示しています。
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電話番号 | 086-526-1400 |
開館時間 | 9:00~22:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市玉島阿賀崎1-10-1(玉島市民交流センター内) |
休館日 | 5・8・11・2月の第4月曜日(祝日または振替休日の時は、その翌日)年末年始 |
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坂田一男 |
昭和5年、大原孫三郎によって建てられた美術館で、エル・グレコ、モネ、ルノワール、マティス、ピカソなどの作品を本館に展示しています。ひときわ目を引くギリシャ神殿風の本館建物は倉敷美観地区の中心となっています。本館の他にも、日本の近代美術などを展示する分館、工芸・東洋館、また倉敷アイビースクエア構内の児島虎次郎記念館があります。
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電話番号 | 086-422-0005 |
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
料金 | 小・中学生500円 大人1300円(いきいきパスポート利用の場合は付き添い2名まで一人1100円) |
所在地 | 倉敷市中央1-1-15 |
休館日 | 月曜日(祝日開館)12月28日~12月31日(夏休み、10月は月曜日も開館) |
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大原總一郎 | |
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倉敷の礎を築いた大原孫三郎 | |
旧第一合同銀行倉敷支店 | |
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井原市内の遺跡で出土した埋蔵文化財を中心とした常設展示のほか、企画展を開催し、文化財を紹介しています。また、さまざまな体験講座、文化財めぐりなどを開催し、井原市の歴史を学習できる施設です。
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電話番号 | 0865-65-2706 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 笠岡市山口1457-8 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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笠岡市出身の日本画家、小野竹喬の偉大な業績を称え、その功績を永く後世に伝承するために、昭和57(1982)年10月に開館しました。平成13(2001)年3月には新館が開館し、竹喬芸術の殿堂として、竹喬の作品はもとより、竹喬に関するさまざまな資料を収集公開しています。
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電話番号 | 0865-63-3967 |
開館時間 | 9:30~17:00 |
料金 | 高校生以下、65歳以上無料・一般500円(特別展中は特別料金) |
所在地 | 笠岡市六番町1-17 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、陳列替期間中、年末年始 |
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竹喬美術館 | |
笠岡で生まれた日本画家小野竹喬 |
市内の考古・民俗資料を展示しています。大飛島から出土した奈良三彩の小つぼ、和銅開珎(わどうかいちん)、唐花文六花鏡、また笠岡湾干拓地の工事で発見された銅戈(どうか)などの資料は全国的にも非常に貴重です
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電話番号 | 0865-63-7600 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 小中学生20円 一般50円(65歳以上無料) |
所在地 | 笠岡市笠岡5628-10 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、陳列替期間中、年末年始 |
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大飛島洲の南遺跡 | |
大飛島の砂洲 |
昭和の偉大な漢詩人「阿藤伯海」を顕彰する公園です。修復した生家を中心に、吉備真備を顕彰した絶筆の詩碑を有する「記念広場」、古代の蓮として知られる大賀蓮が植わる「蓮池」、遙照山系を望み広く展望の開けた梅園「流芳の丘」を整備しています。
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電話番号 | 0865-44-9255 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 一般100円 小・中学生50円 |
所在地 | 浅口市鴨方町六条院東2385 |
休館日 | 月曜日、火曜日、祝日、年末年始 |
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まきび記念館 |
旧芳井町内を中心に数多く残る歴史資料の保存・展示を行うほか、雪舟・阪谷朗廬・内山完造など井原市ゆかりの偉人についてわかりやすく展示しています。また、年に1回ずつ開催される特別展と企画展では、井原市の人物や歴史などをテーマにした展示を行っています。
電話番号 | 0866-72-1324 |
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開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 井原市芳井町吉井4110-1 |
休館日 | 月曜日・木曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始 |
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興譲館(動画) | |
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桜渓塾 | |
雪舟 |
井原市内の遺跡で出土した埋蔵文化財を中心とした常設展示のほか、企画展を開催し、文化財を紹介しています。また、さまざまな体験講座、文化財めぐりなどを開催し、井原市の歴史を学習できる施設です。
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電話番号 | 0866-63-3144 |
開館時間 | 9:00~16:30 |
料金 | 無料 |
所在地 | 井原市井原町333-1 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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井原市出身の近代彫刻界の巨匠・平櫛田中の作品を中心に、田中と関係の深い日本美術院の作家や平櫛田中賞受賞作家の作品を展示しています。※令和5年4月18日リニューアルオープン。
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電話番号 | 0866-62-8787 |
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
料金 | 一般500円・団体割引あり・高校生以下、市内在住の65歳以上、身体障がい者手帳等をお持ちの方は無料(特別展は別料金) |
所在地 | 井原市井原町315 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、展示替え期間 |
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田中美術館 | |
彫刻界の巨匠・平櫛田中 |
埋蔵文化財学習の館では、総社市内で出土した考古遺物(地中に残された昔の人が使っていたさまざまな道具)を保管し、その一部を展示公開しています。展示室では、遺物のほか、鬼ノ城や古代の製鉄遺跡の模型なども見ることができます。
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電話番号 | 0866-93-8071 |
開館時間 | 9:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 総社市南溝手265-3 |
休館日 | 土曜、日曜、祝日、年末年始 |
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鬼城山ビジターセンター | |
鬼ノ城(動画) | |
鬼ノ城 |
古代山城の鬼ノ城のガイダンス施設で、城全体や西門の模型、説明パネルを展示しています。また、鬼城山周辺の恵まれた自然と歴史とのふれあいと、文化財保護と自然学習を進めるための拠点施設でもあります。
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電話番号 | 0866-99-8566 |
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
料金 | 無料 |
所在地 | 総社市黒尾1101-2 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始 |
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埋蔵文化財学習の館 | |
鬼ノ城(動画) | |
鬼ノ城 |
明治の頃のベンガラ工場が当時の姿に復元されたもので、ベンガラの製造工程を知ることができます。近代化産業遺産群に指定されています。
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電話番号 | 0866-29-2205 |
開館時間 | 4月~11月 10:00~17:00、12~3月 10:00~16:00 |
料金 | 大人300円・小中学生150円 |
所在地 | 高梁市成羽町吹屋86 |
休館日 | 火水木金(通年・祝日は開館)、12月29日~1月3日 |
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旧片山家住宅 附家相図 | |
吉岡鉱山専用軌道(成羽トロッコ道) | |
吹屋ふるさと村 | |
吹屋の町並み |
倉敷の代表的な米倉を改装した建物です。館内には日本の民芸品を中心に世界の民芸品、焼き物、染め織物、ガラス、かごなど約800点を陳列しています。それらは、日常生活の中でなに気なく使われている日用品が素朴で健康的な美しさをもつことを教えてくれます。
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電話番号 | 086-422-1637 |
開館時間 | 3月~11月9:00~17:00(入館は16:45まで) 12月~2月9:00~16:15(入館は16:00まで) |
料金 | 小・中学生300円 大人700円(いきいきパスポート利用の場合は付き添い2名まで一人400円) |
所在地 | 倉敷市中央1-4-11 |
休館日 | 月曜日(祝日開館)12月29日~1月2日 |
平成26年4月に開館。文化勲章を受章された、かな書家の高木聖鶴氏の作品を展示した常設展示室、周辺の歴史遺産を解説するガイダンスコーナー、一般利用も可能な展示室があります。展示室では、随時収蔵品を中心とした企画展を実施しています。
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電話番号 | 0866-93-2219 |
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
料金 | 無料 |
所在地 | 総社市上林1252 |
休館日 | 月曜日、年末年始 |
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タンチョウの保護と繁殖を目的にした施設です。国民宿舎サンロード吉備路に隣接しています。野外飼育場やタンチョウについて学べる学びの家(研修棟)などがあります。四季折々の自然を楽しみながら、美しいタンチョウの姿を見ることができます。
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電話番号 | 0866-90-2431 |
開館時間 | 8:30~17:15(受付は17:00まで) |
料金 | 無料 |
所在地 | 総社市三須825-1 |
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暮らしの中で伝承されてきた生活用具・民具をはじめ、土師器の系統を継ぐ素朴な素焼き“大原焼き”、“麦稈真田”などが展示されています。また、世界的な物理学者である仁科芳雄博士や鉄道大臣などを歴任した小川郷太郎先生の遺品も一同に展示しています。
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電話番号 | 0865-64-5465 |
開館時間 | 9:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 浅口郡里庄町新庄2405 |
休館日 | 毎月第1・第3日曜日のみ開館 |
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里庄町歴史民俗資料館 | |
日本の原子物理学の父仁科芳雄博士 | |
仁科芳雄博士生家 | |
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仁科会館 |
樹齢は約400年と推定され、目通りは2.3m、樹高は10m、県下の現存ツバキの中でも古い部類に属する。所有者の西林家は、備中神楽(国指定重要無形民俗文化財)の創始といわれている西林要人、号は國橋の生家である。この西林邸では、現在も7年ごとに大神楽が舞納されており、邸前の大ツバキも神楽のツバキとして土地の人々から敬意の念をもってみられている。
所在地 | 高梁市落合町福地3084 |
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倉敷アイビースクエア内にある大原美術館の別館で、児島虎次郎室では、大原コレクションに活躍した画家・児島虎次郎の作品を、オリエント室では、児島が収集した古代エジプト美術などを中心にオリエント美術品を展示しています。倉敷紡績の倉庫を改装し、展示室として開館されました。
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電話番号 | 086-422-0005 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 小・中・高500円 大人1300円 |
所在地 | 倉敷市本町7-1 |
休館日 | 毎週月曜日(祝日は開館) |
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千屋牛の里ゆうゆうセンター内の「和牛レストランふゆさと」に隣接した資料館。裏には千屋牛を飼っている小屋(この施設とは無関係)があります。千屋牛の歴史や、太田辰五郎の肖像画等を観ることができます。
電話番号 | 086-777-2635 |
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開館時間 | 11:00~15:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 新見市千屋実1428-1 |
休館日 | 毎週火曜日、水曜日 |
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新見藩と関係が深く、藩主である関氏一族(藩主の墓碑は新見の西来寺と東京都港区の瑞聖寺)や家臣、丸川松隠(漢学者)などの墓碑が建立されています。
所在地 | 新見市新見2348 |
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山田方谷も師事した儒学者丸川松隠 |
里庄町出身の世界的な物理学者である仁科芳雄博士を顕彰するために、当時の写真や手紙、そして実験装置の模型や展示パネルなどの資料を展示しています。また、次代を担う青少年に科学する心を育むために、科学講演会、ロボットコンテストなどの事業を展開しています。
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電話番号 | 0865-64-4888 |
開館時間 | 9:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 浅口郡里庄町浜中892-1 |
休館日 | 毎週月曜日及び第3日曜日、年末年始 |
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仁科芳雄博士が高等小学校を卒業するまで過ごした屋敷です。岡山県南に見られる江戸後期の庄屋建築の特長をよく残しています。昭和53年、仁科博士の長兄の子孫から生家の土地屋敷を一括譲り受け、解体修復し、一般に公開しています。
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電話番号 | 0865-64-4888 |
開館時間 | 10:00~16:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 浅口郡里庄町浜中717 |
休館日 | 月曜日~土曜日、年末年始 |
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二松学舎大学の創設者である三島中洲の誕生地に、思想功績を知ってみらいたい創設者の誕生地として後生に伝えようと、昭和59年に二松学舎大学が石碑をたてました。
所在地 | 倉敷市中島676-24 |
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歴史美術館(文化交流館) |
この旧倉敷天文台スライディングルーフ観測室は、大正15(1926)年に原澄治(倉敷市名誉市民)の資力と京都帝国大学教授山本一清の支援により、日本最初の民間天文台として建てられたもので、内部には当時、我が国では最大級となる英国ホルランド社製の口径32cmの天体望遠鏡(倉敷市指定重要文化財)が設置されました。本田實(倉敷市名誉市民)も、この観測室で星の観測を行いました。科学史上においても貴重な建物であることから、平成13(2001)年8月28日に国の登録有形文化財に登録され、本田實生誕100年となる平成25(2013)年に、この観測室を公益財団法人倉敷天文台から譲り受け、創立当時に近い姿で、それまであった中央二丁目19-10から、ライフパーク倉敷に移築・復元を行いました。
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電話番号 | 086-454-0300(倉敷科学センター) |
開館時間 | 9:00~17:15 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市福田町古新田940 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
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原澄治・本田實記念館 |
倉敷天文台は大正15(1926)年、元倉敷町長である原澄治が「広く一般的に天文知識を普及するため」に創設した日本で一番古い民間の天文台です。本田實は、この天文台に在任中数多くの「新しい星」「新しい彗星」を発見しました。倉敷天文台の歴史と本田實の研究・功績を紹介した記念館で倉敷天文台と同じ敷地内にあります。
電話番号 | 086-422-4589 |
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開館時間 | 月・水・金13:00~17:00(原則) |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市中央町2-19-10 |
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寺伝によると、奈良時代に行基によって開基されたとつたえられています。その後、本元禄11(1698)年に徳翁良高禅師によって再興された曹同宗寺院で、代々の住職には名僧多く、特に第十世大忍国仙和尚の代、若き日の良寛和尚が十数年修行された禅寺として全国に広く知られています。石組の庭と葦屋根の荘重な伽藍が配置された境内や隣接する円通寺公園では、桜をはじめ四季折々の花々を楽しむことができます。また、良寛の石像や多くの詩碑・歌碑があります。
電話番号 | 086-522-2444 |
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所在地 | 倉敷市玉島柏島451 |
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木工芸の人間国宝大野昭和斎が晩年の10年余りを過ごした旧宅に作品や愛用の品々を展示しています。館内の展示ケースには、玉椿杢目沈金香盒(たまつばきもくめちんきんこうごう)や蔦杢目沈金香盒(つたもくめちんきんこうごうなど6点が展示されています。
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電話番号 | 086-466-2533 |
開館時間 | 9:00~16:30 |
料金 | 無料 |
所在地 | 倉敷市西阿知町1144-12 |
休館日 | 月~金曜日(祝日以外)・年末年始 |
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石見銀山開発の功労者である安原備中守の供養塔です。早島町塩津の出身だった備中はこの功績によって徳川家康から胴服と扇子を賜わりました。備中守の徳を伝えるために、その子孫が寛永12年に建立したとされる供養塔。
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所在地 | 都窪郡早島町早島124 |
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石見銀山を再興した安原伝兵衛 |
高梁基督教会は明治15(1882)年4月に成立した。教会堂は明治22(1889)年9月に建てられ、現存する県内最古の教会堂で、プロテスタントとしては全国でも同志社のチャペルに次いで古い教会堂である。高梁で最初の擬洋風建物で、建物面積は231㎡、愛媛県今治市の吉田伊平により設計、施工された。木造、平屋建、切妻造、桟瓦葺、妻飾りに瓔珞(ようらく)様の板飾りをつけ、壁は下見板張り、ペンキ塗りである。ゴシック様式の窓は上げ下げ窓にし、上に三角形のあかり窓をつけている。基礎は布基礎、正面車寄二階は菱組天井・漆喰塗の軒蛇腹・フルーティングを持つトスカナ式風の二本柱が寄棟の屋根を支えている。鐘楼は県史跡指定の通知を記念し、昭和28(1953)年に旧札幌農学校の時計台を模して付け加えられたものである。実際の指定は昭和34(1959)年になる。県下初の女学校・順正女学校を創設した福西志計子や社会福祉事業家の留岡幸助らを育てた教会でもあります。
電話番号 | 086-622-3311 |
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開館時間 | 8:30~17:30 |
料金 | 無料 |
所在地 | 高梁市柿木町 |
休館日 | 日曜日の午前中は見学不可 |
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留岡幸助 | |
社会福祉の先駆者留岡幸助 | |
高梁基督教会堂付近 | |
高梁基督教会堂(動画) |
小田川を眼下に望み、矢掛の町並みが一望できる嵐山公園。市街中心部の南に位置し、桜と楓の生い繁る高さ約100mほどの山頂に広がっています。山腹にはジグザグとした遊歩道が設けられていて、春は桜、秋には紅葉を楽しむことができます。特に桜のお花見スポットとして地元では有名。夜には、美しい夜桜が堪能できます。
所在地 | 小田郡矢掛町里山田1022-1 |
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この建築は日本式木造灯明台で、野浜と赤崎浜境の入江の埠頭にあり、文久3年(1863)に塩釜明神の御神燈として、また、浜へ出入りする船の夜間照明のための灯台として建てられました。この地は野崎武左衛門が創始した塩田地帯の東端に当たり、かつては野崎浜と呼ばれ、塩の積出しをする船着場になっていました。こうした木造高灯籠形式のものは全国的にも少なく、西洋式灯台に変わる以前の灯台を知ることができる資料として、貴重な遺構となっています。
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江戸時代に塩づくりで成功した野崎武左衛門が天保4年頃から建てた民家です。約3000坪の敷地には、枯山水の庭園、長さ42mの建物、蔵、茶室、水琴窟があり、国の重要文化財に指定されています。蔵の中などで、昔と今の塩づくりが学べたり、昔の生活道具などが見学できます。予約すれば塩づくり体験もできます。
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電話番号 | 086-472-2001 |
開館時間 | 9:00~16:30 |
料金 | 小・中学生300円 大人(高校生以上)500円 土・日・祝は高校生以下無料 |
所在地 | 倉敷市児島味野1-11-19 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)・12月25日~1月1日 |
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旧野崎浜灯明台 | |
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野﨑家別邸迨暇堂主屋ほか | |
野﨑武左衛門翁旌徳碑ほか |
江戸後期に建築された商家の土蔵を改装して開館しました。吉備地方の出土品を中心とした日本の考古資料を収集、展示しています。考古学の調査、研究においても役立っています。また柳並木に生える考古館は美観地区の代表的な景観です。
開館時間 | 3~11月9:00~17:00(入館は16:30まで)12~2月9:00~16:30(入館は16:00まで) |
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所在地 | 倉敷市中央1-3-13 |
休館日 | 月・火曜日(祝日開館)・12月29日~1月2日 小・中学生200円・大人400円 (いきいきパスポート利用の場合は付き添い2名まで一人250円) |
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倉敷町屋の代表的なものとして国の重要文化財に指定されています。寛政7(1795)年に主屋の建築が着工され、その後座敷部分が増築され、その先には広い庭が続いています。主屋は本瓦葺、厨子二階建てで、屋根は一見入母屋造に見えますが、実際には切妻造りで妻側に付庇を設けた庇付き切妻屋根となっています。また倉敷窓、倉敷格子といった倉敷独特の意匠も備えています。蔵は土蔵造りで、外壁は腰に瓦を張りつけ、目地を白漆喰で盛りあげる『なまこ壁』で仕上げられ、そのコントラストは非常に美しく、倉敷の町並みの景観を特徴づけています。
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倉敷の礎を築いた大原孫三郎 | |
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倉敷紡績創業の明治21(1888)年に、原綿貯蔵用の倉庫として建てられたものです。当初は2棟別々の建物でしたが、明治30年前後の工場増設の際に棟続きに増築され、現在のコの字型平面形になりました。木造煉瓦造の平屋建物で、屋根は寄棟桟瓦葺です。外壁は白漆喰塗で仕上げられており、和風の外観になっていますが、内部はトラス組の小屋組など、西洋の技術が取り入れられています。昭和44年、観光文化施設「倉敷アイビースクエア」を構成する建物の一つとして改装されました。倉敷紡績の歴史を伝える展示施設に生まれ変わり、現在に至っています。
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電話番号 | 086-422-0011 |
開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:45まで) |
料金 | 学生500・大人700円 |
所在地 | 倉敷市本町7-1 |
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古代の英傑・吉備真備公ゆかりの地。下道氏の墓は矢掛町東三成に所在する国指定の史跡(指定年月日:1923(大正12).3.7)です。元禄12(1699)年に東三成地内の丘陵地から吉備真備の祖母を火葬にし、その遺骨を納めた銅製骨蔵器が発見され、この地が下道氏の墳墓であることが判明しました。下道氏とは古代における吉備地方の豪族で、『古事記』や『日本書紀』にその名がみえ、「朝臣」の姓を中央から与えられた全国の52氏のうちの1氏でした。元来は大和王権の「西道」をおさえる吉備の権勢とされていたと考えられています。下道氏の墓が発見されたことやその他の遺跡や遺物の痕跡から、この一族が高梁川下流西岸の新本川・小田川の流域を中心に活躍した一族であることが分かりました。また、下道氏出身の学者であり、政治家でもあった真備とその子孫が吉備朝臣として中央貴族になることは著名な歴史的事実です。さて、下道氏の墓からは銅製骨蔵器の他、納骨器や和同開珎などが発見されました。火葬をはじめてから、一定の敷地を定めて一族の人々を埋葬する今日の墓地形式が、奈良時代初期から始まったことを示す貴重な例です。また、近年の調査で銅製骨蔵器を覆っていた外容器が須恵質の大甕であったことが再度確認されました。当時の埋葬の風習を知る手がかりとして重要な役割を示すとともに、銅製骨蔵器に和銅元(708)年の銘がはいっていることから外容器の形の年代を特定でき、土器編年を考慮するうえでも貴重な考古資料といえます。
所在地 | 小田郡矢掛町東三成3803-4 |
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笠岡市立図書館には「木山捷平文学コーナー」があり、自筆原稿や写真、愛用品などが展示されています。また、笠岡市山口には現在も生家が残っています。さらに笠岡市内には、生家、市立図書館前庭、古城山公園の3箇所に木山捷平の詩碑・歌碑があります。
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電話番号 | 086-563-1038 |
開館時間 | 9:30~18:00/19:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 笠岡市六番町1-15 |
休館日 | 月曜日・祝日・年末年始ほか |
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木山捷平生家 | |
木山捷平詩碑 |
この石碑は、高さ2.6m、幅1.06mあり、特に「三絶の碑」と呼ばれており、撰文は柴野栗山、篆額は頼春水、碑文は頼杏平で、これら三鴻儒が揃った碑は他に例を見ないものです。その上この建碑を斡旋した人が備後神辺の菅茶山であったことは、拙斎との間柄を示すものとして注目に値します。さらに碑文によれば、近隣よりの会葬者が2,000人にも及んだとあり、拙斎がいかに多くの人々の信望を集めていたかが察せられる貴重な碑です。
所在地 | 浅口市鴨方町鴨方362 |
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赤沢文治は、神様からの頼みを受けて農業をやめ、明治16(1883)年に没するまで、自宅で、参拝者の願いを神様に届け、神様の教えを伝えていきました。その教えは、やがて各地に広まり、現在、文治が過ごした金光町大谷には、金光町の本部があります。
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電話番号 | 086-542-3111(代表) |
開館時間 | 常時開放 |
料金 | 無料 |
所在地 | 浅口市金光町大谷320 |
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金光学園中学高等学校記念講堂 | |
金光教徒社東棟・中央棟・西棟 | |
金光教教学研究所客殿・客殿付属舎・洋館 | |
金光教教学研究所客殿・客殿付属舎・洋館 | |
金光教徒社東棟・中央棟・西棟 | |
金光教祖ご生家 | |
金光学園中学高等学校記念講堂 |
大谷村の庄屋であった小野家の屋敷跡です。12歳で大谷村の川手家に養子に入った文治は13歳、14歳の2年間、当時の当主、小野光右衛門から手習いを受けました。小野光右衛門は、天文、暦数などに秀でた学者で、政治家としてもすぐれた人物でした。
開館時間 | 未定 |
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料金 | 無料 |
所在地 | 浅口市金光町大谷1635 |
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浅口の奇才小野光右衛門 |
現在の建物は昭和8(1933)年に復元されたものですが、もとの建物は、農業を営んでいた頃の赤沢文治が37歳の時に建てた母屋です。文治は、安政6(1859)年に神様の頼みを受けて農業をやめ、自宅であったこの建物で、神様の教えを伝えていきました。
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電話番号 | 086-542-3111 |
開館時間 | 4:30~18:30 |
料金 | 無料 |
所在地 | 浅口市金光町大谷(金光教本部境内) |
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赤沢文治(金光教祖)は、文化11(1814)年8月16日(新9月29日)に、香取十平、しもの二男として生まれ、12歳で養子に出るまで、生家で過ごしました。生家は文治の長兄が継承し、現在もその子孫にあたる方が生活しています。
電話番号 | 0865-42-2177 |
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開館時間 | 不定 |
料金 | 無料 |
所在地 | 浅口市金光町占見646 |
休館日 | 不定 |
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金光教徒社東棟・中央棟・西棟 | |
金光教教学研究所客殿・客殿付属舎・洋館 | |
金光教教学研究所客殿・客殿付属舎・洋館 | |
金光教徒社東棟・中央棟・西棟 | |
金光教本部 | |
金光学園中学高等学校記念講堂 |
精神統一、座禅体験ができる禅寺。洞松寺は横谷に所在する曹洞宗の禅寺。応永19(1412)年に猿掛城主庄氏の帰依を受けた名僧が再興し、室町時代から江戸時代にかけて寺勢を極めました。本堂や山門をはじめとした建物群は、禅宗寺院の典型的な伽藍配置の様相を呈し、町内最大の山門は矢掛町指定重要文化財で、その他の建物群は平成23(2011)年に国の有形登録文化財に指定されました。また、このお寺では一般の人も希望すれば無料で座禅に参加できます(事前に問い合わせください。)
電話番号 | 086-682-0087 |
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所在地 | 小田郡矢掛町横谷3796 |
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洞松寺 | |
洞松寺山門 | |
洞松寺山門 | |
洞松寺 | |
洞松寺 |
笠岡市立図書館には「木山捷平文学コーナー」があり、自筆原稿や写真、愛用品などが展示されています。また、笠岡市山口には現在も生家が残っています。さらに笠岡市内には、生家、市立図書館前庭、古城山公園の3箇所に木山捷平の詩碑・歌碑があります。
所在地 | (生家)笠岡市山口742 (図書館)笠岡市六番町1-15 (古城山公園)笠岡市笠岡2369-1 |
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笠岡市立図書館「木山捷平文学コーナー」 | |
木山捷平生家 |
笠岡市立図書館には「木山捷平文学コーナー」があり、自筆原稿や写真、愛用品などが展示されています。また、笠岡市山口には現在も生家が残っています。さらに笠岡市内には、生家、市立図書館前庭、古城山公園の3箇所に木山捷平の詩碑・歌碑があります。
所在地 | 笠岡市山口742 |
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木山捷平詩碑 | |
笠岡市立図書館「木山捷平文学コーナー」 |
井戸平左衛門の墓は笠岡の曹洞宗威徳寺にあります。威徳寺横の井戸公園では、井戸代官をしのぶ有志により植えられた桜に囲まれて、「井戸明府碑」が立っています。また、笠岡湾干拓地にある「道の駅笠岡ベイファーム」の片隅にも、「井戸明府碑」が近年建てられました。
所在地 | 笠岡市笠岡5418 |
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代官 井戸平左衛門の墓 | |
井戸公園 |
笠岡の古城山公園には、白印の筆による「一如」の碑が立っています。また、笠岡グランドホテル内に併設されたワコーミュージアムでは、白印の作品を楽しむことができます。ワコーミュージアムは入館無料で、笠岡ゆかりの芸術家を幅広く紹介しています。
所在地 | 笠岡市笠岡2369-1 |
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ワコーミュージアム |
笠岡の古城山公園には、白印の筆による「一如」の碑が立っています。また、笠岡グランドホテル内に併設されたワコーミュージアムでは、白印の作品を楽しむことができます。ワコーミュージアムは入館無料で、笠岡ゆかりの芸術家を幅広く紹介しています。
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電話番号 | 086-562-5670 |
開館時間 | 10:00~17:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 笠岡市五番町6-20 |
休館日 | 月曜日 |
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「一如」の碑 |
江戸幕府の直轄地「天領」。物資の集積地として繁栄。町家やなまこ壁の蔵が立ち並び、美しい白壁の町並みを形成している。
実業家。大原美術館、大原奨農会農業研究所、倉敷中央病院、中国電力、倉敷商業高校などを創設、労働問題にも取り組んだ。
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倉敷紡績記念館 | |
旧大原家住宅 | |
大原美術館 |
笠岡市立図書館には、森田思軒顕彰コーナーとして、遺品などが展示されています。思軒の墓は東京都にありますが、笠岡(笠岡小学校裏手)の墓地にも分骨して墓がつくられています。また、生家(笠岡西本町)の建物は失われていますが、その跡地に小さな石碑が立っています。
所在地 | 笠岡本町商店街の一角 |
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笠岡市立図書館「森田思軒顕彰コーナー」 | |
森田思軒墓 |
笠岡市立図書館には、森田思軒顕彰コーナーとして、遺品などが展示されています。思軒の墓は東京都にありますが、笠岡(笠岡小学校裏手)の墓地にも分骨して墓がつくられています。また、生家(笠岡西本町)の建物は失われていますが、その跡地に小さな石碑が立っています。
所在地 | 笠岡市笠岡字小丸1787 |
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森田思軒生家跡地石碑 | |
笠岡市立図書館「森田思軒顕彰コーナー」 |
笠岡市立図書館には、森田思軒顕彰コーナーとして、遺品などが展示されています。思軒の墓は東京都にありますが、笠岡(笠岡小学校裏手)の墓地にも分骨して墓がつくられています。また、生家(笠岡西本町)の建物は失われていますが、その跡地に小さな石碑が立っています。
電話番号 | 086-563-1038 |
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開館時間 | 9:30~18:00/19:00 |
料金 | 無料 |
所在地 | 笠岡市六番町1-15 |
休館日 | 月曜日・祝日・年末年始ほか |
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森田思軒墓 | |
森田思軒生家跡地石碑 |
井戸平左衛門の墓は笠岡の曹洞宗威徳寺にあります。威徳寺横の井戸公園では、井戸代官をしのぶ有志により植えられた桜に囲まれて、「井戸明府碑」が立っています。また、笠岡湾干拓地にある「道の駅 笠岡ベイファーム」の片隅にも、「井戸明府碑」が近年建てられました。
所在地 | 笠岡市笠岡(威徳寺隣) |
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威徳寺 | |
代官 井戸平左衛門の墓 |
花ござ手織りの伝統技術を保存継承する施設。昔ながらの手織りで花ござを織る教室を開催。
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早島町出身。石見銀山を再興し、徳川家康から『備中守』の称号を受領。鶴崎神社の毘沙門堂や吉備津神社の御釜殿などを寄進。
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安原備中守供養塔 |
水墨画を大成した総社市出身の禅僧画家。井山宝福寺には、涙でネズミを描いた逸話が伝わる。作品6点が国宝に指定。
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宝福寺三重塔 | |
宝福寺 | |
井山宝福寺 | |
宝福寺三重塔 |
作山古墳やこうもり塚古墳、備中国分寺、備中国分尼寺跡など、貴重な文化財が数多くあり、歴史的景観が広がる地域。
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備中国分寺跡建物群(庫裏 裏書院 経蔵) | |
備中国分寺 | |
作山古墳 |
「日本の原子物理学の父」と呼ばれる物理学者。「クライン・仁科の公式」を導出。理化学研究所仁科研究室を主宰した。
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里庄町歴史民俗資料館 | |
仁科芳雄博士生家 | |
仁科会館(科学振興仁科財団) | |
仁科芳雄博士生家 |
里庄町の特産品。イネ科の多年草「まこも」の肥大化した茎。シャキシャキとした触感が特徴で中華料理では高級食材とされる。
笠岡市生。近現代日本画壇を代表する画家。日本の自然の美しさを描き続けた。文展の特選受賞など、数々の名作を残す。
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笠岡市立竹喬美術館 |
笠岡市は養鶏と製麺が盛んな土地。鶏がらスープと煮鶏を使った笠岡ラーメンが親しまれる。魚介スープをあわせたものもある。
浅口市は天体観測に適した地。岡山天体物理観測所・岡山天文博物館があり、京大・岡山・3.8m新技術望遠鏡も建設される。
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岡山天文博物館 |
金光町の庄屋。政治・和算・暦・地図測量・天文観測と多くの業績を残す。和算の入門書「啓廸算法指南大成」も出版した。
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小野家庄屋跡 |
矢掛町名誉町民。流麗なかな文字の書家として活躍。日本書道界の重鎮として芸術、文化の向上に大きく貢献した。
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やかげ郷土美術館 | |
やかげポケット水族館 |
宿場町としての面影を残す街並みのシンボル。参勤交代時に大名等の宿泊場所として使われた。当時の資料も多数残る。
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旧矢掛本陣石井家住宅 | |
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旧矢掛脇本陣高草家住宅 |
江戸時代後期の儒学者。新見藩校・思誠舘の督学に就任し、山田方谷など多くの人材を育てた。政治参与としても活躍。
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丸川松隠 | |
JR伯備線方谷駅駅舎 | |
雲居寺 | |
方谷庵 | |
方谷橋 | |
山田方谷記念館 |
室町時代の新見庄は相国寺と東寺の荘園。国宝「東寺百合文書」の中に「たまがき書状」を含む約2000点の関連資料がある。
宗教家、社会福祉家。伝道者ケレーの話に感激し、牧師や教誨師として伝道や犯罪者の救済に努め、感化院、家庭学校を創立。
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高梁基督協会 | |
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高梁基督教会堂付近 |
国重要文化財。現存天守を持つ山城では最も高い位置にある。雲海に浮かぶ天守の様子から「天空の山城」と呼ばれる。
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備中松山城 | |
備中松山城 | |
備中松山城御根小屋跡 | |
備中松山城跡 |
美星町は星が美しく見える町。光害防止条例で星空を守る。七夕の日などは天の川を見ようと夜遅くまで見物客で賑わう。
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岡倉天心に師事。写実的な作風で日本近代を代表する彫刻家の一人。代表作は「鏡師子」。1962年文化勲章を受章。
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田中美術館 |
恐れ入ります。該当する情報がありません。
所在地 | 新見市哲西町大野部4584-1 |
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穴場神社は、1798年に愛媛県大三島町大山祇神社から分霊した盤長姫を祀ったことが始まりと伝えられています。
電話番号 | 086-425-4898 |
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所在地 | 倉敷市本町12-1 |
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所在地 | 倉敷市船穂町柳井原1322 |
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足高神社は、約2000年前の崇神天皇の時代に創建されたと伝えられています。当社に残る一番古い書物は、平安時代・醍醐天皇延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳です。この中に備中18社の1に数える最古社であるとわかる記載があります。
電話番号 | 086-425-7292 |
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所在地 | 倉敷市笹沖1033 |
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熊野神社は、後三条天皇の発願により創建された神社で、鳥居には天皇直筆の勅額があったと伝えられています。それらのことが書かれた書類や鳥居は、天正年間(1573~1592年)の火災で焼失したといわれています。
電話番号 | 086-465-6275 |
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所在地 | 倉敷市西阿知町450 |
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熊野神社本殿(第一~六殿) 6棟 | |
新熊野山 |
倉嶋神社は、海神系の神社で宗像神を主祭神としています。宗像神が、古代に日本海沿岸伝いに東進を続け、出雲大社に祀られ、出雲文化の浸透に伴い、国主神社が勧請されたと軌を一にして、現在の地にも祀られることになったものとされています。
所在地 | 新見市千屋995 |
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亀尾神社は十二社権現ともいわれており、創建由緒などは定かではないが、大山権現が勧請され、大山信仰この地に広まったことが契機ではないかと考えられる。亀尾神社の名の由来は神社のある小高い丘が亀の形に似ていることからともいわれています。
所在地 | 新見市神郷高瀬2439 |
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宮座【氷室神社】 |
氷室神社には、久久紀若室葛根命(ククキワカムロツナネノミコト)を主祭神とし、相殿には仁徳天皇が祀られています。氷室神社の近くには備中国府に運ぶための氷室が幾つかあったことや、付近に三室といった地名があったことが、氷室神社の名の由来になったと考えられています。
所在地 | 新見市神郷高瀬1243 |
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宮座【亀尾神社】 |
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所在地 | 新見市哲西町上神代1196 |
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日咩坂鍾乳穴神社は、古くより霊地として崇拝されていた日咩坂鍾乳穴の大洞穴の真上に、約1300年前の天平勝宝2年(750年)に造営されたと伝えられている。その後、本宮の東方平地(現在地)に社殿を造営し、文化12年(1815年)に本殿を再建立したとされている。
所在地 | 新見市豊永赤馬6352 |
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日本一の親子孫水車が並んでおり、「紙の館」では、備中北部で古くから伝わる奥備中神代和紙の歴史を学ぶことができます。また、紙すき体験ではオリジナルのうちわやはがきを作ることもできます。※紙すき体験:うちわ600円、色紙500円、はがき300円
電話番号 | 0867-92-6577 |
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開館時間 | 9:00~17:00 |
所在地 | 新見市神郷下神代1977-1 |
休館日 | 毎週水曜日 |
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太鼓田植【きらめき広場】 |
きらめき広場は、道の駅「鯉ヶ窪」に隣接して整備した複合公共施設として平成13年(2001年)に建てられました。市支局・図書館・生涯学習センター・文化ホール・医療施設等を集約整備されており、地域・コミュニティの核としての役割を担っています。
電話番号 | 0867-94-2111 |
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開館時間 | 9:00~22:00 |
所在地 | 新見市哲西町矢田3604 |
休館日 | なし |
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太鼓田植【夢すき公園】 |
石井家は江戸時代初期から山陽道矢掛宿の本陣職を努め、宝永5年(1708)以降代々大庄屋を努めた旧家で、元禄頃から酒造業を営んでいた。屋敷は旧山陽道に面し、間口20間(36.4m)、敷地面積959坪(3164㎡)で、本陣の座敷・御成門と石井家の主屋などからなっている。
電話番号 | 0866-82-2110(郷土美術館) |
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開館時間 | 9:00~16:00(3月~10月:17:00まで) |
料金 | 高校生以上400円、小中学生200円(団体割引あり) |
所在地 | 小田郡矢掛町矢掛3079 |
休館日 | 月曜日(月曜日が祝日等の場合はその翌日)・年末年始 |
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矢掛本陣・矢掛脇本陣 |
貴布禰神社は京都の貴船神社の祭神を元禄年間に分祀したと伝えられ、板倉摂津守の祈願所だった。現在は病気回復、戦中は兵士の無事を祈願していた。
画像提供 | 佐藤道晴氏 |
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所在地 | 小田郡矢掛町江良1807 |
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鴻八幡宮は、約1300年前の大宝元年(701年)に創建されたと伝えられている。古来から琴浦地区の総氏神として広く信仰されていた。この宮は古くは鴻の宮と言い、鴻の鳥と大蛇の伝説が「備陽記」「和気絹」などに伝えられている。
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電話番号 | 086-472-3125 |
所在地 | 倉敷市児島下の町7-14-1 |
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鴻八幡宮祭りばやし(映像資料) |
岩山神社は、約1100年前の寛平元年(889年)に、伊勢大神宮及び出雲杵築大社八雲山大神を勧請し、黒岩山中に造営されたと伝えられている。もと三十八社岩山大明神といい、周辺地域に散在する三十八社を末社とする総代神である。
所在地 | 新見市唐松3286 |
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綱之牛王神社は、その名のとおり、牛馬の守護神として人々から信仰されています。社には綱が掛けられており、牛が暴れ狂うときは、牛綱を持って参拝し、前に掛けてあったものと取り替え、牛を繋ぐとおとなしくなるとされています。他にも、牛の安産祈願等で参拝する人がいるとされています。
所在地 | 新見市哲西町上神代3394-3 |
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由井八幡神社は別名:三社八幡宮ともいわれています。社地は新見市大佐田治部の勘定部落の西端にある小さな社です。部落全戸が氏子となり、古くから伝わる祭事を継承保存している点は、先人の生活を知る上で注目に値するものとされている。
所在地 | 新見市大佐田治部5942 |
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船川八幡宮は天永年間(1110年~1112年)に、京都山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)から、新見新町の今市(現在の新見宮地町)へ勧請し惣社として創建されたと伝えられており、正徳5年(1715年)に、現在地に遷座しました。その後、船川八幡神社に社号を改称したが、平成3年に再び船川八幡宮に改称した。
所在地 | 新見市新見1781 |
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湯立ての神事 | |
酒造献供 | |
船川八幡宮(映像資料) |
不洗観音寺は、約1200年前の天平年間に行基菩薩と菩提僧正の2人が観音像に開眼供養し、安置したのが始まりと伝えられています。特に子宝・安産のご利益で有名で、安産を祈願して生まれた子どもが、三日三晩のあいだ産湯をつかわせなくても、体が血で汚れることも不浄になることもなく、きれいな子に育つと言われ、「不洗(あらわず)観音」と呼ばれるようになったと伝えられています。
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電話番号 | 086-425-2334 |
所在地 | 倉敷市中帯江820 |
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小坂八幡神社は元は八幡宮と称し、小坂東・小坂西・深田村の氏神でありました。神社の由来は、筑紫国(福岡県)より勧請したと伝えられています。10月5日には神功皇后の伝説にまつわる「おわけ祭り」(市指定無形民俗文化財)も行われます。
所在地 | 浅口市金光町佐方2480-1 |
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大浦神社の当初の社殿は、三郎島の霊地に祀られていましたが、戦国時代の永禄年間に武将の細川通董により現在の地に移されました。本殿の建物は入母屋造で、1996年には絵馬殿が新築されました。10月第1土・日曜日に行われる秋季大祭では、神輿、御船、奴、千歳楽が境内を威勢よく練り、競馬神事も行われます。
電話番号 | 0865-54-2408 |
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所在地 | 浅口市寄島町7756 |
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諏訪神社は、武将の細川通董の家臣である藤沢越中守が故郷の信濃国(長野県)の諏訪神社を勧請したと伝えられています。慶長年間(1596年から1615年)に社家神田氏によって村の氏神として祭られるようになりました。現在の社殿は、昭和17年に再建したものであります。
所在地 | 浅口市金光町佐方2480-1 |
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創立は不詳。記録によれば慶長年間とされている。吉備津彦命が賊を退治して村人を救われたので命が御祭神として祀られている。参道には宝暦年間、文化年間の銘がある石燈籠各一基の建立等がある。
画像提供 | YACK |
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所在地 | 小田郡矢掛町南山田1062 |
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脇本陣高草家は、文化12年に矢掛村庄屋となり、安政5年には、大庄屋になった「大高草」と呼ばれた旧家である。宝暦年間より随時増築しており、江戸時代末期から明治時代初期にかけての建物が多い。
電話番号 | 0866-82-2100(矢掛町教育委員会) |
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開館時間 | 土・日のみ |
料金 | 高校生以上300円、小中学生150円(団体割引あり) |
所在地 | 小田郡矢掛町矢掛1981 |
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五流尊流院は、約1300年前に修験道の祖・役行者が児島に上陸し、この地にご神体を安置し、そのその高弟5人が尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造したのが始まりと伝えられています。旧正月23日夜から24日早朝にかけて行われるお日待ち祭は1,300年の伝統があると伝えられています。
電話番号 | 086-485-0027 |
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所在地 | 倉敷市林952 |
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恐れ入ります。該当する情報がありません。
所在地 | 倉敷市茶屋町448 |
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所在地 | 倉敷市塩生1254 |
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戸島神社は、「養父母大明神」という祠が始まりとされています。その後、約650年前にその祠が現在の場所に移され、社殿が建設されました。明治4年(1871)に乙島八幡山の八幡宮を合祀し、「戸島神社」に改称されました。
電話番号 | 086-522-3377 |
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所在地 | 倉敷市玉島乙島1251 |
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阿智神社は、約1700年前に阿知使主(あちのおみ)一族が、日本最古の蓬莱様式の古代庭園がを造り、そこをもととして海の守護神である宗像三女神を祀ったことが始まりと伝えられています。
電話番号 | 086-425-4898 |
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所在地 | 倉敷市本町12-1 |
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羽黒神社は、1658年に、備中松山藩主である水谷勝隆公が玉島地区の干拓をする際に、干拓工事の成功を祈願して出羽国の羽黒神社を勧請して社殿が創建されたと伝えられています。
電話番号 | 086-522-2695 |
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所在地 | 倉敷市玉島中央町1-12-1 |
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応永2年藤原秀郷の後裔田中市之進が中山に小彦名命を勧請し、天神と奉称した。寛正年間備後の国桜山城主が東川手村に落ちて来て三原三郎四郎家房と称し、村を東三原と改め、神社名を中山天神社として氏神とした。
所在地 | 井原市芳井町東三原3295 |
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三原の渡り拍子 | |
糸崎八幡神社 |
寛正2年備後国納所村桜山城主三原豊後守が落ちてきて、三原三郎四郎と称し西川手村糸崎に本神社を勧請し、西三原村と改めこの神社を氏神とした。明治39年10月18日本殿ならびに社殿を改築した。大正9年摂社の荒神様、水分神社、太歳神社を合祀。旧村社。
所在地 | 井原市芳井町西三原字糸崎1419 |
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三原の渡り拍子 | |
中山天神社 |
平安時代の「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(じんみょうちょう)に記載された神社は、「式内社(しきないしゃ)」と称され、歴史の古い、格式の高い神社と見なされており、足次山神社も式内社に当たるとされている。江戸時代には、足次大明神(あすはだいみょうじん)として尊信されたが、明治元年に足次山神社と改称、明治5年には郷社に列せられた。
所在地 | 井原市井原町25 |
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全国に五十二の分社を持つ由加神社の本宮。日本三大権限の一つ、また厄除けの総本山としても知られる。江戸時代からは岡山藩主池田候の祈願所として栄え、時期を同じくして『ゆがさん・こんぴらさん両参り』と云われ、両宮をお参りすればご利益が沢山頂けるとう『両参り』の風習が広がり、今も全国津々浦々から信仰されています。また、境内には多くの文化財が点在しており、なかでも日本一の備前焼大鳥居や子授けの楠、消痛の小槌(宝物)は珍しく、本殿は県指定重要文化財です。由加の大神様・権現様は「有求必應」求めが有れば必ず応じて下さる神様として、年間を通じて多くの方がご参拝にご来宮されています。
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電話番号 | 086-477-3001 |
所在地 | 倉敷市児島由加2852 |
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由加神社本殿 | |
由加山厄除不動大祭の火渡り【由加山蓮台寺】 |
由加山蓮台寺は約1300年前、行基菩薩により「瑜伽大権現」を「瑜伽山」に迎え、「本尊十一面観世音菩薩」を彫りだし、祀り創建されたと伝えられています。
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電話番号 | 086-477-6222 |
所在地 | 倉敷市児島由加2855 |
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由加神社本殿 | |
由加山火渡り大祭【由加神社本宮】 |
稲荷神社は、享保18年(1733年)に伏見稲荷神社(京都)の御分霊を勧請して創建されたと伝えられています。
所在地 | 倉敷市茶屋町1547 |
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住吉神社は、宝永6年(1709年)に領主戸川公により摂津国堺に御鎮座の住吉四柱神を勧請して創建されたと伝えられています。
所在地 | 倉敷市茶屋町早沖690 |
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毎年10月の第3日曜日に神輿を中心に供人や鬼が巡行する早島町伝統の秋祭り。各地で子供神輿も花を添える。
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鴻八幡宮に伝えられる祭りばやしで、秋の祭礼日に各町内の「だんじり」で演奏されます。「しゃぎり」と呼ばれます。
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乙島祭りは、玉島乙島の戸島神社で10月最終日曜日に行われます。大場物が早朝集まり、その後町内を練り廻ります。
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乙島祭り【戸島神社】 |
「島の天神」と呼ばれ、古来、景勝地として知られていました。境内に万葉歌碑、頼山陽詩碑が立っています。神島天神祭では、七つの地区の千歳楽がこの神社に集まり、クライマックスの総担ぎを行います。
所在地 | 笠岡市神島5335 |
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元禄年間の創建と伝えられます。「走り神輿」では、3基の神輿の出発地点になります。神輿は、一日目は境内で走る練習「かけならし」を行います。二日目には石段を降りて海岸で漁船に乗り、本浦集落へと到着した後、島内の道を駆け抜けます。三日目には陸路で神社へと帰ってきます。
所在地 | 笠岡市真鍋島4912 |
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布東妙見宮として「宮ノナル」に祀られた。その後、宮は大倉字萱野の共有山林に移されたと伝えられる。宝暦2年、現在の場所に新築し、祝神様として祀られた。その時に大倉明剣神社と改名されたと伝わる。大正12年、本社を銅板の屋根造りにした。昭和36年、幣殿、前殿、神輿庫、社務所を改築。昭和50年、鳥居の移転をして参道が作られた。
所在地 | 井原市美星町大倉1015 |
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岡山県三大踊りの一つ。慶安元年(1648)、備中松山藩主水谷勝隆の時代に、五穀の豊穣と町家の繁栄を祈って踊ったのが始まりと言われてる。
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大島の傘踊り(県指定)は二人一組になり、傘を刀に見立てて切り合うように踊る点が特徴です。
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白石島に伝わる白石踊(国指定)は、一つの口説き(音頭)に合わせて何種類もの踊りを踊る点が特徴です。
約450年前、戦没者の霊を鎮めるために始められた大原踊り。大原踊り保存会を中心に、後世へ受け継がれています。
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岡山県道393号鷲羽山公園線(鷲羽山スカイライン)から水島コンビナートを臨む風景です。現在、岡山県道393号は無料で通行することができます。高所から日本でも有数の工業地帯である水島コンビナートを俯瞰することができ、夜景もとても綺麗です。
所在地 | 倉敷市呼松町地内 |
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鷲羽山山頂から瀬戸大橋を臨む風景です。鷲羽山レストハウスから山頂へ向けた鷲羽山自然研究路は瀬戸大橋と瀬戸内海を一望しながら登ることができます。山頂は周囲を遮るものが無く、360度見わたすことができます。高所から瀬戸大橋や瀬戸内海の島々、行き交う船の様子までしっかりと見ることができる絶景ポイントです。
所在地 | 倉敷市大畠地内 |
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「さげ」が打つ太鼓に合わせて、田植歌を歌い、「植え子」という花笠姿の早乙女が苗を植えていく。田の神を称え、五穀豊穣を願う。
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太鼓田植 | |
太鼓田植【夢すき公園】 |
岡山県道393号鷲羽山公園線(鷲羽山スカイライン)から水島コンビナートを臨む風景です。現在、岡山県道393号は無料で通行することができます。高所から日本でも有数の工業地帯である水島コンビナートを俯瞰することができ、夜景もとても綺麗です。
電話番号 | 0865-64-7266 |
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開館時間 | 8:30~21:30 |
料金 | なし |
所在地 | 浅口郡里庄町里見 |
休館日 | 年末年始 |
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岡山県道393号鷲羽山公園線(鷲羽山スカイライン)から水島コンビナートを臨む風景です。現在、岡山県道393号は無料で通行することができます。高所から日本でも有数の工業地帯である水島コンビナートを俯瞰することができ、夜景もとても綺麗です。
岡山県道393号鷲羽山公園線(鷲羽山スカイライン)から水島コンビナートを臨む風景です。現在、岡山県道393号は無料で通行することができます。高所から日本でも有数の工業地帯である水島コンビナートを俯瞰することができ、夜景もとても綺麗です。
電話番号 | 086-482-0614 |
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所在地 | 都窪郡早島町早島1329-1 |
嫁の手を煩わせることなくいつまでも健康で幸福な生涯を全うできるというご利益があり、お彼岸の中日の大祭には市内外の多くの方が参拝されます。
五穀豊穣や地域の安全を祈願する神事「おわけ祭り」が、鴨方町小坂地区で古来より受け継がれている。
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小坂八幡神社 |
総社市新本では、新庄・本庄両国司神社の赤米の神饌という伝統行事があり、お供えする赤米を古くから栽培し保存伝承しています。
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「採燈大護摩」は、護摩台を作り、火を焚いて仏を招き、願事の達成を祈願するものです。
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五流尊瀧院の採燈護摩【五流尊瀧院】 |
寂光院に至る大谷別所の地は古来深山幽谷の趣があり、備前の閑谷に似ているところから「小閑谷」と称し、人々に親しまれいます。庭園は江戸時代に築庭され、中世の雰囲気を残した幽遽閑静を保った回遊式庭園で春秋訪れる人が絶えない。紅葉時期には、辺り一面が絶景となります。
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所在地 | 浅口市金光町大谷1055 |
三ツ山は、三郎島西南沖に浮かぶほぼ同じ大きさの三つの小島で高さは各約10mを測ります。かつては島山に各一本の枝振りのよい青松が生え、干潮時には一塊となって続き、満潮時には離れて三島となります。元々一続きに連なる島であったが海蝕により分岐したものであります。波静かな瀬戸内海に浮かぶ景観は、さながら一幅の絵のような佇まいを見せる。毎年元日の日の出には、多くの写真家や観光客を集める市内きっての名勝である。
所在地 | 浅口市寄島町三郎地内 |
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県指定重要無形民俗文化財に指定されている神事。氏子たちが尾長鶏の羽でつくった赤熊(しゃぐま)を冠り、豊作への感謝と平安を祈って跳ね踊る伝統行事です。
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糸崎八幡神社 | |
中山天神社 |
秋祭りに当番組が執り行う民族行事で、大当番の家の庭などに「御刷毛」と呼ぶ独特の長い竹に大きな御幣を付ける神事。
江戸時代の参勤交代の様子を模し、絢爛豪華な時代絵巻が繰り広げられる。毎年11月第2日曜日に矢掛商店街で開催。
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旧矢掛本陣石井家住宅 | |
旧矢掛脇本陣高草家住宅 | |
旧矢掛本陣石井家住宅 | |
矢掛本陣・矢掛脇本陣 |
県指定重要無形民俗文化財に指定されている神事。氏子たちが尾長鶏の羽でつくった赤熊(しゃぐま)を冠り、豊作への感謝と平安を祈って跳ね踊る伝統行事です。
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大浦神社 |
鉄砲などの武器を携えた総勢64名が町中を練り歩き、観衆は腰を落として迎える。その光景から「土下座まつり」と言われる。毎年10月15日開催。
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船川八幡宮 |
例年11月3日に行われる秋祭りで、「渡り拍子」「湯立て神事」「御神幸」に続き、最後に拝殿で「宮座行事」が行われます。
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備中神楽は、荒神神楽を起源とし、江戸時代末期、成羽の神官西林國橋が演劇性の濃い神代神楽を創案して人気を呼びました。
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日吉神社に伝わる行事で、白装束を着た神輿を担ぎ、地元の男たちが勇壮に練り歩く。日本の祭りの伝統を今に伝えている。
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日吉神社の夫婦樅 |
新見藩初代藩主の関長治及び4代藩主の政辰の墓所は
このお寺は、元禄11(1698)年に長治から下賜された現在地に
長治は元禄10年に新見藩初代藩主となり、新見へ入府後、御殿・家中屋敷などを整備し、現在の新見の基礎を築き、元文3(1738)年に亡くなりました。政辰は4歳にして4代藩主となりますが、安永3(1774)年にわずか18歳で亡くなりました。
墓所は、正面に基壇上に築かれた長治の墓標があり、その後方に政辰の墓標が建立され、それぞれに水盤と一対の石燈籠が設けられています。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和57年9月7日 |
所有者・管理者 | 西来寺 |
所在地 | 新見市新見 |
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本標は、高さ170cm、幅23cm、厚さ20cmで、頂部が各推形をした石造角柱で、江戸時代に作られ、国境標として高い価値を持っています。
新見市側の標石には、正面に「従是東 備中国」、背面に「哲多郡大竹村」とあり、もう一方の広島県庄原市側の標石には正面に「従是西 備後国」、背面に「奴可郡 福代村」と彫られています。一時この標石は
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和53年9月11日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市哲西町大竹 |
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有漢町茶堂、土居地区の境にあり、海抜265mの山頂部にある山城です。鎌倉時代の地頭秋庭氏の居館・正尺屋敷の南正面にあることから、本貫地を守衛する番手城とみられています。戦国時代には三村方の
頂上部の平坦面は三段になっており、最上部が主郭で約2m下って二の壇、更に1m下って三の壇が作られ、土塁、二重の堀切など堅固な備えがなされていた遺構がうかがえます。
時代 | 鎌倉時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和50年5月1日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市有漢町有漢 |
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有漢町畦地の
古来から火の釜と呼ばれていました。市内では最大級の規模の古墳です。
時代 | 古墳時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和50年5月1日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市有漢町有漢 |
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ゆずりは城の築城者・築城時期については、資料がないため判然としていませんが、新見氏が築城者と伝えられています。
永禄年間(1558~1570)頃、三村氏に攻められて新見氏は敗走し、三村元範が城主となり城の拡張・整備を進めるとともに、支城の整備も行いました。本城跡は、標高420~490mで平地との比高約200~240mの南北に延びる尾根線上に築かれた連郭式山城で、本丸・二の丸・三の丸からなります。本丸は、このうち最北の標高470~490mの尾根頂部一帯に築かれており、4つの郭で構成されています。
備中北部では、備中松山城に次ぐ規模を誇っていた城として貴重な史跡です。
時代 | 室町時代頃 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成15年8月2日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市上市 |
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楪城址 |
新見市と広島県庄原市との境、旧街道に接するところに
建てられた当初は、二本松国境の語源になっている2本の松が道を挟んで備中側にありましたが、その後枯れ、現在は2代目の松が植えられています。この場所を訪れると木製の門柱を見ることができ、これを
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和63年11月10日 |
所有者・管理者 | 新見市 |
所在地 | 新見市哲西町大竹 |
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有漢町
「
裏に「
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和50年5月1日 |
所有者・管理者 | 祥雲寺 |
所在地 | 高梁市有漢町有漢 |
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有漢町土居から長代へ入る県道の分岐点に立つ土居の道標は、高さ90cm、一辺が22cmの四角柱で先が尖っています。 「右びぜんかも道 尾原二里」「左ゆばら道 水田新町二里」と彫られ、裏に「
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和50年5月1日 |
所有者・管理者 | 岡山県・高梁市 |
所在地 | 高梁市有漢町有漢地内 |
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赤羽根イナリ古墳は落合町阿部にあり、平成14(2002)年に宅地造成中に発見され、直径14mほどの円墳と確認されました。発掘調査によって、この墳丘の裾部を巡るように石列を検出しており、葺石と考えられます。葺石が墳丘全体に葺かれていたかは不明です。
墳丘からは、5基の箱式石棺を検出しており、うち2棺からは、床に川原石を敷き詰め、石枕をして寝かされた人骨が出土しました。人骨には全体に赤色顔料が施されていました。築造時期は4世紀から5世紀の頃と考えられます。墳丘上に5棺もの埋葬施設を持つ古墳は珍しいものです。
周囲には赤羽根古墳群が知られており、過去の調査において箱式石棺が数多く発見され、人骨も出土しています。
時代 | 古墳時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成16年7月20日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市落合町阿部 |
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山中鹿介(1545~1578)は、
山中鹿介の首は鞆の浦(現:広島県福山市)に首塚として葬られており、胴体は落合町阿部地内に胴墓として祀られています。
時代 | 安土桃山時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和31年6月1日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市落合町阿部 |
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備中松山城のある臥牛山の麓に位置しています。江戸時代に備中松山藩の政庁であり、備中松山城主が日常起居していた御殿屋敷の遺構です。
屋敷の地割りは高さ7mを越えます。時代により、
御殿や付属建物は明治6(1873)年の廃城令により解体撤去されましたが、総延長800mを超える石垣及び御殿の中庭はよく旧状をとどめており、現在、その跡地の大部分が岡山県立高梁高等学校用地となっています。なお、山城は解体運搬費用が高くつくからということで放置されていたといわれています。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 平成3年4月5日 |
所有者・管理者 | 岡山県・高梁市 |
所在地 | 高梁市内山下 |
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備中松山城御根小屋跡 | |
旧制高梁中学絞 | |
八重籬神社 | |
備中松山城(動画) | |
備中松山城跡 |
天文2(1533)年に
高い土塁(高さ4m、幅8m)に囲まれ、その外側には深い
在城領主は三村家親、
現在は土塁の一部が当時の名残をとどめています。古町はこの成羽城を中心に発達した陣屋町です。
時代 | 戦国時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和35年6月23日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 成羽町成羽 |
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備中松山城跡は、市街地の北側にそびえ、
備中松山城の歴史は延応2(1240)年有漢郷の地頭
その後、小松山が近世城郭に整備され、天和3(1683)年に
史跡に指定されているのは、城内の8か所の遺構であり、北から「切通及び番所跡」「大池」「大松山城跡」「天神の丸跡」「
時代 | 鎌倉時代 |
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指定文化財種別 | 国 |
指定年月日 | 昭和31年11月7日 |
所有者・管理者 | 国・個人(高梁市) |
所在地 | 高梁市内山下地内 |
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備中松山城跡 | |
備中松山城 | |
備中松山城 | |
備中松山城(動画) | |
備中松山城御根小屋跡 |
寛政5(1793)年、備中松山藩主
現在は旧藩関係者も戊辰の役後、新政府へ職をもとめ、旧城下にほとんど居なくなり、近くの内山下・川端町によって維持管理が行われています。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成22年8月25日 |
所有者・管理者 | 八重籬神社 |
所在地 | 高梁市内山下 |
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備中松山城御根小屋跡 |
備中松山藩主水谷氏は、元禄6(1693)年に
以後、明治までの2世紀近くにわたって
跡地は明治以降小学校となり、現在はコミュニティ用地として活用されています。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和61年7月1日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市備中町布賀 |
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笠神は、昭和43(1968)年に完成した新成羽川ダムに水没したが、田原の上流約3kmに位置します。川の中の大岩に文字を刻んだものが文字岩です。鎌倉時代の徳治2(1307)年に、日本でも無類の難所であった
大きさは周囲約16m、高さ約6m、中生代末の安山岩質ということです。石工「
この文字岩は、中世における成羽川を通じての経済・文化を解明するため、重要な意義をもつと同時に、わが国の河川交通史上最古の記念碑として、極めて貴重な史跡であります。
現在は、県道沿いに原寸大の模造石が展示されています。
時代 | 鎌倉時代 |
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指定文化財種別 | 国 |
指定年月日 | 昭和16年2月21日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市備中町平川地内 |
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新成羽川ダム | |
臍帯寺石幢および石塔婆 |
初代
水谷家墓所は、定林寺境内東北隅の少し小高い所に土塀をめぐらし、向かって右側が初代勝隆、左側が三代勝美の墓塔となっています。
いずれも石造五輪塔、材質は花崗岩、基礎(地輪)、塔身(水輪)、笠(火輪)、
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和42年10月21日 |
所有者・管理者 | 定林寺 |
所在地 | 高梁市和田町 |
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こうもり塚古墳に次いで、6世紀の後半に造られた備中地域最後の前方後円墳です。横穴式石室内には、井原市産出の貝殻石灰岩で造られた石棺が安置されており、中から20代後半から30歳にかかる壮年男性と、30代後半から40歳近い壮年女性の2体の骨が発見されています。
その他、棺を留めたと考えられる鉄くぎも出土していることから、木の棺も使用されていたと思われます。
出土した土器からみても、6世紀後半から7世紀のはじめまで何度か埋葬が行なわれたようです。須恵器や土師器などの土器、ガラス玉、鉄の矢じり(鉄鏃)、刀などのほか、吉備の首長にふさわしい金を張った馬具や耳飾、鏡などが共に埋葬されていました。
時代 | 古墳時代 |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和61年4月4日 |
所有者・管理者 | 総社市他 |
所在地 | 総社市上林 |
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増弁和尚は、寛文12(1672)年、市内諸上の松尾惣ヱ門の三男として生まれました。13歳の時、金龍寺で修行僧として守るべき戒めを受け、名を慈観、字を増弁と称しました。その後、28歳の春に金龍寺の住職となりますが、享保3・4(1718・1719)年と連続した飢饉に、人々の苦しみを見ていることができず、祈祷と20日間の断食を行ないました。享保17(1732)年には長雨とイナゴの害がおき、作物の収穫がほとんどできなかったことから、全国で96万余の人々が飢餓で苦しんでいました。
増弁は人々を救うため、弘法大師の九百忌にあたる享保19年3月21日を亡くなる日と定め、同年2月21日から五穀を断ち、3月1日より断食を始め、同21日の朝、身を清め、石の棺に入り、結跏趺坐して、蓋を閉じさせ仏の世界に旅立ちました。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和40年1月20日 |
所有者・管理者 | 金龍寺 |
所在地 | 総社市上林 |
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町内に在住していた与兵衛は、孝子の聞こえが高く、天明8(1788)年4代領主
文化3(1806)年10月20日与兵衛没後、後世まで徳を讃えるため、村人が文化4年ごろ建立しました。撰書は、代官の熊本氏の一族 号冬川です。
碑の大きさは、高さ103m、横42m、下底42m、上底28m、奥行22.5mで、安山岩が用いられています。
今でも、命日にはこの地域の人々が子どもたちを集めて与兵衛祭りが行われています。
「孝義録」は老中松平定信が
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和61年7月1日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 高梁市備中町布賀 |
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山崎氏5千石の御殿跡で
万治元(1658)年
お庫のある場所は
現在、お庫跡は成羽小学校、書院等跡地西側は高梁市成羽地域局、お作事場と書院等東側は成羽美術館となっております。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和35年6月23日 |
所有者・管理者 | 高梁市 |
所在地 | 成羽町下原 |
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福山の西斜面には6世紀後半~7世紀中ごろの群集した古墳が数群あり、これらを三因古墳群と総称しています。このうち、最南端に位置する67基からなる古墳群を峠古墳群と呼んでいます。峠古墳群のうち、1~3号墳が村道の拡幅工事にかかることから、平成5(1993)~平成6年にかけて発掘調査が実施されました。
その結果、1号墳は径約11mの円墳で、墳丘の築造には人頭大の石を多く使っていたことがわかりました。2号墳は径約9mの円墳で、1号墳と同じく7世紀前半のものですが、より新しい段階のものです。3号墳は径約10mの円墳と考えられていますが、円弧を描かず直線的で鈍角にとがることから、多角形墳の可能性もあります。6世紀末~7世紀初頭に築造され、最終埋葬は7世紀末~8世紀初頭と考えられます。3号墳の第2石室は、長さ2.7m、幅0.76mをはかる小規模な横穴式石室です。3号墳の墳丘の端に接して、古墳を取り巻く堀の中に築かれた特異なもので、県内では他に例をみません。
墳丘の形状や、石室の築造が特異であることから、1~3号墳は移築して、築造当時の姿に復元し、この場所を歴史広場として公開しています。
時代 | 古墳時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成7年12月13日 |
所有者・管理者 | 総社市 |
所在地 | 総社市清音三因 |
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吉備高原の南端に位置する、標高372.7mの山頂に築かれた山城です。平安時代、この一帯は山岳仏教の霊場として栄え、多数の経塚が築かれたことから、この城は経山城と呼ばれています。
経山城は三方を険しい谷に囲まれており、城に入るには北からの一本道という攻めにくい地形となっています。小型ではありますが、石垣、土塁、空掘などで区画した堅固なつくりになっています。
『備中府志』によると、天文年間(1532年~1555年)に大内義隆によって築かれたとされています。後に毛利氏の所有となり、毛利氏配下の将であった小早川隆景がこれを修理し、二階堂氏・中島氏に城を守らせました。この城をめぐる攻防は大きく2回あり、1回目は天文12(1543)年のことで、出雲の富田城の合戦で手薄になった備中を取ろうと、播磨の赤松氏が攻めてきました。しかし、攻撃の準備中、将軍足利氏からほかの武将を追討するよう命令が下り、陣を引きあげました。次いで2回目は、元亀2(1571)年のことで、出雲の尼子氏によって経山城が包囲されました。しかし、小勢で城を守り、夜陰に乗じて火をかけ、尼子勢をしりぞけました。この城の堅固さを物語るものです。
時代 | 戦国時代~安土桃山時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成11年4月28日 |
所有者・管理者 | 総社市 |
所在地 | 総社市黒尾 |
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古墳時代前期前半(4世紀前半頃)に築かれた前方後方墳です。高梁川を眼下に望む、眺望のよい丘陵尾根の頂上に築かれており、周囲にも多くの古墳が見つかっています。
平成23年度から実施された確認調査によって、全長約70mであることがわかりました。大型の前方後方墳は岡山県北部で多く確認されていましたが、一丁ぐろ古墳は岡山県内でも2番目に大きく、県南部では最大の前方後方墳となることがわかりました。
また、調査時には円筒や壺の形をした埴輪が出土しており、当時の古墳祭祀を考える上で貴重です。
時代 | 古墳時代前期(4世紀前半頃) |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 平成28年2月5日 |
所有者・管理者 | 南秦三部落自治会他 |
所在地 | 総社市秦 |
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新本は、岡田藩の領地でしたが、村の人々が共同で使用していた入会山の木々の伐採や下草・採草を禁じたため、村人は薪や田畑の草肥、牛馬の飼料などを得ることができなくなりました。そのうえ享保元(1716)年には、藩有林の木を伐採・運搬する重労働を命じられ、その労働は度重なり農耕にもさしつかえるようになりました。困り果てた村人は、藩との対決を覚悟し、藩へ嘆願書を提出しましたが聞き入れられませんでした。
そのため、享保3(1718)年に村人4人を江戸に派遣して、藩主伊東長救に直訴した結果、願いが聞き届けられました。しかしながら、当時直訴は禁じられていたため、4人は新本の飯田屋川原で打ち首になりました。遺体は下げ渡され、4人のうち3人は西明寺に、1人は稲井田に手厚く葬られました。
毎年夏には、この4人の義民をしのび、義民祭が行われています。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和40年7月2日 |
所有者・管理者 | 西明寺ほか |
所在地 | 総社市新本 |
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国府とは、律令制下、備前国・備中国などの各国に置かれた役所のことで、その国の政治上・軍事上の中心として、中央から派遣された国司という官僚が執務を行なったところです。
国司は、国を統治するため行財政・司法・軍事をつかさどり、郡の役人を指揮し徴税を行ないました。総社市が含まれる備中国は、9郡97郷が管轄下にあり、国府はそのうちの賀陽郡に置かれたと記録されています。国府が置かれた場所については定かではありませんが、「国府」「国府西」「北国府」などの小字名がみられる金井戸の地の中でも、「御所」の地名が残るこの場所が、有力な候補地になっています。
そのほか、総社宮付近や、西阿曽周辺に求める見解もありますが、いずれにせよ備中国府は総社市内に存在したものと考えられます。
時代 | 奈良~平安時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和58年3月10日 |
所有者・管理者 | 国 |
所在地 | 総社市金井戸 |
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総社宮 |
江戸中期の地理学者の古川古松軒は、享保11(1726)年、橋本家の別家にあたる橋本護次の子として新本で生まれ、名を辰、または正辰、通称平次兵衛といいました。古松軒は、自学自習で地理・歴史を学び、測量術に長じていました。諸国を周遊し、山陽・九州の紀行文『西遊雑記』、東北・蝦夷の紀行文『東遊雑記』をまとめ、地理・風俗・物産等や、一般民衆の生活状態を伝えました。
また、寛政の改革を行なった老中松平定信の信任を得て、幕府の命令により『武蔵五郡の図』、『四神地名録』を作成しました。晩年は岡田藩に帰り、岡田藩主から苗字帯刀を許されました。文化4(1807)年に亡くなり、宅源寺脇の橋本家の墓地に葬られ、「古松軒夫婦之墓」と刻まれた自然石の大きな墓石がたてられました。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和40年1月20日 |
所有者・管理者 | 宅源寺 |
所在地 | 総社市新本 |
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標高約80mの三輪山頂部に立地する古墳時代前期の前方後円墳です。後円部に比べ前方部が低くて長いことから、古い様相をもつものといえます。後円部の頂部には大きな穴が開いており、埋葬施設はすでに盗堀されているものと思われます。墳丘の斜面を覆った葺石は前方部側によく残っており、埴輪の破片も採集されています。この古墳の南側には、屋根上に円墳を挟んで全長70mになる前方後円墳の三笠山古墳があります。宮山天望古墳と同様に、古い様相をもった古墳時代前期の古墳です。これらの古墳は、宮山墳丘墓と同一丘陵上にありますが、弥生時代の墳丘墓とは隔された場所に造られています。なお、宮山には、遊歩道が整備されており、弥生~古墳時代の墳墓を見ながら、自然散策も楽しめます。
時代 | 古墳時代 |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和39年5月6日(追加指定:昭和39年12月2日) |
所有者・管理者 | 百射山神社 |
所在地 | 総社市三輪 |
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備中都宇郡早島周辺は、岡山城を本拠にした宇喜多秀家の領地でしたが、秀家は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に属して滅亡しました。代わってこの領地を戸川逵安らが領有しました。
逵安は宇喜多家の重臣でしたが、内紛により同家を退去して東軍に属し武功を立て、庭瀬藩主となり都宇郡・賀陽郡の一部を領有しました。寛永5(1628)年、父・逵安の遺領を継いだ正安は、早島地域3400石を弟の安尤に分知し、早島知行所が成立しました。安尤は元禄6(1693)年に陣屋を置くことを決定し、宝永6(1709)年、3代安貞のときに完成しました。
この陣屋は明治維新後に取り壊されましたが、早島小学校のすぐ西隣りに堀の一部とそれにかかる石橋が残存しています。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 町 |
指定年月日 | 昭和40年8月31日 |
所有者・管理者 | 早島町 |
所在地 | 早島町早島 |
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総社跡は、市名の由来となった備中国の「総社」のことです。律令制下、各国に中央から派遣された国司は行財政や司法・軍事などをつかさどるほか、国内の神社を管理し祀ることも重要な職務の一つでした。
国司は、それぞれの神社を一宮から順に巡拝していましたが、平安時代後期ごろになると、国府の近くにすべての神社をまとめ祀るようになり、これを総社としました。
総社という文字が最初にみられるのは、「時範記」という文献で、康和元(1099)年2月15日条の因幡国の総社です。このころには、総社制の実体が伴っていたものと考えられます。総社では、国司の着任儀式が行なわれており、国の行事上、重要な施設であったことがわかります。
備中国の総社に関しては、平安・鎌倉時代の資料が残されていないため詳細は不明ですが、他の国の総社と同様に12世紀には存在していたものと考えられます。
時代 | 平安時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成6年10月24日 |
所有者・管理者 | 総社宮 |
所在地 | 総社市総社 |
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総社宮 | |
まちかど郷土館 |
江戸時代には、街道の整備に伴い距離を示す目印として、一里(約4Km)ごとに道の両側に塚を築き、エノキやマツなどを植えました。この一里塚も、山陽道の整備に伴って築かれたもので、かつては大松が一里塚の象徴となっていましたが、落雷を受けて枯れたため、昭和35(1960)年伐採されており、現在では標柱が当時をしのばせるのみです。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和46年3月20日 |
所有者・管理者 | 共有 |
所在地 | 総社市西郡 |
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飛鳥時代後半(白鳳時代)に建立された寺院です。昭和52(1977)年翌年にかけて発掘調査で、瓦積みの塔基壇が見つかりました。塔の心礎を支えた巨大な礎石も発見され、もとあった場所からは移動されていますが、整備された基壇の傍らに見ることができます。塔以外の建物は発見されていないため、寺域内の建物配置は不明です。
なお、出土した軒先を飾っていた丸瓦の中には、文様などから備後(広島県東部)の寺町廃寺と同じ型で作成されたものがあることもわかっており、両寺院の密接な関係がうかがえます。
時代 | 飛鳥時代後半(白鳳時代) |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和62年4月3日 |
所有者・管理者 | 総社市 |
所在地 | 総社市南溝手 |
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幸山城は、福山の西北、標高164mの小山の頂上に立地します。三方が絶壁で、守りやすく攻めにくい天然の要塞となっており、眼下に山陽道が一望できる良好な立地条件の下に築かれた山城です。
鎌倉時代の後半に、庄左衛門四郎資房が築いたとされています。室町時代の中ごろには、庄氏から備中国の守護職にあった細川氏の配下の石川氏に城主が代わり、以後約150年にわたって居城していたとみられます。16世紀の後半には、備中松山城主三村元親と毛利氏の間に備中兵乱と呼ばれる戦が起こり、幸山城はその舞台となった城の一つです。幸山城主石川久式は毛利軍に加わっていましたが、義理の兄弟に当たる三村元親と毛利氏が戦闘状態になると、三村氏を援護しました。しかし、松山城は落城し元親は切腹、久式も追い詰められ自害しました。その後、幸山城は、毛利氏と共に三村氏を攻めた小早川隆景に与えられましたが、江戸時代の初めには廃城となったようです。
幸山城には、堀で仕切られた郭と呼ばれる2つの区画壇があり、「西の丸」、「東の丸」と呼ばれています。
時代 | 鎌倉時代後半~安土桃山時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和50年2月3日 |
所有者・管理者 | 共有 |
所在地 | 総社市西郡 |
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美袋は江戸時代、松山往来の宿場町として栄えました。松山往来とは、山陽道の板倉宿(現:岡山市北区吉備津字板倉)から分かれ、松山城下(現:高梁市内山下)に達する道です。この宿場で、諸大名などが宿泊した本陣は、大庄屋の田辺家でした。
明治元(1868)年には、官軍方の岡山藩が幕府方の松山藩を鎮定する際に、この美袋本陣で松山城の明け渡しについての会談がもたれました。明治維新後は、地方制度改革によって戸長と呼ばれる役人が執務した戸長役場となり、その後村の役場として使用されました。戦後、建物などは取り壊され、現在は岡山西農業協同組合昭和支店の事務所と店舗などが建っています。
今は、傍らにある標柱が当時を思い起こされるのみです。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和41年4月14日 |
所有者・管理者 | 岡山西農業協同組合 |
所在地 | 総社市美袋 |
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安養寺は、倉敷市の北部に位置する真言宗の古刹です。この経塚群は、寺の背後の山腹に存在し、第1から第3経塚まであります。
経塚とは平安時代の末法思想の影響により、土中に経文の刻まれた瓦を埋めて後世に遺すという善行で極楽往生しようという願いから設置されたものです。
第1経塚からは国の重要文化財に指定されている
第2経塚からは瓦製経筒・誕生仏などが、また第3経塚からは塔婆形経瓦などが見つかっています。
時代 | 平安 |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和35年8月23日 |
所有者・管理者 | 安養寺 |
所在地 | 倉敷市浅原 |
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この層塔の跡は、安養寺本堂の西、一段高くなったところに存在します。
現在は建物の基礎になった石(礎石)が15個、中心の柱を支える心礎が1つ残されています。塔跡は3間×3間で礎石は本来16個あったはずですが、北西の角が1個失われています。
もともとこの地には浅原寺という大寺があり、平安時代から鎌倉時代にかけて栄えていました。この塔跡はその頃のものか、あるいは室町時代にはいって再建された塔のものと思われます。
時代 | 平安~室町 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和40年3月25日 |
所有者・管理者 | 安養寺 |
所在地 | 倉敷市浅原 |
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下津井は、児島半島南端の古い港町です。江戸時代を通じて商港・漁港として、また金毘羅往来の発着港として栄えました。その町並みにはいくつもの井戸が点在し、なかには複数の家で使用する共同井戸も見られます。
これらの共同井戸では井戸ごとに使う家がきまっており、その管理も使用する家々が厳しく行っていました。これらの井戸は、江戸時代以降、下津井に暮らす人々の飲料水の供給源でした。また、港へ寄港する船に供給されたり酒造りにも使用されたりしました。
人々の生活を長い間にわたって支えてきたこの共同井戸群は、かつての下津井の繁栄を今に伝える記念碑ということができるでしょう。
時代 | 江戸時代以降 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和45年3月20日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市児島下津井1丁目 |
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備讃瀬戸の海を臨む下津井は、古来、瀬戸内の軍事、海運の要衝でした。この地の政治的重要性から、地元の人達が城山と呼ぶ標高89mの丘陵には、16世紀に既に宇喜多氏の城砦が築かれていたとされています。
慶長8(1603)年岡山藩家老
寛永16(1639)年、一国一城の幕令により廃城となってからは、かつての姿を伝えるのは荒廃した石垣だけになっていました。そのためこの地を訪れる人も少なかったのですが、近年、史跡内の散策路が整備されたことにより、地域の歴史に触れながら美しい瀬戸内の風景も楽しめる新しい学習の場となっています。
時代 | 安土桃山~江戸 |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和43年7月23日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市下津井 |
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倉敷市域北東の岡山市と境を接するあたりに広がる王墓山丘陵の北端、楯築神社の境内を中心とする弥生時代後期の墳丘墓です。
自然地形を利用し盛り土を行って整えられた墳丘の規模は、現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。円丘部は、径約50m, 高さ5m。北東側と南西側に突出部を持っていましたが、工事によって破壊されてしまいました。墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫帯がめぐっています。
岡山大学考古学研究室による発掘調査の結果、朱の敷き詰められた棺とそれを納めた木製の槨の痕跡が発見され、鉄剣と大量のガラス小玉、土製の勾玉などもみつかりました。弥生時代から古墳時代へかけての社会の変化を研究する上で、触れずにすますことのできない全国的にも重要な遺跡のひとつです。
時代 | 弥生 |
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指定文化財種別 | 国 |
指定年月日 | 昭和56年12月9日 |
所有者・管理者 | 鯉喰神社 |
所在地 | 倉敷市矢部 |
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楯築遺跡 |
王墓山丘陵に存在するこの古墳は、明治末年に破壊されて、その形が著しく変形されており、その大きさや形については明らかではありません。石室は横穴式だったと思われますが、これも石材が抜き取られています。
井原市で産出する
浪形石の家形石棺をもつ他の古墳は吉備でも有数の規模を誇る有力豪族のものばかりです。王墓山古墳の主も同様の有力者だったと思われます。またこれを裏書きするのは、出土した
時代 | 古墳 |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和34年3月27日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市庄新町 |
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早島町の歴史は、町の南部にある児島湾干拓の歴史でもあります。戦国時代後期の宇喜多堤の築堤にはじまり、昭和31(1956)年の児島湖締切り堤防の完成まで約400年に及ぶ干拓事業が行われ、国境論争や開墾反対運動など、さまざまなドラマを生みました。
この中で、興除新田の干拓に端を発した備前備中の国境論争は約100年にわたり争われ、文化14(1817)年にこの論争に裁許下され早島下前潟に国境標石が建てられました。これは、6丁(約700m)おきに建てられたという10本のうちの1本で、早島の干拓の歴史を物語る貴重な資料です。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 町 |
指定年月日 | 昭和44年6月17日 |
所有者・管理者 | 早島町 |
所在地 | 早島町前潟 |
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江戸時代後半、児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い、「塩田王」となった
中央に表書院、主屋を置き、その北側には内蔵、大蔵、書類蔵、道具蔵、岡蔵、夜具蔵が建ち並んでいます。
桁行約26mの堂々とした構えの長屋門を入ると、踏石を伝って主屋・表書院へ導かれます。表書院は南東面に縁座敷が巡らされ、淡雅なゆったりとした内部空間を形成しており、その前面には3棟の茶室のほか、奇石・巨石を組み、松やツツジ、苔を巧みに配した美しい枯山水の庭園が広がっています。
武左衛門の精神が反映された建築群は旧状がよく保存されており、庭園や塩業資料の展示などを含めて広く一般に公開されています。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 史跡:昭和52年4月8日 国指定(建造物):平成18年12月19日 |
所有者・管理者 | (財)竜王会館 |
所在地 | 倉敷市児島味野 |
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野﨑武左衛門翁旌徳碑ほか |
真備町の中心部を西から東に流れる小田川に向かって突出する標高43mの丘陵上に、黒宮大塚は所在しています。昭和52(1977)年に、倉敷考古館によって発掘調査が行われました。
墳頂部のやや北西よりで竪穴式石室1基が確認され、床面に敷かれた円礫上には朱が薄く認められ、中軸部が窪んでいることから、
出土した土器類から、弥生時代後半の築造と考えられます。本遺跡は、古墳成立にいたる過程を研究する上で欠くことのできない遺跡であり、その時期に吉備地方で成立した首長墓への特殊な土器の供献状況を示す墳墓として大いに注目されています。
時代 | 弥生 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成17年12月5日 |
所有者・管理者 | 熊野神社 |
所在地 | 倉敷市真備町尾崎 |
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古墳が築造された時代には、山麓まで海が迫っていました。海を見下ろす位置に築造されたのでしょう。
やがて海が埋め立てられ村が大きくなり、寺が建てられるにしたがって、古墳は削られ、その形はゆがめられてしまいました。石室の羨道も古くに失われています。
棺を納めている玄室の規模は長さ6.23m、幅1.35mで、高さは現状で約1.7mです。東側の石材は寺の地圧により西側へ傾いています。崩壊しないように、現在石室内に山土を充填して石材を支えています。
時代 | 古墳 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和47年9月29日 |
所有者・管理者 | 梅雲寺 |
所在地 | 倉敷市連島町連島 |
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倉敷市街地の、南東の山裾に位置する縄文時代の貝塚です。
ここに人々が暮らしはじめ、貝塚の形成がはじまったのは縄文時代の前期です。その後も人々は縄文時代中期・後期にかけてこの地に住み、貝塚も引き続き成長していきました。当時瀬戸内の海は、内陸深くまで入りこんでいました。
遺跡は入江をのぞむ砂浜に立地していたと考えられています。大正時代以降、数回の調査が行われ、土器片、石で作った矢じりなどがみつかっています。
現在、遺跡は児童公園の地下に埋っています。今でも地面を注意深く観察すると、カキ・ハマグリなどの貝殻をみつけることができます。
時代 | 縄文 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和40年3月25日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市羽島 |
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「
伝によると、奈良時代に紀州熊野権現をこの地に勧請したときに、木見の
域内には、秀麗な三重塔がそびえ、
こうした、国・県指定の文化財のほかにも、毘沙門堂・
時代 | 古代~中世(奈良時代以降) |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和48年5月15日 |
所有者・管理者 | 熊野神社他 |
所在地 | 倉敷市林 |
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五流尊瀧院宝塔 | |
熊野神社本殿(第一~六殿) 6棟 | |
砂持ち祭り【熊野神社】 |
縄文時代には、現在の倉敷市街地のほとんどは海でした。当時の人々は海岸に程近い山裾に住み、狩猟、漁労、採集により日々の糧を得て生活していました。
住まいの近くには貝殻や動物の骨といった食べかすや、土器・石器などが捨てられた場所が残されます。私たちはこうした場所を貝塚と呼んでいます。
倉敷市内には、縄文時代の貝塚が多く知られています。現在、福田町福田の古城池堤防西側に位置する福田貝塚もそのひとつです。
これは縄文時代後期を中心とする貝塚であったことがわかっています。第二次大戦後間もなく行われた調査では、特異な文様を持つ土器や石器、土偶、埋葬された人骨など、当時の生活の様子をしのばせる豊富な資料が発掘されています。
時代 | 縄文 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和40年3月25日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市福田町福田 |
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西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、高瀬舟の運行を可能にしたのが
一の口水門から、
以上のように、一の口水門はその遺構が良好に残されており、17世紀の後半から20世紀の初めまでの長期間にわたって続いた高瀬舟による物資輸送のことを今に伝える重要な遺跡です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成17年12月5日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市船穂町水江 |
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玉島黒崎の沙美海岸の近くに三角形の人工池があります。天明6(1786)年鴨方の朱子学者西山拙斎
この詩を読み感動した倉敷代官
沙美の人々はこの栄誉を後世に伝えようと、皆で農業用水を蓄えるための溜池を造り、恵池と名付けました。そして、池の北端には拙斎がこの経緯を記した文をつくり、
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和45年3月20日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市玉島黒崎 |
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恵池及び恵池碑 |
県下三大巨石古墳のひとつ。内部にある石室は、巨大ないくつもの石を精密に組み合わせた横穴式の大空間で、入口の羨道とその奥の玄室に分かれています。
明治34(1901)年の調査で、須恵器や土師器などとともに、権力の強大さを示す刀剣・馬具・金環・勾玉などが発見されました。
石室全長は19.1m、うち玄室の長さ8.4m、幅3m、高さ3.8m。従来は前方後円墳とか帆立貝式古墳などと言われてきましたが、昭和58年の確認調査で周溝が検出され、直径54m、高さ7mの円墳であることが判明しています。6世紀後半の築造と考えられています。
時代 | 古墳 |
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指定文化財種別 | 国 |
指定年月日 | 昭和4年12月17日(追加指定:平成4年12月18日) |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市真備町箭田 |
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箭田大塚古墳 |
二万大塚古墳は、真備町を東西に貫流する小田川に南から流れ込む小支流二万谷川が形成した谷の東岸に位置しています。
平成13(2001)年から平成16年(2004)年にかけて、岡山大学考古学研究室による実態解明のための発掘調査が行われました。
調査の結果、全長38mの前方後円墳で、北側の括れ部には造り出しを持つことも確認されました。ここからは人物埴輪、家形埴輪や多数の円筒埴輪さらに須恵器が整然と並べられ祭壇状施設となっていたことが明らかになり、この時期の葬送祭祀の様相を考える上で貴重な資料となりました。
埋葬主体としては後円部に南南西に開口する横穴式石室を持つことが確認され、石室は両袖式で全長9.1m、玄室の長さは4.7m、幅は奥壁で2.5mを測り、比較的小降りの石材を5~7段に積んでいました。
石室から須恵器、土師器、鉄器、馬具のほか装身具として耳環、玉類が出土しています。須恵器の時期は6世紀中頃から6世紀後半までの幅があり、数度の追葬が行われていたと考えられています。
以上のように岡山大学による発掘調査によって、二万大塚古墳は高梁川西岸で最終段階の唯一前方後円墳というこれまでの評価だけではなく、横穴式石室を持つ前方後円墳では吉備で最も古い段階の古墳であることが判明しました。これによって、前方後円墳で横穴式石室を持っている総社市のこうもり塚古墳などとあわせて整理・研究が進めば、当時の首長間の関係がよりいっそう明確になってくることが期待されます。
時代 | 古墳 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成17年12月5日 |
所有者・管理者 | 迩摩神社 |
所在地 | 倉敷市真備町下二万 |
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本来の位置を保つとみられる礎石4個が並び、いずれにも繰り出しの円柱座が認められます。付近はやや南北に細長い方形の高まりになっていて、寺院建物の基壇の痕跡を残しているかに見えますが、伽藍配置全体のことなどはあきらかになっていません。
古代寺院の年代は、寺跡出土の軒先瓦の文様から推定できますが、軒丸瓦の文様は、蓮華文の外縁に
時代 | 飛鳥 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成17年12月5日 |
所有者・管理者 | 東薗神社外 |
所在地 | 倉敷市真備町岡田 |
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両袖型の横穴式石室で、高さ5m、径20mの円墳です。羨道の長さ1.2m、玄室の長さ5.85m、幅2m、石棚の幅1.4mで、築造年代は古墳後期(6~7世紀)の古墳です。
玄室の奥壁部・高さ1mのところに、奥行1.5mの石棚が付設してありますが、この石棚は石室の補強や棺または副葬品をおいたとの説があるものです。石棚のある古墳は和歌山県と九州地方に多く分布しており、岡山県下では他にも例が知られています。
時代 | 古墳時代後期(6~7世紀) |
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指定文化財種別 | 町 |
指定年月日 | 昭和41年4月12日 |
所有者・管理者 | 橋本組 |
所在地 | 矢掛町里山田 |
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芋岡山の尾根の平坦部を中心に南北約25m、東西約10mの範囲に形成された弥生時代後期から古墳時代の埋葬遺跡です。30基の土壙墓が発見され、うち2基からは朱が検出されました。またこの他、古墳時代の箱式石棺が2基確認されています。また丘陵の南側には幅約2mの墓域の境界と思われる溝を掘り、土器を供献していることが分かりました。
生活区域と埋葬地域を明確に分け、死者を丁重に葬る葬送観念が当時の人々の中に定着していたと考えられています。出土土器には立坂型の特殊器台の破片をはじめ、特殊壺・壺・甕・高坏などがあり、出土品は倉敷考古館に所蔵・展示されています。
時代 | 弥生時代後期 |
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指定文化財種別 | 町 |
指定年月日 | 昭和41年4月12日 |
所有者・管理者 | 中財産区他 |
所在地 | 矢掛町中 |
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岡山藩によって弘化2(1845)年から嘉永5年(1852)年にわたり干拓された福田新田は 625万㎡にも及び、 それを囲む堤防には余水・悪水を排出するための水門が3カ所に築かれました。そのうちの一つが板敷水門です。
幅10m、深さ6mに積み上げられた水門の石垣は、花崗岩を用いた高度な切り込み剥ぎの技法が使われており、築造年を表わす「嘉永二年 夏
現在の倉敷市の大半は江戸時代以降の新田開発によるもので、その名残りといえる板敷水門はこうした倉敷市の歴史を伝える貴重な遺産です。
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成7年12月1日 |
所有者・管理者 | 倉敷市 |
所在地 | 倉敷市南畝4丁目 |
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亀山焼は須恵器によく似た土器です。その色は普通灰色で、甕や壷の表面に格子目の文様がついているのが特徴です。玉島八島から玉島陶にかけての丘陵一帯を中心にして鎌倉時代のはじめ頃から盛んに焼かれ、この地域には窯の跡が点在しています。
日常生活に利用された土器で、海を望む玉島の海運に恵まれた立地から瀬戸内一帯を中心に広い範囲に流通していました。有名な広島県の
時代 | 鎌倉~室町 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和45年3月20日 |
所有者・管理者 | 神前神社 |
所在地 | 倉敷市玉島八島 |
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両袖型の横穴式石室をもつ、一辺が23~27mの方墳です。現存の石室は全長10.7m、玄室の長さ6.5m、幅2.4m、高さ2.3m、羨道の長さ4.2m、幅1.8mで、築造年代は古墳後期から末期と考えられています。
石室は南に開口し、花崗岩類の石材を用いた全長10.7mで、天井の四枚の巨石、奥壁の岩は見事な一枚石です。矢掛町内の古墳のうち最大のものです。
時代 | 古墳時代後期~末期 |
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指定文化財種別 | 町 |
指定年月日 | 昭和48年4月11日 |
所有者・管理者 | 南山田財産区 |
所在地 | 矢掛町南山田字小迫 |
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この城は、鎌倉時代末蒙古襲来の際、
野上町の丘陵から南方向へ伸びる丘陵で、標高約170m、山陽道、小田川が眼下に広がり、笠岡、矢掛、井原市街地が見渡せます。本丸を含めて3段の郭で構成され、堀切も残っており、現在も当時の状況をよくとどめています。
時代 | 鎌倉 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和50年9月16日 |
所有者・管理者 | 井原市 |
所在地 | 井原市東江原町高越字今屋 |
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高越城跡 |
小田川流域の矢掛町から倉敷市真備町にわたる一帯は、古来より吉備真備ゆかりの地として知られています。矢掛町では、真備公の遺徳を偲んで、昭和63年(1988)、吉備公館址に隣接する丘に吉備真備公園を新たに整備しました。
公園周辺には吉備真備の産湯の井戸などが言い伝えられており、また、真備が唐の都からもちかえった文物の一つである囲碁にちなみ、この地を「囲碁発祥の地」としても顕彰しています。
この公園は地元町民の努力で美しく保たれ、平成19年(2007)には日本の歴史公園100選にも選ばれ、町内外の多くの方が訪れています。
時代 | 奈良時代 |
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指定文化財種別 | 町 |
指定年月日 | 昭和48年4月11日 |
所有者・管理者 | 吉備保光会 |
所在地 | 矢掛町東三成 |
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標高239mの本丸跡が南端にあり、北に向かって二の丸、三の丸、井戸、大手門、四の丸、馬場、五の丸、六の丸、大夫丸、寺丸と下って平林口に至ります。
築城年代は庄家長が元久2(1205)年、源平合戦の軍功により地頭として赴任し、その後間もなく、山上に土塁を築いたのが始まりと考えられています。 庄氏が松山城(高梁)に本城を移した後、毛利元就の四男・毛利元清が領主として猿掛城に入城します。
天正10(1582)年の備中高松城水攻の際には、この猿掛城が毛利輝元の本陣として名を歴史に残しました。翌天正11年には毛利元清は茶臼山城(東三成)に移ったため、約400年間続いたこの山城は実質上廃城となりました。
時代 | 鎌倉時代~安土桃山時代 |
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指定文化財種別 | 町 |
指定年月日 | 平成8年4月1日 |
所有者・管理者 | 国 |
所在地 | 矢掛町横谷 |
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猿掛城跡 | |
カゴの木 |
元禄12(1699)年に、東三成の丘陵地(下道氏墓)より、吉備真備の祖母を火葬にして埋葬した銅壺(銅製の骨臓器)ならびに遺骨が発見されました。それを受けて、享保12(1727)年、時の領主庭瀬藩主板倉昌信は、同家の祈願所の中蔵坊の境内に社殿を設け、この銅壺を安置しました。
その後、享保13(1728)年には京都の吉田家から神号が与えられて、この社殿を「光助霊神宮」と称するようになったものです。
なお、享保15(1730)年・中蔵坊は、下道圀勝の名前にちなみ、圀勝寺と改称されました。現在の光助霊神宮は平成18年に建て替えられたものです。
時代 | 江戸時代(享保12年) |
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指定文化財種別 | 町 |
指定年月日 | 昭和63年9月19日 |
所有者・管理者 | 圀勝寺 |
所在地 | 矢掛町東三成 |
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吉備公ゆかりの地 |
興譲館は、庶民の子弟の教育を目的として、当地の領主一橋家の代官
校名の由来は、四書の『大学』の、「一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興る」からとられました。創設当時の姿をとどめているのは、講堂と校門、そして阪谷朗廬お手植えと伝えられる紅梅です。
講堂(書斎付)は、嘉永6(1853)年に建てられました。元は藁葺きであったものを、安政6(1859)年に現在のような瓦葺きとなりました。建坪25.5坪(書斎は4.5坪)本瓦葺き平屋建で、平成7・8年に保存修理を行い、現在は資料を展示し公開しています。校門は
阪谷朗廬は、井原市美星町に生まれた漢学者で、江戸で学び、井原市芳井町で桜渓塾を開いていました。その後、興譲館に招かれ、領内の子弟の教育を行いました。朗廬の名声は各地に広がり、遠くは九州地方からの入門者もありました。その後、広島藩、明治政府に招かれ要職を務めるとともに、森有礼、福沢諭吉の主催する明六社に漢学者として唯一参加しました。
時代 | 嘉永6年(1853) |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和34年3月27日 |
所有者・管理者 | 学校法人興譲館 |
所在地 | 井原市西江原町 |
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雨笠の松 |
この墳丘墓は、経ヶ丸山の丘陵東端、標高約180mの東へ下る尾根上にある弥生時代末期から古墳時代初期にかけて造られた方墳です。墳丘内には
石槨は、長さ約2.6m、幅約0.7m、深さ約0.6mで、粗雑な割石を積み、偏平な6枚の天井石で覆われています。床面はゆるいU字形に
床には、熟年男性人骨が1体、墳丘周辺より
時代 | 弥生末期~古墳初期 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和50年9月16日 |
所有者・管理者 | 金敷寺 |
所在地 | 井原市笹賀町 |
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弥生時代後期(今から約1800年前)の集落跡で、竪穴式住居跡が3軒発見されました。昭和40(1965)年12月、42年8月の2回にわたって発掘調査が実施され、第3号住居跡を43年3月に復元しました。さらに付近一帯にも埋もれた住居跡があることが推定され、当時の生活様式やこの地域の歴史を知るうえで貴重な学術資料です。
この住居跡からは、壷、
時代 | 弥生後期 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 井原市 |
所在地 | 井原市美星町大倉 |
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この高札場のあるところの字は札場といいます。江戸時代後期の建設と推定されるが、年月日は不詳です。柵の中に柱を立て、
間口1.37m 奥行0.93mの規模となっています。
時代 | 江戸後期 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 井原市 |
所在地 | 井原市美星町黒木 |
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この墓の主である
細川通董の菩提寺である
本体石塔と玉垣など墓域の石質が異なることから、細川元純が大きな節目回忌での建立、またその後の末裔の玉垣付設の可能性も皆無ではないが、本体の保存状態も良好であり、市内でも有数の規模と風格を備えています。
細川家の浅口地域における権力や岡山池田藩の支藩体制下に移ってからの墓制を合わせ知る上では、歴史上極めて貴重な史跡です。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成28年4月20日 |
所有者・管理者 | 長川寺 |
所在地 | 浅口市鴨方町鴨方 |
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大江町の石塔山山頂(標高 105m)にある直径約15mの円墳で、墳丘中央部に、天井石が6枚あり、その下に、長さ3.5m、幅0.85mの竪穴式石室をもっています。石室は、塊状の割石が使用されており、側壁は上にいくにしたがってせり出すように築かれています。
昭和34(1959)年の倉敷考古館の調査で、この石室より、赤色顔料が塗られた男性の人骨、ガラス玉、鉄剣が出土し、古墳時代中期(今から約1500年前)に造られたことが確認されました。
この石塔山古墳以外に、北に伸びる尾根上には、前方後円墳を含めた古墳群が存在します。石塔山古墳を含めたこれらの古墳群は、古墳時代の前半に井原市南西部を治めた豪族やその関係者の墓であると思われます。
時代 | 古墳中期 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和40年8月25日 |
所有者・管理者 | 井原市 |
所在地 | 井原市大江町木田字木田 |
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嘉吉元(1441)年に建立された臨済宗
また、千畝周竹は、画聖雪舟と親交があり、そのため重玄寺は雪舟の終焉の場所と伝えられ、多くの文献にその記載があります。(『
創建後、数度の火災に遭い、天正年間(1573~1592)に焼失した際には豊臣秀吉が方丈を寄進したと言われますが、昭和30(1955)年鐘楼門と土蔵を残して再び全焼し、現存の重玄寺は井原市芳井町吉井
時代 | 室町 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成17年3月16日 |
所有者・管理者 | 重玄寺 |
所在地 | 井原市芳井町天神山 |
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重玄寺跡 | |
総社市で生まれた画聖 雪舟 |
遺跡は、石を積み上げて築かれた低い基壇上にある7基の塚状の石積みと、その南東に離れて単独に存在する1基の塚状の石積みから構成されています。これらの石積みの中央には石室が設けられていて、そのうち4基に
この遺跡の性格は、甕以外に出土品がなく、墳墓、経塚などが考えられますが今のところ断定はできません。この遺跡の近くには、
時代 | 平安~鎌倉時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成6年7月11日 |
所有者・管理者 | 両山寺 |
所在地 | 井原市野上町堂西字牛神 |
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町家(旧高戸家本宅)建物は、発見された棟礼によると貞享4(1687)年に修理を受けており、県下に残る最も古い江戸時代初期の貴重な町家です。旧高戸家新宅も本宅の建築年代から150年程あとに建てられたとみられ、江戸時代の建築物として貴重なものです。
土蔵は、基礎が
高戸家は、江戸時代中期以降名主役をほぼ世襲し、醤油業などを営んだ町家で、江戸時代岡山藩の支藩である鴨方藩の藩主の宿泊所としても使われていました。
旧高戸家住宅(母屋)は、平成10年3月24日に岡山県重要文化財に指定されています。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 史跡:平成23年10月25日 建物:平成10年3月24日 |
所有者・管理者 | 浅口市・個人 |
所在地 | 浅口市鴨方町鴨方 |
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旧高戸家住宅 | |
かもがた町家公園 |
大飛島洲の南遺跡は、古代に海上交通の安全祈願をした祭祀遺跡と考えられています。かつての飛島小中学校の校庭に位置しています。
昭和37(1962)年に、校庭に鉄棒を設置しようと地面を掘っていたところ、銅鏡・銅銭・土器類が出土し、発見されました。その後、4回にわたって発掘調査が行われ、奈良時代から平安時代の様々な遺物が出土しました。銅鏡、奈良三彩、皇朝十二銭、ガラス製品など、全国的に見ても宮廷や寺院などでしか出土しない貴重な品が含まれており、朝廷と直接係わりのある人たちによって祭祀が行われていたと考えられます。遣唐使の無事を祈る祭祀が行われていたのかもしれません。
時代 | 奈良~平安 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和38年12月25日 |
所有者・管理者 | 笠岡市 |
所在地 | 笠岡市大飛島 |
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笠岡市立郷土館 |
来迎院神護寺は、真言宗大覚寺派に属する寺です。創立・沿革については不詳ですが、もとは「神宮寺」と呼ばれていました。神宮寺は、大坊・中坊・般若坊・正円坊・長福坊・上学坊の六つの坊をもつ大寺院でした。長尾山には大坊だけが残り、今日の神護寺となりました。
現在、神護寺の境内は庭園として美しく整えられています。また、本堂は永禄11(1568)年に小田高清によって再建された笠岡市内で最も古い木造建築物であり、岡山県重要文化財に指定されています。
指定文化財種別 | 市 |
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指定年月日 | 史跡: 昭和35年12月26日 建造物: 平成13年3月23日 |
所有者・管理者 | 神護寺 |
所在地 | 笠岡市甲弩 |
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長福寺裏山古墳群は、5世紀に築造された笠岡市内最大規模の古墳群です。笠岡市
現在では、「かさおか古代の丘スポーツ公園」の一角として遊歩道が整備され、気軽に見学することができます。
時代 | 古墳 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和38年12月25日 |
所有者・管理者 | 笠岡市 |
所在地 | 笠岡市走出・山口 |
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長福寺裏山古墳群 |
この旧居は、昭和の偉大な漢詩人 阿藤伯海(1894~1965年)の生家です。阿藤伯海は、矢掛中学校・第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学、詩人の
昭和16(1941)年には、母校の第一高等学校の教授になり漢文を担当しました。当時、藤門の書生といわれた8人の中には大学総長、芥川賞作家や日銀総裁等の面々がいました。
昭和19(1944)年、郷里鴨方に帰り、一時期岡山県教育委員に任ぜられた他は一切職に就かず、超俗孤高の生涯を詩に託しました。
吉備真備顕彰碑のために作った絶筆の大作「
この旧居には、幕末から明治期に建築された母屋を中心に、離れ、蔵、門などがあり、周辺には伯海が愛した野山等の自然が残っています。往時の庄屋造の建物と、偉大な漢詩人阿藤伯海の故居としての歴史空間を保護し、後世に伝えることには大きな意義があります。
時代 | 江戸時代 明治時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成23年10月25日 |
所有者・管理者 | 浅口市 |
所在地 | 浅口市鴨方町六条院東 |
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阿藤伯海旧居 | |
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飛鳥時代に創建された寺院の跡です。今では大部分が水田となっていますが、発掘調査の結果、金堂や塔の跡などが確認され、おおよその伽藍配置が明らかになりました。また、出土した瓦から7世紀後半に金堂、次に塔が建立されたと考えられます。建物の瓦溜まりに混じって出土した土器から、平安時代の11世紀に主要な建物が失われたことがうかがえます。 現在廃寺跡を訪れると、露出している巨大な礎石が目に付くが、これは塔の中央にある柱の礎石です。また、寺院であった頃の敷地の区画が、今でも水田の畦の形に反映されているのは興味深いものです。 主な出土品は、笠岡市立郷土館に展示されています。
時代 | 飛鳥~平安 |
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指定文化財種別 | 県 |
指定年月日 | 昭和38年8月1日 |
所有者・管理者 | 笠岡市 |
所在地 | 笠岡市関戸 |
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青佐山台場跡は、水島灘を一望できる青佐山の中腹に築造されています。東南方の海に向けて張り出した、高さ約2mの土塁の間から二つの砲門を持つものです。池田家文庫の「青佐山見取絵図」及び「青佐山御台場之図」で確認できます。
台場は、海防のため、文久3(1863)年鴨方藩によって築造されましたが、明治4(1871)年廃藩とともに廃棄されました。尊王攘夷の藩政のもとに、海に面した寄島に築造された市内唯一の砲台場跡を物語る貴重な史跡です。
時代 | 江戸時代 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 平成23年10月25日 |
所有者・管理者 | 浅口市 |
所在地 | 浅口市寄島町青佐 |
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しかし、延福寺は江戸時代初め頃には衰微したようです。そして寛文12(1672)年、後月郡
時代 | 平安 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和36年10月4日 |
所有者・管理者 | 持宝院 |
所在地 | 笠岡市走出 |
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持宝院のヤマモモ | |
持宝院のヤマモモ |
山頂には
なお、祈雨神社は御滝神社の
時代 | 平安 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和49年7月30日 |
所有者・管理者 | 祈雨神社 |
所在地 | 笠岡市西大島 |
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井戸平左衛門正明は、世に「いも代官」と呼ばれた名代官です。享保16(1731)年、60歳にして
平左衛門は事態が一刻を争うと判断して、幕府の命令を待たずに独断で陣屋の蔵を開き「米はらい」をしたといわれます。また、被害の大きな村々の年貢を減免しました。さらに、やせ地でもとれる食物として甘藷(サツマイモ)を導入して、飢饉をしのぎました。
これらの優れた施策によって、井戸代官の支配地からは、ひとりの餓死者も出さなかったと伝えられます。享保18(1733)年5月、笠岡で病死し、各地に数百基の顕彰碑が立てられました。墓は笠岡の曹洞宗
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和49年7月30日 |
所有者・管理者 | 威徳寺 |
所在地 | 笠岡市笠岡 |
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代官 井戸平左衛門の墓 | |
威徳寺 | |
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笠岡市の
なお、当初「住居跡」とされていた
時代 | 古墳 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和33年4月25日 |
所有者・管理者 | 高島神社 |
所在地 | 笠岡市高島 |
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笠岡の八幡平にあった敬業館は、江戸時代に開かれた庶民のための教諭所です。
当時の笠岡代官・
その後、清先の子の
現在史跡地内には、近年復元した塾舎(生徒の寄宿舎)1棟と、石碑2基が残っています。「思徳之碑」は、早川代官の徳を慕って立てられたもので、文章は小寺清先、筆者は
時代 | 江戸 |
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指定文化財種別 | 市 |
指定年月日 | 昭和38年12月25日 |
所有者・管理者 | 笠岡市 |
所在地 | 笠岡市笠岡 |
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敬業館の跡 |
今から約400年前、宇喜多秀家の命により築かれた汐止めの堤です。堤は「宇喜多堤」と呼ばれ、現在の早島を走る県道倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われています。
井山宝福寺は、七堂伽藍を整えた臨済宗東福寺派の禅宗寺院です。画聖雪舟が幼少期修行をした寺としても有名です。
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宝福寺三重塔 | |
満谷国四郎 | |
宝福寺 | |
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高越城址は、北条早雲(ほうじょうそううん)が青年時代を過ごしたとされている高越城の城跡である。
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高越城跡 |
1907年、歌人・若山牧水が宮崎県への帰途、二本松峠(広島県との境の峠)で名歌「幾山河」を詠まれました。
吉備真備公の顕彰のため、吉備公館址と伝えられる場所に吉備真備公園が整備されています。また、江戸時代には吉備真備公の祖母の骨壺が矢掛町東三成の小さな丘で出土しています。
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吉備真備 | |
吉備真備公園 | |
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阿藤伯海記念公園 |
洞松寺は、矢掛町横谷にある曹洞宗の禅寺で、応永19(1412)年に喜山性賛(きさんしょうさん)という僧が開山しました。また、中世の貴重な古文書史料が「洞松寺文書」として保存されており、歴史的評価が高く、岡山県重要文化財に指定されています。
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洞松寺 | |
洞松寺山門 | |
洞松寺 | |
洞松寺山門 | |
洞松寺 |
高梁基督教会堂は、明治22年に建てられた現存する県内最古の教会堂で、高梁で最初の擬洋風建物である。
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留岡幸助 | |
高梁基督教会堂付近 | |
社会福祉の先駆者留岡幸助 | |
高梁基督協会 |
明治45(1912)年6月に撮影された吹屋の吉岡銅山から産出する銅鉱石などを運搬するために設けられた鉱山専用軌道(トロッコ道)の様子。トロッコとは軽便軌道の上を、手押しで走る小型の貨車のことをいう。明治41(1908)年9月、軌道は備中町田原~成羽町古町間に敷設され、開通した。全長約16kmで、田原、古町には停車場が設けられた。特に成羽川左岸の備中町市原付近は岩盤がそそり立ち、岩を掘削して道をつくる難工事であった。写真はその市原付近を写しており、工事の犠牲者を供養して刻まれた「南妙法蓮華経日蓮大土」の文字が見える。トロッコは一般的には一人押しで、銅山関係の物資が運搬されたが、程なく一般貨物や人を運ぶことも行われた。また、物資増加に伴い、成羽町坂本まで延長され、5~6台連結の馬トロッコも利用された。現在、線路は取り外されているが、道筋は比較的よく残っている。
時代 | 明治45(1912)年6月 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.11 |
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旧片山家住宅 附家相図 | |
ベンガラ館 |
明治40(1907)年頃の高梁の町並みを撮影。高梁川西岸からサーカットカメラを用いて撮影されたパノラマ写真と思われる。城下町は城を中心として発達した町のことで、戦国時代後期に戦国大名などが家臣団を集住させ、商人を集めて形成され、支配の拠点とした。近世になり城が山から平地にしかも大規模に造られるようになると、城下町もそれとともに平地に移り規模が大きくなった。しかし、備中松山城は中世に最も顕著に現れた「山城」で、「根小屋式城郭」の典型でありながら、近世城郭化した数少ない城の一つである。従って、城下町も中国地方の山間部に営まれるようになった。四方を標高400m前後の山々に囲まれ(市街地は標高60~70m)、南北3km、東西1kmの盆地の西側を北から南ヘ高梁川が流れ、その東岸に城下町は発達した。写真はまだ高梁川に橋は架けられておらず江戸時代の松山河岸の風景をよく伝えている。
時代 | 明治40(1907)年頃 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.12 |
高梁の町並み(大正10年ごろ) |
「夏くれば屋影の淵の涼しさに行交ふ人は過ぎがてにする」一説には矢掛の地名の由来となったともいわれるこの歌は治暦4(1068)年に行われた大嘗祭に藤原経衡が奏上した和歌である。交通の要衝として知られる矢掛の平安時代後期ののどかな風景が目に浮かぶ。現在の矢掛の町並みは小田川に沿った自然堤防上にあり、江戸時代初めに西国街道(旧山陽道)の宿場町として形態を整えていく。屋敷は間口が狭く、奥行の長い、「うなぎの寝床」と呼ばれる短冊形の地割りで、今でも通り土間を持つ妻入りの町家が健在である。本陣や脇本陣をはじめ江戸時代の旧姿をとどめた町並みは岡山県町並み保存地区に選定されている。また、近年、徳川13代将軍家定の正室天障院篤姫が輿入れの際、旧矢掛本陣に宿泊した記録(石井家文書)が見つかり話題となった。
参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.13 |
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明治40(1907)年頃の高梁基督教会堂と紺屋川周辺を撮影した。教会堂には現在のような鐘楼はなく、また、河岸には桜ではなく、柳の並木が見える。教会堂の川を隔てて北西側には藩校有終館跡(現高梁幼稚園)がある。キリスト教が高梁に伝わったのは、明治12(1879)年10月、当地選出の岡山県会の議員柴原宗助の尽力により、金森通倫(1857~1945)と中川横太郎(1836~1903)が伝導を行ったことによる。翌年、同志社創立者新島襄(1843~1890)の伝導を経て、同15(1882)年4月に高梁キリスト教会が創立した。同22(1889)年に現在の場所に教会堂が建てられた。現在、岡山県に現存する最古のキリスト教会堂として岡山県指定史跡となっている。現在、教会堂には昭和39(1964)年に設置された北海道にある札幌市時計台を模した鐘楼があり、護岸には桜が並木をつくり、紺屋川を彩っている。
時代 | 明治40(1907)年頃 |
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参考文献 | 高梁川流域今昔写真展p.13 |
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高梁基督教会堂(動画) | |
社会福祉の先駆者留岡幸助 |
宝永6年(1709)、に完成した旗本戸川家の陣屋跡です。明治維新後に取り壊されましたが、堀の一部とそれにかかる石橋が残存しています。
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戸川 安宅 | |
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古代山城の鬼ノ城(国指定史跡)は、西門建物復元などの史跡整備がなされており、「温羅伝説」の地でもあります。
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鬼城山ビジターセンター | |
埋蔵文化財学習の館 |
戦国時代から安土桃山時代にかけて備中国浅口郡を統治していた武将・細川通董。墓所は、貴重な史跡として現在に伝わっている。
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細川通董墓所 |
戦国時代の周防国山口の大内氏にまつわる出城。平成5年に復元された山城跡に物見やぐらと石碑が設置されています。
長福寺裏山古墳群は、5世紀から6世紀にかけて勢力を拡大させた豪族の墓である。笠岡市指定史跡。
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長福寺裏山古墳群 |
笠岡小学校の敷地は明治時代の小田県庁跡であり、当時の正門だった建物が今も残されている。笠岡市指定史跡。
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桜渓塾は、阪谷朗廬(さかたにろうろ)が開いた塾。その後。領主一橋家の招きで興譲館の初代館長となった。
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興譲館 | |
芳井歴史民俗資料館 | |
興譲館 | |
桜渓塾 | |
雨笠の松 |
猿掛城は、標高239mの中世以来の山城です。高松城水攻の際、毛利氏の本陣となった山城としても知られています。
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猿掛城址 | |
カゴの木 |
南北朝時代初期、新見氏が築城したとされる連郭式山城で、備中北部では備中松山城に次ぐ規模を誇る。
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ゆずりは城跡(楪城跡) |
岡山県下三大巨石古墳のひとつ。内部にある石室は、巨大ないくつもの石を精密に組み合わせた横穴式の大空間で、入口の羨道とその奥の玄室に分かれています。
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箭田大塚古墳 |
自然地形を利用し盛り土を行って整えられた墳丘の規模は、現在知られている弥生時代の墳丘墓としては最大級です。
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楯築遺跡 |
日本有数の銅とベンガラ産地として栄えた吹屋は、朱色の外観で統一された町並みが残る伝統的建造物群保存地区です。
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吹屋小学校 | |
旧片山家住宅 附家相図 | |
ベンガラ館 | |
吉岡鉱山専用軌道(成羽トロッコ道) |
室町時代の画僧・雪舟等楊生誕の地とされる総社市赤浜に、その功績を後世に伝えると共に、多くの人々が集い、交流する公園として雪舟生誕600年の年である令和2年に開園しました。園内には広場のほか、展示・交流施設や室町時代を感じられる家屋もあり郷土の誇りである雪舟に親しむことができます。